「第2章 思い出探索」(4-3)
(4-3)
和倉 瑠奈。
あゆみの口から出たその名前は、気を揺らして直人の鼓膜まで届いた。グリーンドアで写真を見た時より何倍も大きい衝撃があった。
そうだ! 和倉 瑠奈さんだ! よく瑠奈さんと呼んでいた。一度思い出すと、それがまるで世界のフォーマットだったかのようにカッチリと彼の頭の中で噛み合った。どうしてこんな当たり前の事をずっと忘れていたのだろうか。
衝撃を受けている直人の顔にあゆみが両肩を落として安心したようだった。
「良かった。その感じだと合ってるみたいですね」
「合ってるよ。名前を言われてしっくりきた。むしろ今まで何故忘れていたんだろうって、不思議なくらいだ」
「だと思います」
「っと言うと?」
あゆみが同意した意味が分からなくて首を傾げると、彼女は何かに気付いたように頭を下げる。
「すいません。別に変な意味では言ったわけじゃないんです。横溝さんが和倉さんの事を忘れてしまうのは、当然なんですよ」
「当然?」
意味が分からず、直人の頭の中で混乱が広がっていく。
「横溝さんは“忘望病”という病気をご存知ですか?」
「いや初めて聞く名前だ」
「ぼうぼう病。漢字で書くと、忘れるに希望の望の字です。症状は簡単に言うと、人から忘れられる病気です」
あゆみは淡々と説明して、カフェ・ラテに口を付ける。一方、病気の説明を受けた直人は、解決するよりもより混乱が深まった。
人から忘れられる病気? フィクションの世界じゃあるまいし、現実にそんな病気が存在するのだろうか。そう考えていると、それを見抜いたあゆみが小さく笑った。
「信じられないって顔をしていますね」
「だって、自分が忘れるならまだしも忘れられるなんて――」
あり得るのか。そう言おうとしたところで、あゆみが「けど、現に横溝さんは忘れていたでしょう?」と封殺された。
確かにそう言われてしまうと、その通りだった。
「じゃあ、俺は病気のせいで瑠奈さんの事を忘れていたと?」
「そうなります。忘望病はまだ世界的に見ても症例が極めて少ないそうです。もっとも少ないと言うのは、確認可能な時点でという意味なので、人知れずに罹った方はきっと多いと思います」
あゆみの言葉を聞いて、直人は心臓の鼓動が激しくなる。
人に忘れられる病気になんて罹ってしまったら、そもそも認知出来るのかすら怪しい。情報が進化した現代だからこそ、病気として存在しているが過去はどうなっていたか、想像するだけでも恐ろしい。
「詳しい症例については、インターネットで検索すれば、出てくるのでココでは少しだけに留めておきますが」
「分かった。後で調べてみるよ」
本当は今すぐにでも調べたかったが、あゆみの手前、それは控える。
「是非そうして下さい。和倉さんが忘望病を発症したのは、大学生の頃だったと姉から聞いています」
「大学生か、俺が会っていたのも丁度、それぐらいだったと思う」
記憶を辿る瑠奈の姿は高校生の自分よりも大人っぽかった。大学生だと言われたら納得出来る。
そして目の前にいるあゆみは、高校生にしては顔立ちが少し幼いかも知れないが、言葉遣いがとてもしっかりしている。このまま彼女が成長したら、きっと瑠奈のような大人に成長するだろう。
「どうされました?」
「あっ、いや。当時の俺が高校生で、丁度妹さんぐらいの歳かなって」
苦し紛れに放った嘘だったが、何故かあゆみは驚いた様子で目を見開いて口に手を当てていた。
「すいません。そうですね、大学生だったので時期的には、就職活動でしょうか。おそらく相当苦労したのでしょうね」
「あ、そうか。そうだよな」
就活なんて人に覚えてもらわないと始まらないのに忘望病との相性は最悪だ。少し想像するだけで大変な苦労している瑠奈の姿が浮かぶ。
「ええ、きっと。あっ、それで話を戻す前にそもそも姉が今日来れなくなった理由なのですが」
「それだ。どうしてお姉さんは来れなくなったの?」
直人の質問にあゆみは一拍置いてから、口を開いた。
「実は、姉の中で忘望病が進行してしまったからなんです」
「進行? 瑠奈さんの病気の影響が強くなったって事?」
「はい。横溝さんも後で知る事になると思いますが、忘望病の影響には個人差があります」
「個人差か」
自分や香夏子が忘れていて、さやかだけが覚えていたというのは、その個人差が影響しているのだろう。
その事を理解すると同時に直人は安堵した。
個人差が存在するという事は、全世界で同時に自分の事を認知出来なくなる訳ではないのだ。それなら発症直後は対策が打てるだろうし、何より寂しさが調整出来る。
「横溝さんは分かりやすいですね。今、ホッとしたでしょう?」
「顔に出ちゃってた?」
「ええ、出てました。でもまぁ、それも和倉さんの事を心配しているからなのは伝ってますから。優しい考えだと思います」
「あ、ありがとう」
正面からあゆみにそう言われて、直人は若干照れつつも「それでお姉さんはどうなったの?」と話を戻した。
「姉は忘望病の影響が比較的緩やかだったそうで、最近まで和倉さんと連絡を取っていたそうなんです」
「連絡を取っていたんだ」
「といっても、たまにメールや電話をする程度で。和倉さん側から連絡が届くのでそれに返してたようです。姉はもっと自分から連絡もしたかったみたいですけど、少しでも忘望病の進行を遅らせたいと。和倉さんからお願いされて断れなかったみたいです」
「なるほど」
進行が遅いといっても無症状な訳ではない。おそらく瑠奈はこれまでに同じような経験をして、自分なりに対処法を確立したのだろう。その彼女の願いをさやかが従わない訳がない。
「ところがその約束を先日、初めて破ってしまったようなんです」
「えっ?」
あゆみの言葉に直人の心臓の鼓動が速くなった。
「それって……、」
「はい。姉は横溝さんの事を話そうとしたんです。忘望病の人を思い出すというのは本当に珍しい事で、嬉しかったみたいで」
グリーンドアでさやかに会った際、彼女が嘘をついた真の理由が判明した。香夏子を守るだけじゃない。同時に瑠奈も守る為だったのだ。
それを俺が思い出したから元々の約束を破ってまで、伝えようとした。
直人の頭の中でパズルが組み上がっていく。
「そうか。それで、お姉さんは今日来れないんだな」
「はい。姉は連絡を取ってしまったせいで一時的ではありますが、和倉 瑠奈さんの事を忘れてしまったらしいです」
「やっぱりか……」
自分が余計な事をしなければ、そんな事にはならなかった。知らなかったとはいえ、申し訳ない事をした。どうしたって負い目を感じてしまう。
「あっ、でも! 忘れたのは本当に一時的のようで、すぐに思い出したそうなんです。ただ、これ以上横溝さんと接触するのは危険だと判断したようで……」
二人の間に沈黙が流れる。
最初は話ながら飲んでいたカフェ・ラテも途中から飲まずにテーブルに置いたままだ。沈黙を埋めるようにカップを手に取り、口を付ける。
温かったカフェ・ラテは冷めており、多少強くなった苦味が口内に広がった。
あゆみも気まずそうな顔を見せながらもカフェ・ラテに口を付けていた。




