第7話「【青】への気遣い」
翌朝、アラームが鳴る前に目が覚めた。
隣では真子が、俺のTシャツを一枚羽織っただけの姿で、朝からゲームをしている。
スマホを見るといくつか通知が来ていたため、一番上の通知を開く。
<昨日はありがとう!後半疲れてたみたいだけど、ゆっくり休めた?今日の研修、お昼に少し話せるかな?>
久美子のメッセージになるべく寄り添う形で、俺はメッセージを返信する。
<ありがとう!大丈夫だよー!>
「……よし」
感情ではなく、久美子の仕様を理解した上での効率的な処理になっているはずだ。
この返信に罪悪感はなく、2人の平穏を維持するための管理だと思っていた。
まだゲームに夢中になっている真子に「そろそろ準備するぞ。」と、声をかける。
真子は「ほいほい。」と気のない返事をしながらも、視線は一切ゲーム画面から離さない。
布団の上へ投げ出された白い脚が、俺のシーツを無造作に踏んでいる。
昨夜脱ぎ散らかしたスカートやストッキングが床に落ちたままなのに、真子は気にする様子もなかった。
普通なら気まずくなるような朝なのに、真子といると妙に生活感だけが先に来る。
「……朝から元気だな。」
「今、私の錬士人生で一番の流れが来てるからね!5FでD-killer床落ち熱すぎる!」
「社会人の会話じゃねぇな。」
「直樹みたいなクズに言われたくないなー。」
真子はそう言って笑いながら、ようやくセーブしてゲームを閉じた。
そのままベッドから降りると、寝癖のついたまま洗面所へ向かっていく。
俺はその背中を見ながら、小さく息を吐いた。
久美子といる時みたいな、ちゃんとしなきゃという緊張感がない。
その気楽さが、少しずつ当たり前になり始めていた。
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昼休み、研修室の隅で久美子が嬉しそうにスマホを差し出してきた。
「直樹くん、カレンダー。ちゃんと予定入れてくれてるね!」
画面には、週末の<桜を見に行く>予定や、平日の<研修後ご飯>が青色で綺麗に並んでいる。
久美子は、この青色の面積を愛の量だと信じているように見える。
予定と予定の間に存在する空白の時間を見ている俺とは、認識の差があることが分かる。
「あ、今日の夜は大学のサークルの奴と飲むことになったから、予定表に入れておくね。」
俺はそう言いながら、予定表の今日の夜に『真子の赤色』を差し込む。
「そうなんだ!教えてくれてありがとう!楽しんできてね!」
久美子がそう言って満足そうに微笑む。
予定表の共有は、俺の中の管理ツールとして精度を増していく実感が分かる。
久美子を安心させるための情報を入力し、その裏側で自分の自由を確保する。
この二重帳簿のような管理術が、妙な万能感を俺に与えていた。
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「ねー直樹、今日泊まっていい?」
午後の休憩中、隣の真子が耳に顔を寄せ、小声で当然のように聞いてきた。
俺は慌てて久美子の席の方に視線を向けると、久美子が同期と真剣にコードを読み合わせているのが確認できた。
「……ゲーム目的だろ。別にいいけど、飯はどーすんだ?」
「ビニコンで良くない?……あ、直樹の家の途中のスーパーの弁当とかでも。」
真子のその要求の低さが、俺の欲を加速させる。
久美子との予定を維持しつつ、真子の要望も通す。
それは不誠実な嘘というより、限られたリソースを最適に配分し、自身の欲求発散と周りとの関係継続をする知的ゲームになりつつあった。
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21時、俺の部屋。
ベッドの上では、真子が寝そべりながら相も変わらずゲームに没頭している。
部屋には、ゲームの効果音とスーパーで買った焼肉弁当の匂いが混ざった空気が漂っていた。
真子はスーツの上着だけ脱いで、シャツ姿のまま寝転がっている。
タイトスカート越しに細い脚が組まれ、その無防備さに視線が引っ張られる。
だが真子は、自分がどう見えているかなんて気にした様子もなく、「見て見て!やばい印ついた!」と嬉しそうな声を上げていた。
その空間は、恋人らしい甘さとは少し違う。
ゲームして飯食って眠くなったら寝るという、ただそれだけの、妙に居心地の良い雑な空間。
そして俺は、その雑さにどんどん慣れ始めていた。
「ちょっとコンビニ行くけど、何かいる?」
「ドクペよろー。あとザクザクしたやーつ!」
「何だよそれ。ポテチでいいか?」
「いえーい!」
俺はサンダルを履いて、そのまま外に出た。
4月とはいえ少し肌寒い風が吹いている。
エレベーターを降りたところでスマホを取り出し、久美子に電話をかけた。
「あ、久美子?うん、今飲みが終わったとこ。この間、心配かけたから…」
歩きながら話始めた俺には、もう嘘をついている感覚はほとんどなかった。
久美子が望む直樹の維持のために、真子の存在を一時的にミュートしているだけだ。
『直樹くんの声聞くと、明日も頑張れる気がする。ありがとう!』
話すたびに、久美子の弾んだ声が俺の耳に届く。
『あ、周りの音変わったね。お店入ったの?』
「そう、コンビニに入ったよ。シジミ汁と水買おうと思って。」
『えらい。ちゃんと気遣ってるんだね。』
「さすがに社会人だし、飲み会の影響で日中だらける訳にはいかないからね。」
レジ横のホットスナックを見ると、真子の好きなスナックの匂いが鼻につく。
俺は適当にポテチとドクペをカゴへ放り込みながら、久美子の声を聞いていた。
『あ、そうだ。今週末の桜、私お弁当作ろうと思ってるんだけど……迷惑じゃない?』
「え?」
一瞬だけ、手が止まる。
『その……せっかく一緒に行くし。直樹くん、前に甘めの卵焼きと竜田揚げが好きって言ってたから……』
「あー……いや、嬉しいよ。ありがとう。」
『ほんと?よかったぁ!』
電話越しに、久美子が安心したように小さく笑う。
その笑い方を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ重くなる。
それと同時に、真子はこういう確認をしないなという思いが過ぎる。
作るとも言わないし、喜ばせようともしてこない。
ただその場にいて、ゲームして、眠くなったら寝るだけ。
『直樹くん?』
「……あ、ごめん。レジ並んでた。」
『ふふ、大丈夫。あんまり飲みすぎないでね?』
「了解。」
『じゃあまた明日ね。おやすみ。』
「おやすみ。」
通話が切れたあと、スマホの画面に映る久美子の名前を数秒見つめる。
それから俺は、何事もなかったようにスマホをポケットへしまった。
部屋へ戻ると、真子はベッドの上で胡坐をかいたまま、ゲーム画面を睨んでいた。
「おそ!帰還おそ!ドクペエネルギー切れ!」
「レジ混んでた。」
「ドクペー。」
俺が机の上に袋を置くと、真子は寝ながら這いより、そのまま嬉しそうに袋を漁った。
その姿を見ながら、俺はさっきまで久美子と話していたスマホを机へ伏せた。
「誰と電話してたの?」
その姿を和みながら眺めていた俺に、真子が何気なく聞いてきた。
「なんで?」
「レジ待ちの遅さじゃないからねー。」
「ん?研究室の後輩。」
「ほー。」
真子は興味があるのかないのか分からない返事をすると、再びゲームへ視線を戻した。
その踏み込まなさに、俺はまた救われる。
久美子は、ちゃんと俺を見ようとしてくれる。
何が好きか、何を考えているか、何をしているか。
そうやって、少しずつ俺の中へ入ってこようとする。
でも真子は違う。
隣には来るのに、中までは入ってこない距離感を維持している。
「ねー直樹、協力プレイしよ。ここ、ここ、ここ行こ。」
薬局のシロップのような匂いをさせながら、真子が当然みたいに画面をこちらへ向ける。
俺はベッドへ腰を下ろし、そのまま自然に肩を寄せられた。
その瞬間、さっきまで電話越しに聞いていた久美子の声が、急に遠くなる。
世界を騙している感覚は、不思議ともう薄かった。
ただ、それぞれに必要な自分を割り当てているだけ。
俺はそう信じずにはいられなかった。




