第79話「【白】の通告」
数週間後、変化は、目に見えないほどほんの僅かな変化から始まった。
以前の奈南は、<おはよー!今日も頑張ろー!!>と送ってきていた。
最近は、<おはよ、今日も頑張ろ>になっていた。
それだけなら誤差かもしれないが、俺の脳内には「誤差」として処理できない変化が少しずつ蓄積されていた。
毎週金曜日になると送られてきていた、<会えるの楽しみ!>というメッセージは、いつの間にか姿を消していた。
晩に定期的に来ていた通話も、最近では十分も経たないうちに終わることが増えている。
<今何してる?>、<今日何食べた?>、そういった他愛もない確認のようなメッセージも、気付けば届かなくなっていた。
それに気づいた俺は、スマホから抽出したここ数週間のデータを整理していた。
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対象:南奈南
・平均返信文字数:前回比-18%
・絵文字、顔文字使用率:低下
・週間総通話時間:前月同期比-65%
・「会えるの楽しみ!」発言:消失
・「今何してる?」系メッセージ:消失
>
仕事の繁忙期か、疲労か、気分か、体調か、これは一時的な変動と言えるのか。
いくつかの要因を考慮しても、この減少傾向は無視できなかった。
俺は静かな部屋でスマートフォンを見つめながら、小さく息を吐く。
奈南は少しずつ、本当に少しずつ熱だけが失われ始めている気がする。
原因は分からないが、このまま放置すれば、いずれ致命的なエラーに繋がる。
それを回避するためには、既知の有効な入力を増やすしかない。
奈南からのメッセージには、これまで以上に早く返信する。
毎晩の<おやすみ>は、必ずこちらから送るといった具合に。
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ある平日の昼休み、相変わらず自席でおにぎりを食べながら、スマホを開く。
<ちゃんとご飯食べてる? 午後も無理しないでね>
送信。
夕方になっても返信が来ない日は、追撃するように労いの言葉を送る。
<今日もお疲れ様。疲れてるだろうし、無理して返信しなくていいからね>
週末のデートも、これまで以上に奈南優先で組み立てた。
行きたそうな店、疲れにくい移動経路、混雑しない時間帯、長居できるカフェから帰宅時間と、俺は一つ一つ、細かく調整していく。
不満になりそうな要素を事前に排除し、減点される可能性を潰す。
それが最善だと思っていた。
だが、修正を重ねれば重ねるほど、返ってくる結果は、少しずつ俺の予想から外れていった。
<ありがとう>
<わざわざ調べてくれてありがとう>
<いつも気遣ってくれてありがとう>
<ごめんね、助かる>
文字としての<ありがとう>は増え、奈南の感情から出る言葉は消えていった。
どこか他人行儀な謝意だけが積み重なっていく。
それでも俺は、まだ悲観していなかった。
原因は分からないが、まだ改善できる。
入力が足りないだけかもしれない。
もっと適切なタイミングで、もっと正確に、もっと奈南のことを理解して、考えればいい。
この謝意は、静かな撤退の始まりでは断じて無いと、信じて。
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ある日の深夜。
最近では十分ほどで終わることが増えた、いつもの通話の最中だった。
受話器の向こうから、布団に身体を預けるような小さな衣擦れの音が聞こえる。
しばらく他愛のない話をした後、奈南が小さく息を吐いた。
「ねぇ、直樹。……そんなに頑張らなくていいんだよ?」
「え?」
俺が思わず聞き返すと、奈南は少し困ったように笑った。
「なんかさ、最近の直樹、すごく頑張ってる感じする……だから、そんなに無理しなくていいんだよ?」
その声は穏やかで、責めているわけでも、怒っているわけでもなかった。
ただ、本当にそう思っているような、優しい声だった。
「いや、別に無理なんかしてないけど…」
声に出しながら、俺は思わず眉をひそめる。
「奈南、最近忙しそうだからさ。俺ができることやってるだけだよ……それ、負担になってる?」
「ううん、全然……負担とかじゃないよ。いつも優しくしてくれてるし、本当に感謝してる。」
その返事に、俺は小さく笑った。
「だったら無理じゃないだろ。俺が好きでやってるんだから、気にしなくていいよ。」
これは俺がこれまで学習してきた、正しい恋人の在り方だった。
相手を気遣い、優先し、困らせないし、傷付けないと、そうやって積み重ねてきた結果なのだから、それを無理と呼ばれる理由が、俺には分からなかった。
受話器の向こうで小さな沈黙が落ち、やがて奈南が「……うん…そうだね。」と小さく答えた。
「直樹は、そうだよね……ごめん。変なこと言った。」
それだけ言うと、奈南は少しだけ笑った。
「いや、別にいいけど…」
「うん。」
再び沈黙が落ち、その日の通話はどちらかともなく切れてしまった。
そのまま、俺は今の通話の声色を思い出していた。
奈南は、何かを諦めたようにも、何かを飲み込んだようにも聞こえた。
だが、その意味までは、俺には分からなかった。
「電話終わり?続きしよーよ。」
背後のソファで寝転がっていた真子が、コントローラーを振りながらあっけらかんと言った。
「ああ、悪い。」
俺はスマホをテーブルへ置き、コントローラーを握り直した。
「じゃ、続きやるか。」
「よしきた!」
真子が笑って、画面の中でゲームが再開される。
さっきまで奈南と話していたことも、受話器越しの沈黙も、胸の奥に残った微かな違和感も、ゲームの音に少しずつ掻き消されていった。
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そして数日後、夜の10時過ぎにスマホの着信が鳴る。
奈南の名前を見て、俺はすぐに通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「うん……」と言う奈南の声は、いつもと変わらなかった。
少し疲れたような、柔らかい声で、そのことに、俺は少し安心する。
だが「ごめんね、直樹。」という一言で、何かがおかしいことだけは分かった。
「何が?」
俺が聞き返すと、小さな沈黙が生まれ、受話器の向こうから、微かな息遣いだけが聞こえる。
そして奈南は、静かに言った。
「……ちょっと、距離置きたいかも。」




