第75話「【白】の管理」
気付けば、奈南は裸のまま俺の腕の中で穏やかな寝息を立てていた。
少し前に『昔から考えると、ほんと、直樹とこんな風になるなんて思わなかったな……』と吐息の混じる声で、奈南が小さく笑ったのは可愛かった。
そして、『なんか、不思議。……でも、嬉しい……』と言いながら俺の頬に触れた奈南の指先は温かく、その瞳は柔らかく細められていた。
『……好きだよ』
照れくさそうにそう言ったあと、奈南は自分で恥ずかしくなったのか、顔を隠すように俺の胸元へ額を押し付けた。
そして今、穏やかな寝息だけが静かな部屋に響いている。
少なくとも俺には、彼女が安心して身を委ねてくれているように見えた。
俺はその寝顔を少し眺めた後、意識を手放した。
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翌朝、カーテンの隙間から差し込む朝の光の中で目が覚めた。
そのまま俺は、起こさないようにベッドを抜け出し、キッチンでお湯を沸かしながら、俺は胸の奥に広がる静かな満足感を味わっていた。
思えば、高校のころからここまで来るのに、随分遠回りをした。
失敗したことも、どうすれば上手くいくのか分からず、何度も悩んだこともあった。
それでも、全部無駄じゃなかった。
相手の話をちゃんと聞き、焦って自分の気持ちばかり押し付けず、居心地のいい時間を作り、求めている距離感を見誤らないこと。
そういうものも、今まで出会ってきた人たちとの時間の中で、少しずつ覚えてきた。
無駄だったことなんて、一つもなかったのかもしれない。
振り返れば、遠回りに見えた経験も、必要だったのだと思う。
そして今、目を覚ませば、隣に奈南がいる。
昨日の夜を思い出しながら、俺は小さく笑った。
「ようやく、ちゃんと管理出来るようになったんだな」
口から漏れた独り言は、不思議なくらい自然だった。
俺はもう昔の俺ではなく、過去の失敗を繰り返すこともない。
好きな人を笑顔にさせて、話を聞いて、安心させて、一緒に朝を迎える。
そんな当たり前の幸せを、今度こそちゃんと手に入れられた。
湯気の立つコーヒーを2人分用意しながら、俺は胸の奥に広がる穏やかな幸福感に静かに浸っていた。
そして、ようやく、必要な要素がすべて揃ったのだと思った。
「ん……おはよ、直樹……」
目を覚ました奈南が、寝ぼけ眼のままベッドから出てきて、俺が淹れたコーヒーを受け取る。
立ち上る湯気に目を細めながら、彼女は小さく笑った。
「やっぱり朝のコーヒーって幸せだよねぇ……」
「昨日も飲んでたのに、飽きないな。」
「飽きないよー!」
そう言ってマグカップを両手で抱えた奈南は、ふと何かを思い出したように俺を見上げた。
「ねぇ、直樹……」
「ん?」
「直樹ってさ……たまーに、何考えてるか分かんない時あるよね?」
トーストを皿に移しかけていた俺の手が、一瞬だけ止まる。
「何だよそれ。」と思わず笑うと、奈南もくすっと笑った。
「いや、変な意味じゃないよ?」
「変な意味にしか聞こえないけど?」
「うーん……なんて言えばいいんだろ。」
奈南はマグカップを唇に運びながら、小さく首を傾げる。
「すごく優しいし、私のことよく見てくれてるし、安心するんだけどさ……」
「けど?」
「なんか、時々すごく……うーん……遠いところにいる感じ?」
「遠い?」
「そうそう。なんかね、全部お見通しって感じなのに、直樹のことは見えないというか……」
そこまで言ったところで、奈南は自分で可笑しくなったように吹き出した。
「ごめん、何言ってんだろ。私…」
「朝だから頭回ってないのか?」
「かな?」と、ケラケラ笑いながら、奈南は立ち上がる。
「でも、変な意味じゃないからね!」
そう言って後ろから俺の腰に抱きつき、頬を背中に押し付けた。
「ぎうぎうー!えへへー!」
「くすぐったいって。」
奈南の柔らかな体温を感じながら、俺も小さく笑う。
奈南の言葉は、寝起き特有の取り留めのない感想のようなものだろう。
人間の会話には、こういう曖昧なノイズも混ざるのは仕方ないことで、いちいち意味を探すほどのものでもない。
俺はそう判断すると、バターを塗ったトーストを皿に並べた。
窓の外では、休日の穏やかな朝日が街を照らしている。
そして俺は、この静かな朝の時間こそが、自分の求めていた幸せそのものなのだと、疑いもなく信じていた。
昼過ぎには奈南を最寄り駅の改札まで送り届け、自宅へ戻ってきた。
玄関のドアを閉め、一人の空間に戻ると、俺はそのままソファへ腰を下ろし、スマホを取り出した。
何気なく予定表アプリを開くと、相変わらず真っ白い予定表だった。
だが、この空白はいつまでも空白のままではない。
いつでも【白】で埋めることができる。
「やっぱり、間違ってなかった。」
学習したことを積み重ねていけば、人間関係はちゃんと形になり、奈南と一緒にいられる。
俺は無意識に頭の中で来週の予定を整理していた。
土曜の店はイタリアンじゃなくて和食、その方が奈南も仕事の愚痴を話せるだろう。
カフェもどこかピックアップしておこう。
もし、雨なら水族館に行くのも悪くない。
俺のことを好きだとも言ってくれたから、もう大丈夫だろう。
俺が静かな満足感に浸っていたその時、手の中で短く振動が走る。
表示された通知を見て、思わず笑ってしまった。
<めんましめんままし食べたガールが居るけど?>
俺は考えることもなく指を動かす。
<どこ?>
送信から五秒もしないうちに返事が来る。
<あけて>
苦笑しながら玄関を開ける。
「よっ。遊び人!」
真子は勝手知ったる様子で手を上げ、独り言みたいに笑った。
俺もそれに笑いながら靴箱の上にスマホを置く。
来週もまた奈南に会え、いつものように、真子はふらっとやって来る。
そんな日々が、この先も当たり前に続いていくことを疑う理由なんて、1つも無かった。
そんな時、ふと、思い出したように、里香の声が蘇る。
『直樹ってさ……誰かを好きになる前に、誰かに必要とされたい人なんだと思う。』
『だから一人になると苦しくなる。……でも、それって恋愛じゃないでしょ。』
『ちゃんと独りになった方がいいと思う。』
本当に一瞬だけ、その言葉が胸の奥を掠めた。
だが俺は、すぐにその考えを打ち消した。
里香の主張は違うし、そんなことはない。
必要とされたい訳じゃ無く、ちゃんと関係を築いているだけだ。
それに現に、奈南との関係は上手くいっている。
そう結論づけると、胸の中に浮かびかけた違和感は、水面に落ちた小石の波紋のように、あっという間に消えていった。
消えるのに、一秒もかからなかった。
「直樹ー、靴履いていくよ!ラーメンが冷めちゃう!」
「まだ注文すらしてねーだろ。」
「めんまが売り切れちゃう!の方が良かったかな?」
変わらない真子の呑気な声が聞こえる。
そんなこととは関係無く、奈南との未来は白く続いている。
俺はそう信じながら、置いたスマホを手に取った。
ロック画面の向こう側には、来週の奈南との予定通知が刻まれている。
あとはこのまま続けていけばいい、必要なものは、もう全部揃っている。
俺は確かに、そう思っていた。




