第74話「【白】の深化」
休日を目前にした金曜の夜、奈南から再びメッセージが届いた。
<今週ほんと疲れたー。土曜、もしよかったら会える?>
スマートフォンを見つめながら、俺は真っ白な予定表アプリを開いた。
土曜日も当然白で満たされている。
<もちろん。今週もおつかれ。美味しいものでも食べて、ゆっくりしよう>
送信してから、俺は予約サイトを開く。
前回のカフェとは方向性を変え、今回は夜景の見えるイタリアンダイニングを選んだ。
昼間とは違う空気の中でゆっくり時間を共有する方が、関係は自然に深まるだろう。
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待ち合わせた奈南は、黒いワンピースに薄手のカーディガンを羽織っていた。
店に入り、窓際の席へ案内されると、「わあ……夜景だ……」と、小さく声を漏らした。
高層階の窓の向こうには、無数の灯りが広がっている。
「この店、結構くるの?」
「いや、たまたま見つけて気になったんだ。」
そう答えながら、俺はワインのメニューを開いた。
「私、全然詳しくないんだよね……」
「じゃあ、店員さんのおすすめにしようか。実は俺も詳しくないんだよね。」
「そうしよ、その方が間違いなさそう。」
そう言いながら、奈南は嬉しそうに笑った。
恋愛とは、決して制御不能な感情の暴走ではない。
相手の好きなものを知り、居心地の良い空間を用意し、適切な言葉を選び、心地よい時間を提供し、相手の脳内に記憶を積み重ねていく。
そうすれば、関係は自然と前に進んでいく。
そして今、俺の意識は「楽しませること」だけではなく、その先にある次の段階へと向かい始めていた。
冷えた白ワインが互いのグラスに注がれ、食事が始まると、奈南はぽつりぽつりと仕事の話をし始めた。
相変わらず、上司の話は時折混ざるが、メッセージの時ほど重苦しい空気ではなく、愚痴をこぼしては笑い、「またこんな話しちゃった!」と照れ笑いする余裕もあった。
俺は余計な正論や解決策を挟まず、相槌を打ちながら聞き役に徹する。
「……うん、そうだよね。ごめん。また同じ話ばっかりしちゃって…」
ワイングラスの脚を指先で弄びながら、奈南が苦笑した。
「いや、全然。吐き出せる場所があるのは大事だろ。俺ならいつでも聞くからさ。」
押しつけがましくならないよう、できるだけ自然な調子でそう返す。
「直樹って、本当に否定しないよね」
そう言いながら、奈南は少しだけ目を細めた。
「そう?」
「うん。安心するんだけど……たまに不思議になる時ある……」
「不思議?」
「ううん、なんでもない」
「そう?」
「うん。高校の頃もこんな感じだったっけ?」
「自分じゃ分からないな……」
「だよね。」
小さく笑いながら奈南が言った言葉を聞きながら、俺は静かにワインを口に運んだ。
「でも、なんか安心するから、つい何でも話しちゃう。友達にも言えないような格好悪いことまでさ……」
「そんなもんじゃない?」
「そういうところだよ。」と、奈南はくすりと笑い、残っていたワインを飲み干した。
アルコールのせいか、頬がほんのり赤く、食事を始めた頃よりも、テーブル越しの距離は自然と近くなっていた。
話題も仕事や趣味から、高校時代の思い出、最近見た映画、学生の頃の失敗談へと移り変わっていく。
笑う回数も増え、奈南は時折、俺の腕を軽く叩きながら「それ懐かしい!」と声を上げた。
気が付けば、閉店時間が近付いていた。
「やば、もうこんな時間?」
「入ったの遅かったし、楽しかったしね。」
「ねー。」
店を出ると、夜風がアルコールで火照った身体に心地よかった。
駅へ向かう途中、隣を歩いていた奈南が、不意に歩幅を緩めた。
そして、少し躊躇うような間を置いてから、そっと俺の左腕に自分の腕を絡めてくる。
「……まだ、帰りたくない……かも。」
腕から伝わる体温、わずかに上目遣いになった視線、その小さな仕草を感じながら、俺は胸の奥に静かな充足感が広がっていくのを感じていた。
終電の時刻を知らせる電光掲示板の光が、夜のホームを白く照らしている。
その前で、奈南の歩調が少しだけ遅くなった。
「どうしよっか……」
俺の腕に絡めたまま、奈南が上目遣いでこちらを見上げる。
「俺も、もう少し、一緒にいたいよ……」
「うん……」と、奈南は小さく頷き、絡めた腕の力が強めた。
そのまま、「直樹の家、行ってもいい?」と、どこか照れ臭そうに笑った。
「もちろん。」と俺が答えると、奈南は安心したように息を吐いた。
そして、俺の胸元に顔を寄せるようにして小さく笑う。
「なんか今日、離れたくない気分。」
そういう奈南の肩を、俺はそっと抱き寄せながら、タクシーを拾った。
後部座席に並んで座ると、奈南は自然な動作で俺の肩にもたれかかってきた。
「高校の時、こんな風になるなんて思わなかったなぁ。」
「俺も。」
「卒業式の日の告白、今思い出すと可愛いよね。」
「ひどいな。」
「違う違う。嬉しかったって意味。」
そう言って奈南は楽しそうに笑った。
そのまま自宅までは談笑し、部屋に着くと、奈南は「お邪魔しまーす。」と、慣れた調子で靴を脱ぐ。
「うわ、ほんと綺麗。ちゃんとしてるね。」
「一人暮らし長いからな。」
「偉いなー。」
奈南は、ソファに腰を下ろして大きく息をついた。
「なんか、安心する空気だ。」
「コーヒー飲む?」
「うーん……今はいらないかな?」
そう言いながら、奈南はソファの隣に座った俺の肩に頭を預けてくる。
「ねぇ…今日、すごく楽しかった。」
「俺も。」
「なんかさ、直樹といると変に頑張らなくていいから好き……」
照れ臭そうに笑った奈南の指先が、そっと俺の手を探す。
俺もその手を握り返し、言葉はそれ以上必要なかった。
ソファに寄り添ったまま、互いの呼吸だけが近くに感じられる。
肩に預けられた奈南の体温と、少しだけ緊張しているのか、指先が小さな震え。
俺は急がず、彼女の呼吸に合わせるように、ゆっくりと距離を縮めていく。
ちゃんと相手を見て、ちゃんと相手に合わせて、ちゃんと心地よい時間を共有できるように、細心の注意を払う。
薄手の生地越しに見える華奢な肩、鎖骨から肩先へ続く滑らかな線、昔から変わらない、小さな顎の下にできる柔らかな影、笑うたびに僅かに動くフェイスライン。
奈南の指に俺の指を重ねると、細い指先の骨格が柔らかい体温の中に微かに浮かび上がる。
高校の頃、教室の窓際で横顔を盗み見ていた時から、卒業式の日、振り向いて笑ってくれた時から、俺はずっとこうしたかった。
細い首筋と、腰のくびれの奥にできる小さな窪みに加え、足首のくるぶしまで続く、無駄のない線。
それらは華奢なのに、冷たさはなく、柔らかさの奥に、細い骨格が静かに存在している。
昔から好きだった奈南の持つ細い骨格の線。
教室の窓際で横顔を盗み見ていた頃には、ただ遠くから眺めることしかできなかったそれが、今は柔らかな体温と共にすぐ隣にある。
奈南はそんな俺の視線に気づいたのか、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「なに?」
「いや……綺麗だなって思って……」
「急に?」
「昔から、ずっと思ってた……」
「…ばか。」
そう言って照れたように笑いながら、奈南は俺の胸元に顔を埋める。
その体温が近づくにつれて、緊張していた指先の震えも少しずつ消えていった。
部屋の明かりを落とし、遮光カーテンの隙間から街灯の淡い光だけが差し込む静寂の中で、俺たちは夜を迎えた。
それは、激しい言葉や衝動に任せるような時間ではなく、互いの体温と骨を確かめるような、静かで穏やかな時間だった。




