最終話「A CPU Problem」
一瞬、言われた意味が分からず、時間が止まった。
耳元では、通話の小さなノイズだけが規則正しく流れている。
癖なのか分からないが、反射的に俺の脳は、原因の特定を開始した。
「……何か、俺に嫌なことあった?…嫌だったところとかあるなら言って、俺、直すからさ…」
奈南はすぐに答えず、長い沈黙が生まれる。
そして、数分後に小さな声で、「違うの…直樹は何も悪くないよ。」と聞えた。
「悪くないなら…」
「私の問題なの。」
俺の言葉を遮るように、奈南が続けた。
「直樹が優しくしてくれればくれるほど、なんか、私、自分が分からなくなっちゃって……本当にごめんね。」
悪くないのは俺で、問題は奈南にある。
その言葉を聞いた瞬間、俺は理解した。
これはもう、話し合いで解決する段階ではない。
これ以上何を聞いても、奈南は答えられないのだろう。
理由や原因は分からないが、この話を長引かせること自体が、奈南を困らせることだけは分かった。
だから俺は、一番摩擦の少ない返答を選んだ。
「……分かった。奈南の言う通りにしよう。」
俺の返答を聞いて、奈南が、「ごめんね……」と呟いた。
「じゃあ、おやすみ。」
「うん。おやすみ……」
俺は奈南のおやすみを聞くと、通話を切りスマホを耳から離す。
不思議なくらい、何も感じなかった。
ただ、画面の上に表示された、<通話時間 2分14秒>という数字だけが、静かに残っていた。
電気も点けていない部屋は、窓の外から流れ込む街の明かりだけで薄く照らされていた。
俺は定位置のソファに腰を下ろし、スマホを開いていつもの<奈南用メモ>を開く。
一番下に、新しい行を作り、<距離を置きたい>と、入力し終える。
何が足りなかったのか、どこかで間違えたのか、それとも、あの時検索した『弱さを見せる』という手順が、必要だったのか。
パソコンを付け、これまでのデータを見ながら、脳内で何度も奈南を再生する。
奈南の言葉、表情、メッセージ、デート、それらのどこかに原因があるはずだった。
どこを修正すれば回避できたのか、どこを変えれば、別の結果になったのか。
その答えは、まだ見つからない。
「でも……」
画面のカーソルを見つめながら、俺は小さく呟く。
「次は、もっとうまくやれる気がする……」
奈南が求めていたものも、結局理解できなかったが、今回の経験で新しい知見は増えた。
これまで知らなかったパターンも見えたことから、俺の収集がまだ足りないだけだと理解できた。
もっと観察して、もっと学習して、もっと適切に立ち回ればいい。
今回の失敗も、次のためのデータになる。
そう考えた瞬間、胸の奥に張り付いていた不快なノイズが、ゆっくりと静まっていった。
まだ、次があるから大丈夫だと。
俺は小さく息を吐くと、スマホの予定表アプリを開く。
白い予定表に【白】で入れた未来を消していく。
次の金曜日の夜、土曜日、日曜日。
不要になった【白】をシステムのメンテナンスを行うように、頭の中も同時に整頓していく。
次回のために、余計なノイズは減らしておくべきだ。
並んでいた【白】の予定を、1つ残らず消し込んだ後、今、画面に残っているのは、仕事の予定を示す橙色だけだった。
その光景を見て、俺はふと1年前の大学時代を思い出した。
女性と触れ合う機会等無く、研究と就活に追われながら、ただ悶々と暮らしていたあの日々。
その時と比べれば、得られたものは多い。
女性経験は増え、女性に対しての管理ノウハウも少しずつ蓄積されている。
そう考えると、不思議と特別な感情は湧かなかった。
そんなことを考えていると、スマホが短く震えた。
<まーひー>
真子からの相変わらずなメッセージに、思わず小さく笑みが零れる。
<り>
<パチ屋うらに出来たまーらーたん、今からでも空いてるから集合>
<oui>
<仏語うざ、男ならYesかハイだろ>
それだけのやり取りなのに、なぜか胸の奥が軽くなり、少しだけ気持ちが落ち着いた。
俺は立ち上がり、駅前のパチンコ屋の裏、新しくできたという麻辣湯屋へ向かった。
向かう途中に、閉店間際の定食屋の前で、不意に足が止まった。
ハンバーグ。
竜田揚げに、卵焼き、久美子が作ってくれた弁当にどこか似ていた。
何となくスマホを取り出し、トークアプリを開く。
<古見久美子>
その表記を見つめてタップすると、最後のメッセージの日付は、もう随分前になっていた。
画面を戻し、削除の文字に指を乗せるが、押せなかった。
通知をオフにしようと設定画面を開くが、そこでも指が止まる。
俺は、自分の指が動かない理由は考えず、ただ、何となく画面を閉じた。
店を通り過ぎたときに急に吹いた夜風が、いつもより少しだけ冷たく感じる。
歩きながら、スマホがまた震えた。
<おそいから、直樹のおごりね>
そのメッセージを見て、俺は小さく息を吐く。
「…今……行く。」
誰に聞かせるでもなく呟いて、俺は少しだけ歩く速度を上げた。
夜風はまだ冷たかった。
変数は今日も、処理待ちのままキューに積まれていく。
エラーコードは、まだ出ていない。




