第73話「【白】の承認」
休日明けの昼休み。
オフィスに漂う気怠い空気の中、俺は自席で弁当の空き容器を片付けながらスマホを取り出した。
開いたのは、ここ数週間で急速に行数を増やしている<奈南用メモ>だった。
画面には、前回のカフェデートで得られた観測結果が整然と並んでいる。
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・カフェ選定:成功(古民家系・隠れ家系への反応強)
・映画、本の話題:継続価値あり
・コーヒー関連:反応良好
・次回提案:相手側から打診あり
>
現時点では、大きな誤差は見当たらなかった。
高校時代に知っていた奈南の情報と、現在のSNSから得た情報はおおむね一致している。
少なくとも、今のところ想定から大きく外れた反応は出ていない。
俺はスクロールを続けながら、前回の会話を順番に思い返した。
映画、本、カフェ、休日の過ごし方等の話題では、奈南の表情は終始柔らかかった。
だが、仕事の話の時、奈南は上司の話を少しだけ口にした。
その瞬間だけ、口角の上がり方が僅かに鈍り、声量も落ちたこと思い出す。
すぐ別の話題へ移ったため深追いはしなかったが、今思い返しても違和感が残る。
俺はメモの最下部へ新しい項目を追加した。
<
・仕事話題で表情変化あり
・詳細未回収
・要追加観測
>
入力を終えたところで、奈南の仕事に関する部分だけ、輪郭が曖昧で情報が足りないことに気付いた。
未回収の変数を放置することは、後で必ずどこかに歪みが出るのは、5人との経験で理解している。
俺はスマートフォンを閉じると、午後の業務に向けてパソコンへ向き直った。
しかし頭の片隅ではすでに、次にその情報を回収するタイミングを考え始めていた。
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数日後の夜、予想よりも早くその機会は向こうからやってきた。
自席で残業をしていると、ポケットの中でスマホが短く震えた。
画面を見ると、奈南からのメッセージだったが、前回のデートまでの傾向からすると、平日のこの時間帯に連絡が来るのは珍しい。
<今日、ちょっと疲れたー>
俺が手を止め画面を見つめると、いつもの明るい記号や絵文字は一切ないことに気付く。
俺の脳内が仕事の処理を外に追い出し、すぐに重すぎずかつ拒絶を感じさせない最適な短文を組み立てて返信した。
<お疲れー、何かあった?>
送信した瞬間に既読が付き、数分間の沈黙の後、ぽつりぽつりと長い文字列が送られてき始めた。
奈南は現在、中堅の産業機械系専門商社に新卒入社し、働いている。
関東メインとはいえ、担当エリアの客先への出張も多く、現在は営業課長補佐の40代独身の男とペアを組んで動いているらしい。
<っていう感じでさ。だから仕事はめちゃくちゃ出来るんだよ。トラブル対応も早いし、顧客との関係作りも凄くて、社内でもちゃんと評価されてるんだけどさ。なんか、一緒にいると本当に疲れるんだよね……>
奈南の文面からは、明確な悪意や無能さを責める言葉ではなく、もっと曖昧で、それゆえに逃げ場のないリアルな疲弊が滲み出ていた。
奈南の話を総合すると、上司は仕事のできる営業だが、車内や客先への道中では距離感が近いらしい。
奈南にとっては、能力を否定できないからこそ余計に扱いづらい相手なのだろう。
仕事の成果は確かだからこそ「嫌いだけど無能とは言えない」というジレンマが奈南を苦しめているようだった。
さらに、移動中の新幹線やレンタカー、客先での待機など、2人きりになる時間が長いこともストレスに拍車をかけている。
<客先に行くとさ、「奈南ちゃんみたいな若い女の子がいると喜ばれるからなー」とか「やっぱり女の子は愛嬌だよな」とか、普通に言ってくるの。……しかも、結婚したら仕事辞めちゃうの?とか彼氏がいるか探ってくる感じ合ったりするし。物理的に触られたりするわけじゃないからセクハラって通報できるほどでもないんだけど……そういうのが地味に積み重なってしんどい。…気にしすぎなのかな?>
画面の向こうで、奈南が溜息をついている様子が目に浮かぶようだった。
俺は画面を見つめたが、問題そのものを俺が解決できるわけではない。
その上司が異動するわけでもないし、奈南が今すぐ転職するわけでもない。
つまり、今この場で必要なのは解決策ではなく、感情の処理だ。
まずは、奈南の中にある「私がおかしいのかな」という疑問を否定することだった。
俺は数秒だけ考え、返信を打ち始めた。
<いや、それ普通に嫌じゃない?仕事できる人っていうのと、デリカシーが無いことは関係無いし、そういうこと言われて嬉しい人なんていないよね。毎回そんなこと言われてたら、疲れると思うけど…>
<やっぱそうかな?なんか、私が気にしすぎなのかなーって思っててさ…>
奈南の返信の速さから、今の返答が正解だったことが分かる。
<いや、俺でも嫌だと思う。しかも仕事だから距離取れないし>
<そうなの!逃げられないのがしんどいの!>
俺は、奈南の返信速度が明らかに上がっていることに気付く。
問題を解決できなくても、「その感情はおかしくない」と認識させることには成功している。
俺は続けて文字を打ち込んだ。
<でも、それだけちゃんと仕事しようとしてるから余計しんどいんじゃない?奈南、真面目だからちゃんと向き合っちゃうし…>
即既読、そして、またすぐに返信が来た。
<あー……そうなのかな……なんかさ、仕事できるし、周りも「悪い人じゃない」って言うから、私が気にしすぎなのかなって思ってた。……別に嫌いになりたいわけじゃないんんだけど、出張の時とか、新幹線で二人きりだと「今日も始まるのかー……」って思っちゃって……そんなこと思う自分が悪いのかなって>
俺は小さく息を吐き、ようやく本当に処理すべきデータが出てきた。
奈南を消耗させているのは、上司の言動とそれに嫌悪している自分に対する自己否定だ。
<いや、全然悪いとは思わないよ。仕事できる人だとしても、苦手な部分があるのは普通だと思う。それに奈南が言われて嫌なことまで我慢して「平気な顔しなきゃ」ってことにはならないと思うよ。>
俺の送信後、既読はすぐについてが、しばらく返信は来なかった。
数分後に<……そっか、なんか、ちょっと気が楽になったかも。>とメッセージが届いた。
デスクの机の下で、俺は画面を眺めていると、追撃が次々に届く。
<私、自分が神経質すぎるのかなーって思ってたから>
<ありがと笑>
<直樹って、昔からこういう時、変わんないよね。なんかそういうとこ安心する。>
その言葉を無意識のうちに、頭の中で反芻する。
熱い感情が湧いたわけではないが、自分の選択した応答が、期待した出力を返してきたことへの静かな満足感だけがあった。
大体の相談や愚痴は、正論も解決策も求めておらず、否定されないことと自己否定をしなくていいと許可されることを求めている。
その手順さえ間違えなければ、大きなエラーは起きない。
メモ帳アプリを開き<奈南用メモ>の最下部に、新しい項目を追加する。
<
・仕事上の悩みあり
・否定せず受容
・自己肯定方向の返答が有効
・「安心する」発言あり
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入力を終えて保存し、少なくとも今回の処理は、正常に完了したと認識した。
奈南が気が楽になったと言っていたことは素直に良かったと思う。
同時に、今回の対応が再現可能であることも確認できた。
前回のカフェ選定、今回の承認ともに結果は良好だ。
相手を理解し、適切な言葉を選び、適切な反応を返すこと。
それを積み重ねれば、人間関係は安定すると、俺は信じていた。
スマホをポケットにしまい、作業を再開しようとしたとき、さらにスマホが震えた。
通知をそのままタップすると、見慣れたアイコンが目に入る。
<鍵あいてないんだけど、残業?>
俺は深く考えることもなく、<社畜中>とだけ返信する。
<言っといてよ!>
<しね!>
<ここから帰るのだるすぎ!>
立て続けに通知が飛んできて、俺は思わず苦笑した。
<ごめ、次ラーメン奢るね>
俺がそう送ると、すぐに返信が届く。
<許す、チャーシュー増『しね』>
わずか数秒で終わる、推敲も計算も必要ないやり取り。
奈南へ送る一文には、何十分もかけて言葉を選ぶというのに、真子との会話は脊髄反射だけで成立する。
それでも不思議と破綻しないなと思いながら、俺は予定表アプリを開いた。
次の土曜に、まだ空白のままになっている【白】の予定を見つめる。
仕事の話をしていた時の奈南の反応と、「気が楽になった」という言葉、そして「昔から変わんないね」という一文。
相手を否定せず、安心させるだけで、女は少しずつ心を預けていく。
だから次も、きっと上手くいく。
そう思いながら、俺は再びパソコンへ向き直った。




