第77話「【白】の言葉」
前回のデートから数日後、定時直後のオフィスでパソコンの画面に向き合っている。
今日も残業かと思いながら、真子に連絡しようとした時、スマホが小刻みに震えたため、画面をタップして通知を開く。
<今日、もしよかったら直樹んち行っていい?>
画面に浮かんだその一文を見つめながら、俺は静かな納得感を覚えていた。
やはり、俺の見立ては間違っていなかったのだと。
前回、疲れているように見えた奈南は、平日夜ならそのまま家でゆっくり過ごせる。
その答え合わせなんだと思った俺は、小さく笑った。
<もちろんいいよ!ちなみに、何時位に駅に着きそう?>
そう送った後、すぐさま真子とのメッセージを開く。
<社畜デー、終電コースだから今日家居ない>
送信後数秒で<先輩達とオールダーツの日だから5時くらいに行く>とふざけた返信が来た。
それと同時に奈南からも返信が届く。
<ちょっと残業あるから、19:30くらいに直樹の最寄り駅かな?>
俺は自分の今日必須タスクの量を考えながら<おっけー!会えるの楽しみ!>と、送った。
---
恙無く残業を終え、19時半少し前、俺は最寄り駅の改札前で奈南を待っていた。
仕事帰りの人波の中、スマートフォンを眺めていると、改札の向こうから小走りで近付いてくる姿が見えた。
「直樹ー!」と、少し大きめのトートバッグを肩に掛けた奈南が、嬉しそうに手を振る。
「奈南、お疲れ。」
「ちょっと遅くなっちゃったかな……直樹、待った?」
「全然、大丈夫だよ。」
「迎えに来てくれてありがと。」
そう言いながら、奈南は少し照れくさそうに笑った。
「夜だし、一人で歩かせるのもな。」
「えへへ。」と笑いながら奈南は俺の腕に軽く抱きつく。
「なんかさ、仕事終わりに彼氏が迎えに来てくれるのって、ちょっと憧れてたんだ。」
「そんな大したことじゃないだろ。」
「大したことだよー。」
奈南は嬉しそうに笑いながら、俺の顔を覗き込む。
「直樹って、本当に私のことよくしてくれるよね。」
「好きな人なんだから当たり前だろ。」
「ふふ。」
奈南は小さく笑うと、俺の腕に身体を寄せた。
「なんか幸せ。」
駅前の人混みを抜け、2人でゆっくり歩く。
「お腹空いた?」
「ぺこぺこー。」
「パスタでも茹でようかと思ってる。キャベツ多めで野菜も取ろう。」
「えっ、ほんと!?嬉しい!」
奈南は子供みたいに声を弾ませた。
「直樹って、ほんと優しいなぁ。」
奈南は表情は穏やかなままそう呟いて、腕の力を少し強めた。
その反応から、俺はきっと今日も何もかも上手くいくという確信を抱きながら、マンションへの道を歩いていった。
マンションへ着くと、奈南は「お邪魔しまーす。」と靴を脱ぎ、そのままリビングへ向かった。
俺はその姿を見ながら、「ちょっと待ってて。すぐ作るから」と言いながら、手を洗う。
「私も手伝おっか?」と、奈南小首を傾げた。
俺は、「大丈夫。座ってて」と返事をしながら、冷蔵庫を開き、キャベツ、ベーコン、しめじを取り出す。
ふと目に入ったのは、開封済みの減塩めんつゆと、野菜用のドレッシングだった。
『入れておくから、1人の時も野菜パックとか買ってかけて食べてね。』
そう言って笑っていた久美子の顔が、不意に脳裏をよぎった。
賞味期限は問題ないし、減らす意味でも、これを使うのが丁度いいだろう。
めんつゆをベースにベーコンとキャベツを炒め、和風パスタに仕上げる。
余ったキャベツはキュウリを手でちぎりって皿へ盛り、ドレッシングにごま油を足して簡単なサラダも添えた。
出来た料理をテーブルに並べると、奈南が「わぁ!」と目を輝かせる。
「すごい!美味しそう!」
「簡単なものだけだけど。」
「いやいや、残業の後に作るのは大変だし、凄いよ!ありがとう!」
奈南は嬉しそうに手を合わせ、「いただきまーす!」と言ってすぐに、一口食べ、ぱっと顔を綻ばせた。
「おいしい!」
「口に合った?」
「うん!なんかめんつゆベースなのに、しょっぱくなくてまろやかっていうか……こういう優しい味好き!」
そう言って笑う奈南を見て、俺も自然と頬が緩んだ。
「野菜も取らないとな。」
「分かってますよー!」
奈南は子供みたいな顔で笑いながら、サラダを口に運ぶ。
「なんかこういうの、いいよね……」
「こういうの?」
「うん。外で高いご飯食べるのも好きだけど、こうやって普通に家で食べるのも、なんか落ち着く。」
「そうか?」
「うん。なんか良い…」と言って笑う奈南の表情は穏やかだった。
今日は全て上手くいくという確信がさらに強固になり、俺は向かいに座る奈南の笑顔を眺めていた。
---
食後、2人でソファに並び、他愛のない会話が部屋を満たしていく。
俺は奈南の話を一切遮らず、余計な正論も挟まず、ただ穏やかに受け止める。
奈南は終始リラックスした様子で楽しそうに笑い、職場の人間関係のちょっとした出来事を話してくれた。
「このソファ、ほんと座りやすいねー。」
「結構いいやつなんだよ。長時間座っても疲れないし、画面ずっと見ててもあんまり肩こらないし。」
「いい買い物したねー。」
奈南が気持ちよさそうに背もたれへ身体を預ける姿を見ながら、俺も小さく笑った。
真子ならすぐ横になってスマホを弄り始めるところだが、奈南は背もたれに身体を預ける程度で、行儀よく映画を待っていた。
それでも、居心地の良さは十分伝わっているらしい。
やがて、奈南が以前見たいと言っていた恋愛映画をサブスクリプションで流し始めた。
「これ、気になってたやつ!でも、講演してた去年は就活まだ続いてて断念してたんだよね。」
「そっか、頑張ってたんだな。」
俺はそう言って、部屋の明かりを少し落とし、プロジェクターが壁に鮮やかな映像を映し出す。
奈南は自然と俺の肩に頭を預けてきたため、俺の首と頬に柔らかな髪が触れる。
映画のタイトルコールを見た瞬間、入社前のクリスマスイブに、久美子と2人で見に行ったことを思い出した。
当時はまだ付き合ってもいなかったが、一緒に見に行った記憶を鮮明に思い出してしまう。
隣で見ている奈南の表情は柔らかく、時折小さく笑いながら画面を見つめていた。
これは非の打ち所がない完璧な時間で、これまでの俺の記憶が上書かれている感覚に陥る。
それゆえ、俺には全てが美しく最適化されているように感じた。
やがて映画のエンディングロールが静かに流れて消えたが、俺たちは無言のまま温かいコーヒーをマグカップからすすっていた。
「ねぇ、直樹……変なこと、言ってもいい?」
そんな濃密な静寂の中、奈南が手元のマグカップの縁を見つめたまま、ぽつりと声を漏らした。
「何だよ、改まって。いいよ、何でも言って」
俺はカップをローテーブルに置き、奈南の横顔を見て少し笑った。
奈南と目が合った後長い、長い沈黙の末、彼女は消え入るような声で言った。
「なんかね……一緒にいるのに、時々、急にさみしくなることがあるんだ。……楽しいし、幸せなんだよ?」
奈南は少し躊躇うように視線を泳がせ、自分の細い指先を弄んだ。
「直樹のこと好きだし。…なのに、なんか、急に一人みたいな気持ちになる時があるの。変だよね……私、自分でもよく分かんない。」
「さみしい?一緒に居るのに?」
俺は思わず、その単語をそのままオウム返しにしていた。
「うん……ごめんね、変なこと言って」
奈南は無理に口角を上げて誤魔化そうとしたが、その瞳の奥は全く笑っていなかった。
俺の脳内システムが、一瞬でフリーズした。
こうして同じ部屋の、同じソファに隣り合って座り、食事も会話も映画も奈南の希望通りに消化し、スキンシップも十分に取っており、今夜はこれから、俺の部屋に泊まるのだと思う。
これほど完璧に条件を満たしているにもかかわらず、なぜ寂しいと吐露されるのか。
俺は自分の行動を遡っても、非の打ち所がないことしか分わからなかった。
「……俺、本音で話してるけどな。」
戸惑いを隠せないまま、俺はそう言葉を返した。
「うん、分かってるよ。」
「でも、俺はちゃんと好きだし、隠してることもないし、奈南のこと大事に思ってる。だから、そんなに気にしなくても大丈夫だろ。」
俺としては、論理的に寂しくない理由を提示し、奈南の不安を解消しようとした。
しかし、奈南の表情は晴れず、どこか諦めたような微かな笑みを浮かべた。
「うん……そうだよね。直樹の言う通りだよ。ごめん、変なこと言っちゃった。今の、忘れて……」
「気にするな。最近仕事が忙しかったから、メンタルが疲れてるんだよ。今日はもう休もう。」
「うん……」
話題はそこで終わり、2人で歯を磨き、明かりを消し、ベッドに入る。
奈南は「おやすみ。」と呟くと、自然に俺の胸元へ身体を寄せてきた。
「ん……あったかい。」
そう言いながら、俺の腕を抱き枕みたいに抱えて、目を閉じる。
俺も髪を撫でながら、「おやすみ。」と返した。
それ以上はなかったが、拒絶されたわけでも、嫌がられたわけでもなく、ただ奈南は静かに眠り始めた。
俺は天井を見上げたまま、目を閉じることができなかった。
今日の流れなら、そのまま自然に身体を重ねることになると思っていた。
駅まで迎えに行って、料理をして、奈南が見たがっていた映画も見て、同じベッドで眠っている。
条件としては十分だったはずなのに、奈南は「さみしい」と言い、俺の隣で眠っている。
何が正解だったのか分からず、俺は奈南の寝顔を見下ろす。
安心しきったような寝顔を見ると、俺が嫌われているようには見えない。
だが、身体を重ねることもなく、こうして眠っている。
入力と出力が噛み合わないことが、俺の胸の奥に小さな苛立ちとして残っていた。
別にしたかったわけじゃない。
ただ、こういう流れなら、自然とそうなるものだと思っていたからこそ、理解ができないのだ。
「……分かんないな。」と、誰に聞かせるでもなく呟く。
俺は枕元のスマートフォンを手に取り、いつもの<奈南用メモ>を開いた。
新しい行を作り、<さみしい>とだけ入力するが、その先が続かない。
その下に書くべき対策が、何も思い浮かばなかった。
数秒、画面を見つめたまま指が止まる。
やがて俺は小さく息を吐き、スマートフォンを閉じた。
「……まあ、考えすぎか。」
隣では奈南が穏やかな寝息を立てている。
その寝顔を見ていると、少しだけ安心した。
きっと大丈夫だ。
また来週になれば、全部上手くいく。
そう思いながら、俺は静かに目を閉じた。
奈南が絞り出した、あの『さみしい』という白い言葉だけが、暗闇の中に残っていた。




