第9話「【赤】とラーメン」
日曜の夕方、俺は駅前まで久美子を送っていった。
「土日、本当にありがとう!ずっと一緒にいられて嬉しかった。また明日ね!」
改札を抜けたあとも、久美子は何度も振り返って手を振っていた。
その笑顔が人混みに紛れて見えなくなると同時に、俺はポケットからスマホを取り出した。
真子とのトーク画面を素早く開き、短く打ち込む。
<空いたけど、来る?>
短文で送信すると、数秒もしないうちに既読がついた。
<ついた>
俺は、「は?」と声が出て思わず顔を上げる。
すると、ちょうど改札の横の柱にもたれながらスマホをいじっている真子と目が合った。
「おっ。」って言いながら、真子が片手を上げる。
普段のスーツ姿とは違い、ゆるいパーカーにショートパンツという、春にしては少しラフすぎる格好だった。
真子の細い脚が、ショートパンツから無防備に伸びている。
久美子のぽっちゃりとした身体を見送った数分後だというのに、俺の視線は反射みたいに真子へ吸い寄せられていた。
自分でも少し引くくらい、身体の反応が早かった。
それを悟られないように、少し声のトーンを落とした。
「お前、いたのかよ。」
「直樹が久美子を送ってくの、なんとなく待ってた。」
「なんだそれ。」
「なんか今日、話し相手欲しかっただけー。」
それだけ言うと、真子は気怠そうに欠伸をした。
さっきまで久美子が握っていた右手には、まだ微かに体温が残っている。
なのに俺は、その数分後には真子と並んで歩き始めていた。
罪悪感より先に、腹が減ったな、と思っている自分に気づいた。
そんな俺を見透かしたかのように、真子が俺に視線を合わせてきた。
「はらへー。ラーメン行こ。」
「いきなりだな。」
「この駅の近くにさ、甜醤らあめんって店あるの。辛い家系っぽいやつ。」
真子はスマホを操作しながら、少しだけ早口で続ける。
「全部乗せ頼むと、ドカ盛りの野菜とチャーシューが別の丼で来るらしいんだよね。挑戦しようぜ。」
「お前そんな細いのに食えんの?」
そう言いながら、俺の視線は無意識に真子の脚から上へ滑っていた。
パーカー越しでも分かる華奢なラインに、思考より先に身体が反応する。
「無理だったら、そこに掃除機いるじゃん。」
真子はニヤつきながら、俺のことを親指で指した。
「人を残飯処理係みたいに言うな。」
「性欲処理してあげてんだから、そんくらいしてよ。」
「じゃあ帰るわ。」
「あはは。そう言いながら奢ってくれるやつー。」
真子はそう言って、俺の腕を軽く引っ張った。
その距離感の近さに、もう驚きはない。
数時間前まで久美子と恋人らしい週末を過ごしていたことすら、少し前の出来事みたいに薄れていく。
駅前の雑踏を歩きながら、俺はぼんやりと思った。
切り替えって、案外こんなに簡単なんだな、と。
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「はー、食い過ぎ病ーだよー。」
真子はコンビニ袋を片手に、いつも通り気の抜けた声で部屋へ入ってきた。
「これ、新作ポテチのサイケデリック山葵味。」
「見た瞬間は爆笑して買ったけど、冷静になると意味わからんな。」
「冷静さは敵だよ!ドクペで乾杯してテンション上げろ!」
「お前ほんとそれ好きだな。ドカ盛りラーメンの後に摂取するカロリー量じゃねえよ。」
「いいの!直樹ん家来る時しか飲まないし。しかも、今日はダイエットドクペにしたから問題無し。」
そう言いながら、真子は靴下を適当に脱ぎ散らかし、そのままベッドへ倒れ込む。
「つっかれたぁー……」
ベッドへ倒れ込んだ真子が、不意に視線を止めた。
真子が「……あ。」と小さな声を上げた瞬間、俺の心臓が一度だけ強く脈打つ。
薄いグレーのシーツに、乾きかけた赤黒い染みが残っていたのに気づいたからだ。
昨日の夜に久美子が眉を寄せながら、それでも安心したように俺へ身体を預けてきた感触が、一瞬だけ脳裏を過る。
数時間前まで、このベッドには久美子がいた。
『……直樹くんの部屋、落ち着くね。』
そう笑いながら、眠そうに目を細めていた顔までも俺は思い出してしまう。
やばい、と思った時にはもう遅かった。
真子はシーツを数秒見つめたあと、「あー。」とだけ漏らした。
そして特に興味を失ったみたいに視線を外すと、そのままゲーム機のコントローラーを拾い上げる。
「洗ってないんだ。」
「……え?」
間の抜けた声が、自分でも驚くほど自然に出た。
「血って落ちにくいじゃん。放置すると面倒なやつ。」
真子は欠伸混じりにそう言いながら、コンビニ袋からポテチを取り出す。
そこには驚きも、嫌悪も、探るような色もなかった。
ただシーツに血が付いているという事実だけを認識して、処理を終えたような反応だった。
「……気にならないのか?」
思わず聞くと、真子は「んー?」と気の抜けた声を出す。
「別に。直樹が誰と何してても、私には関係ないし。」
その言葉は、妙に軽かった。
普通なら責められる場面のはずなのに、真子は最初から問題として扱っていない。
久美子があれだけ大事にしていた恋人になった夜を、真子はシーツの汚れ程度で通り過ぎていく。
その温度差が俺の罪悪感を鈍らせ、胸の奥に残ったのは、安堵に近い感覚だった。
「ほら、早くゲーム。」
真子はもう、その話を終わったものとして切り捨て、慣れた手つきでゲーム機を起動する。
「今日はこっちで対戦するよ!もう左のGTRのみで戦う女ではない!」
「お前、ほんとゲーム中心だな。」
「ゲームやりたガールだからね。」
真子はそう言いながら、勝手に冷蔵庫を開けてドクペを突っ込んだ。
その自然さに、違和感はなかった。
テーブルの端には、昼に久美子が置いていった小さな菓子袋がまだ残っている。
真子はそれを気にする様子もなく、「なんか腹減った。」とポテチを開け始めた。
切り替えは、想像していたよりずっと簡単だった。
俺はその異常さを、正常だと感じ始めていた。
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月曜日、駅のコンビニで真子と別れた俺は、研修室に少し早めに入った。
朝の雑談とキーボード音が混ざる中でも、久美子の明るさは遠目から分かるほどだった。
「直樹くん、おはよう!」
俺を見つけた瞬間、久美子が小走りで近づいてくる。
その歩調には、以前までの遠慮がないように感じた。
嫌われてないか、迷惑じゃないか、そんな怯えを探るような視線はもう消えている。
代わりにそこにあるのは、愛されてるという安心感なのかもしれない。
いずれにしても、久美子の態度は目に見えて変わっていた。
休憩時間になるたびに視線を向けてくるし、スマホにも頻繁に通知が届く。
<昨日、本当に幸せだった!>
<研修終わったら少しだけ話せる?>
<ずっと一緒にいようね。>
送られてくるメッセージの一つ一つが重い。
以前の俺なら、その期待の密度に息苦しさを覚えていたと思うが、今は不思議と焦りがなかった。
むしろ、ようやく攻略手順が固まったゲームを触っている時みたいな感覚に近い。
ようやく、挙動が読めるようになってきた。
俺はそう思いながら、届いたスタンプへ適当なハート付きのスタンプで返信を返す。
一度成功パターンを確立してしまえば、後は難しくない。
適切なタイミングで肯定し、予定を共有し、不安になりそうな箇所だけ先回りして埋める。
たったそれだけで、久美子の情緒は驚くほど安定するだろう。
共有カレンダーへ予定を書き込みながら、俺は小さく息を吐く。
思っていたより、ずっと簡単だった。
不安になりそうな箇所だけ先回りして埋めれば、久美子は安定する。
久美子の愛情は管理可能な段階に近づき始めているのかもしれない。
俺はそうやって残りの研修期間を、久美子から愛情を、真子から快楽を享受して過ごした。
研修が終わる頃にはもう、俺は着信タイミングだけで誰からの連絡か判別できるようになっていた。
そして逆に、通知が鳴らない時間へ、わずかな苛立ちを覚え始めていた。




