「第1章 遠い夢からの声」(1)
(1)
「――ねぇ、直人君はさ、この先もきっと……」
「……あっ」
窓の外から蝉の鳴き声が聞こえてくる夏の朝。
横溝 直人はそんな夢から一日が始まった。
まだ完全には回復し切っていない寝不足気味の体を起こして、重たい頭で数分前の光景を思い返す。
着ていたのは学生服だった。もう二十年近く経っているのに今でもたまに学生時代の夢を見る事がある。ぼんやりと靄がかかったような不安定な視界でかつての同級生達を思い出す。
話をしていた相手の顔や声に関しては朧げで完全には思い出せない。
今回見た夢の中で直人は、ある喫茶店にいた。学生時代によく通っていた喫茶店だ。この喫茶店で当時の自分はよく勉強をしていた。学校や家よりももココの方が集中出来て更に教えるのが上手な店員がいて、よく通っていた。
あれから二十年が経過した現在でも思い出せる当時の景色。
あの時が、まさしく直人の青春時代のピークだった。
直人は枕元のiPhoneを手に取る。まだ設定したアラームよりも二十分も早い。
「はぁ〜」
近頃、目覚ましよりも早く起きてしまう日々が続いている。起きないよりはマシだが、今から寝直すのは難しい。鳴る予定のアラームを削除して、直人はその場で大きく伸びをして、ベッドから起き上がった。
カーテンを開けて部屋に日光を入れる。
「あっつ、」
これでもかと夏を強調する太陽光に目を細めながらもエアコンとテレビのスイッチを入れる。途端に自分と共に寝ていた部屋が起き始めた。
直人はテレビを朝のニュース番組にチャンネルを合わせると、放置してシャワーを浴びに浴室へ向かった。
頭からシャワーを浴びて、重たい頭を徐々に覚醒させていく。
仕事で疲れているからあんな夢を見てしまうのだろうか。
出来れば有給が取りたいけど、まだ無理か。
そんな事を考えながらシャワーを終えて、ワイシャツに袖を通す。
1LDKの部屋はエアコンですぐに冷えてくれる。シャワー前に点けたおかげで、シャワー上がりで火照った体が程良く冷やされて気持ち良い。
着替えを済ませたら、冷蔵庫の上に置いてある食パンを一枚取り出して、トースターに入れてスイッチを入れる。
ジジジッ……と音を立てて、動き始めたトースターを余所に直人は冷蔵庫を開けて、麦茶が入ったピッチャーと四つ折りパックになっているヨーグルト一つ切り取って取り出した。麦茶は彼一人だったら、面倒で作っていない。
現在付き合っている彼女、木島 晴香が家に泊まりにきた際に作ってくれていた。彼女とは大学三年に就活の合同説明会で知り合ってからの付き合いだ。
生活環境が異なっているところからスタートしたので、お互いの時間を作る作業に抵抗はない。
実家暮らしの晴香は、主に金曜に泊まりに来て、一晩部屋で過ごしてから土曜に一緒に出掛ける関係になった。長期休みには旅行にも行く。
既に彼女の実家には何度か行っており、相手の家族と夕食を共にした事もある。大学の時は大学名、就職してからは会社名。聞かれる度に相手の両親からは、どこか肩書きで評価されているような気がするのだが、娘の将来を心配する親の気持ちからしょうがないと割り切っている。
晴香の両親からはそういう気配を感じるが、彼女本人からはその気配は感じていないので、直人はそれで良かった。
ピッチャーのお茶をコップに注いで口を付ける。冷たい麦茶が喉から全身に染み渡って気持ちがいい。
焼き上がった食パンを皿に移して、四つパックになったヨーグルトを載せたトレーを持ち、テーブルへ。時間に余裕がある今朝は、これくらい余裕のある時間が過ごせるが、時間がない場合はヨーグルトだけで済ませる事がある。
ニュース番組の左上に表示されている時間を目に入れつつ、朝食を食べていると今日が金曜日である事を思い出した。
ああ、晴香が来る日だ。
コーヒーを一口飲んだ直人は、ベッドの充電ケーブルに繋いだままだったiPhoneを手に取り、彼女にLINEを送る。
【おはよう。今日は月末で忙しいの確定してるから、帰るのが遅くなる。晩御飯を一緒に食べるのは難しい】
合鍵を持っている晴香は、直人の帰りが遅い場合は、先にこの部屋に帰ってきて夕食を作ってくれる。今日のように無理だと分かっている日は、予めこちらから連絡を入れておく。
ただの連絡事項になっているが、これはとても大事な事でかつて忘れてしまった日は大変な事になった。
今日は月末の金曜日。どう頑張っても先週より遅く帰るだろう。
朝の時点で既に帰りが遅くなる旨を書くのは、社会人を続けていく内に自分の中で許容出来るようになった。
送ったメッセージをしばらく眺めるが、すぐには既読が付かなかった。
晴香は、区役所に勤務している公務員だ。就活で様々な民間企業を受けたのだが、どうも沢山儲けるという行為が彼女の中で引っ掛かったらしく、それなら小さい頃から住んでいる町に貢献したいという考えから公務員になった。
公務員と言っても晴香の話を聞くと、仕事内容は自分達とそれ程変わらない。接するのが地域住民という点では、むしろ大変な事の方が多いだろう。たまに酔った彼女から愚痴を聞いていると、その片鱗を窺い知る事が出来る。
そんな事を考えているとiPhoneが振動して、晴香から返事が届いた。
【おはよう。じゃあ今日はご飯作って先に食べてるね】
晴香からの返信にはデフォルメされた白猫のスタンプ付いていた。それは彼女が好んで使うイラストレーターのスタンプだった。
それを見て、口元が緩みながらも【そうしてくれると助かる】と返事を書いた。
ゆったりとした朝の時間を過ごした直人は、時間になり身支度を整えて出発の準備を始めた。戸締まりを終えて、部屋の電気を消す。最後に玄関を開ける際に振り返って、「行ってきます」と誰もいない部屋に向かって、出発の挨拶をした。
今日、帰ってくる時は晴香が「ただいま」と言ってくれる。
それが今から楽しみだった。




