第66話「【赤】の通告」
月曜日になり、週末の出来事を引きずったまま、俺は出社した。
俺の気持ちとは無関係なフロアは、いつも通りの雰囲気で、上司も同期も普段と変わらない。
誰も、俺の頭の中を占めていることなんて知らない。
世界は正常に動いていて、不具合が出ているのは、たぶん俺だけだった。
昼休みにいつも通り社員食堂に行くと、奥の席に真子を見つけた。
ビビンパを咀嚼しながら、スマホを眺めている。
眠そうに目を細める顔も、椅子にだらしなく座る姿勢も、何も変わっていなかった。
元カレと土日を過ごすというのは、それなりに大きな出来事だったはずなのに、真子はまるで何もなかったみたいな顔をしている。
「真子、おつかれ。」と、俺は声を掛けながら向かいの席へ座る。
真子はスマホから目を離さないまま、軽く手を上げた。
何を話そうか迷っているうちに、真子が水を一口飲んでから口を開く。
「あ、そういや元カレ帰ったよ。」
不意打ちでそう言われ、俺は自分でも分かるくらい反応が遅れた。
「…………………あ、そう。」
そこから食べ終わるまで、いつも通りゲームの話をして、昼休みが終わったら執務室に戻るだけだった。
どうやら、俺だけが勝手に重く受け止めていたらしい。
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夜になると、真子はいつも通りいきなり俺の部屋へやって来た。
インターホンが鳴り、ドアを開けると、「おつー!」と言いながらスニーカーを脱ぎ、コンビニの袋をテーブルへ放り投げる。
中から出てきたのはポテトチップスと炭酸飲料だった。
真子はソファへ座り込み、俺はゲーム機の電源を入れる。
やがて並んでコントローラーを握り、いつものように対戦を始めた。
だが俺の意識は、ほとんどゲームへ向いていなかった。
真子が元カレと会っていた週末のことが頭から離れない。
何度も振り払おうとしたのに、気付けば同じところへ戻ってきてしまう。
対戦の合間、「……なぁ。」と、なるべく何でもない風を装って、俺は真子に声を掛けた。
「ん?」
「元カレが帰った後も、連絡してんの?」
真子は視線を画面から外さないまま答えた。
「してるよ。ゲームのグループあるし、普通に連絡くる。」
「ふーん。」
俺は適当に相槌を打ちながら、次の言葉を探す。
聞かなければいいと思うのに、聞かずにはいられなかった。
「復縁とかは?」
俺がなるべく普通のトーンで口にした瞬間、真子は吹き出した。
「ないなー!ないない!」
「なんで?」
「だって、浮気したやつだよ?」
そう言って笑う真子は、本当に可笑しそうだった。
「あいつとまた付き合うとか面倒じゃん。」
その返事を聞いて、胸の奥に溜まっていた何かが少しだけ軽くなる。
少なくとも、週末を一緒に過ごしたからといって、昔に戻ったわけではないらしい。
そう思ったはずだったのに、なぜか安心できなかった。
元カレじゃないなら、一体何がこんなに引っ掛かっているんだ。
自分でも上手く説明できないまま、俺はコントローラーを握り直した。
そのまま、平静を装って雑談のように声をかける。
「……なあ。」
「んー?」と返事をしながら、真子は画面から目を離さない。
俺は少しだけ迷った。
ここで言えば何かが変わってしまう気がした。
でも、言わなければもっと後悔する気もした。
「俺らさ……」と言うと、俺が言葉が途中で詰まる。
それを不思議に思ったのか、真子はようやく俺の方を向いた。
「付き合わない?」
指先が冷たくなり、言った瞬間、自分の心臓の音が聞こえた気がした。
真子はすぐには答えず、コントローラーを床に置いた。
そして、それから数秒ほど天井を見上げた。
その時間が、俺にはずっと長く感じられた。
ようやく俺に向き直った真子は一言、いつも通りの声のトーンを発する。
「やだ。」
迷いもなく答えられ、空気が重くなり、耐えられない俺は笑おうとした。
「なんで?……俺のこと嫌い?」
俺の声が思ったより掠れることに、自分でも気が付いた。
「別に。」と言いながら、真子は首を横に振った。
「嫌いだったらそもそも家に来ないし。」
それはそうだった。
週に何度も俺の部屋へ来て、ゲームをして、肌を重ねて、一緒に通勤する。
それで、嫌われているわけがない。
だから余計に分からない。
「じゃあなんで?」
真子は少しだけ考え、その後に面倒そうに答えた。
「今のままでよくない?なんで付き合うの?」
その回答に、俺は言葉を失った。
「え?」
「付き合ったら何か変わんの?…あ、自由が減るか。」
真子は本当に分からないみたいな顔をしていた。
「今も遊んで、ゲームして、一緒に寝て、別に困ってなくない?」
俺自身、何を求めているのか上手く説明できず、その言葉に返事ができなかった。
「私さ、そういうの面倒なんだよね。付き合ったら連絡しなきゃとか、デートどこ行くとか、そういうの増えるじゃん。……別に今でも会えるし、そんなのに縛られるより、今の方が楽。」
真子には悪意はなく、俺を傷付けようともしていない。
ただ本音を言っているだけだった。
俺はその言葉の重みに、少し黙ってから言った。
「それってさ、元カレとより戻したいとかじゃなくて?」
真子が眉をしかめ、心底意味が分からないという顔をした。
「なんで?」
「いや……」
「それって直樹に関係なくない?…それに、別にあいつとも付き合わないし。」
真子は欠伸をして、本当に何でもないことみたいに言った。
「もちろん、直樹とも付き合わない。」
俺はその言葉に胸の奥が少しだけ痛んだ。
元カレに負けたわけでも、誰かがいるから選ばれなかったわけでもない。
ただ、真子の中に最初から『付き合う』という選択肢が存在していなかった。
それだけだった。
その事実の方が、ずっと苦しかった。
真子はそんな空気など気にした様子もなく、もう一度小さく欠伸をした。
「……ねむ。」
そう呟くと、ソファから起き上がり、当たり前のようにベッドへ向かって、布団を被った。
「直樹ー、電気けして。」
「ああ」
「眠いから早くー。」
それだけ言うと、真子は目を瞑り始めた。
告白したことも、断ったことも、もう真子の中では終わった話らしかった。
俺だけが、その場に取り残されている。
明日になれば真子はまた連絡してくるかもしれない。
来週になれば、またこの部屋でゲームをするかもしれない。
むしろ、今から抱き合うかもしれない。
それでも、付き合うことだけは嫌だと言った。
その事実が、どうしようもなく重かった。
俺はスイッチに手を伸ばし、部屋の明かりが消した。
暗闇の中、ベッドからはもう規則正しい寝息が聞こえていた。
真子は何も変わらない。
変わってしまったのは、たぶん俺の方だった。
付き合う必要が無いという真子の言葉を、俺はどうしても受け入れられなかった。




