第64話「【赤】の救済」
翌日の月曜日、オフィスビルへ向かう俺の足取りは、いつになく重かった。
久美子と里香は同期な上、里香は同じ課に配属され、毎日顔を合わせる。
同じプロジェクトに関わり、同じ会議に出て、同じフロアで働く。
昨日、新宿の喫茶店で告げられた言葉が、頭の中で何度も再生されていた。
『付き合いたいとも思わなくなった。』
どんな顔をすれば気まずくならないだろうかとか、周囲は何か知っているんじゃないかとか、そんなことばかり考えていた。
だが、自動ドアをくぐった瞬間、その警戒はあっけなく空振りに終わる。
「おはよー、直樹。」
デスクに鞄を置いた俺に、里香は普段と変わらない調子で声をかけてきた。
怒っている様子も、気まずそうな顔もしていない。
本当に、ただの月曜日で、業務が始まってからも同じだった。
仕様書について質問すれば普通に答えるし、雑談になれば普通に笑うし、困っていれば助けてくれる。
1つだけ変わったことと言えば、自然に出ていた雑談が出てこないことか。
休日の予定や、2人で行った居酒屋のメニュー、テーマパークの話。
そういうものだけが、綺麗に存在しないことになっていた。
里香は怒っていないし、恨んでもいないと言っていた。
ただ俺を同じ課の同期へ戻しただけ、その事実が不思議なくらい苦しかった。
昼時、社員食堂の喧騒の中で、俺はさらに別の現実を目撃した。
真ん中あたりテーブルで、久美子が同期の女子グループと楽しそうに笑いながらランチを食べていた。
泣き腫らした跡も、俺との決別によるショックの気配も見当たらない。
久美子の世界からも、俺は既に過去になったのだろうか。
俺だけがまだ、久美子から通告を受けた日から動けていない気がした。
久美子と目が合う前に、俺は逃げるように奥の席に座った。
居心地の悪さを抱えながら、俺は冷たいうどんを一本ずつ啜った。
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定時を過ぎ、退勤の処理を済ませてオフィスビルを出たところで、俺は何となくスマホを開く。
少し前なら、この時間には誰かしらから連絡が来ていた気がするが、今日は誰からも来ていなかった。
俺から連絡しなければ始まる会話もなく、誰かが俺を待っている気配もない。
自然とため息が漏れた時だった。
ポケットの中でスマホが短く震え、やはり俺は反射的に画面を見る。
表示された名前を見た瞬間、自分でも分かるくらい肩の力が抜けた。
<まーひー?>
たったそれだけのメッセージに興奮した俺は、立ち止まってすぐに返信を打つ。
<暇>と送信して数秒後、再び通知が鳴った。
<じゃいく、げーむ>
理由も前置きも無く、俺の近況を聞くこともないシンプルなメッセージに、俺は不思議と救われた。
真子は何も知らないのだろう。
俺が久美子と別れたことも、明日菜を突き放したことも、里香に見限られたことも、真冬に線を引かれたことも。
たぶん興味すらないだろう。
でも、今この瞬間、俺に連絡をくれたのは真子だった。
スマホを握りながら、俺は小さく息を吐く。
さっきまで胸の中を埋めていた重たい何かが、少しだけ薄くなった気がした。
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「あー、それ連鎖尾入って無いね。今日の直樹下手すぎ。」
そう言って真子が連鎖を発火し、オッドアイ君の連鎖ボイスが響く。
真子の連鎖を返せずに、今回の試合は俺の負けだった。
隣では真子がポテトチップスを摘まみながら笑っていた。
インターホンを鳴らして部屋に入ってきた時から、真子は本当にいつも通りだった。
コンビニで買った弁当を食べて、適当に雑談して、当たり前みたいにゲームを起動する。
話題もゲームの勝った負けたや、新しいゲームの注目タイトルばかりで、俺に関する話題には興味すらないのが分かった。
「うわ、弱。ざっこ。デアリスで組んでるから、数え間違えるんじゃなーい?」
「うるさい。配色悪かっただけだし。」
「いや、配色私と一緒だから。」
「斎スペは甘え。」
「知識に技術が追い付いてない人に、甘えとか言われてもなー?」
真子はケラケラ笑い、それにつられて俺も思わず笑ってしまった。
本当に心から笑っている。
管理出来ているか、誰かを待たせていないか、次は何を言うべきか。
そんなことばかり考えていたはずなのに、気付けば次の一手のことしか考えていなかった。
その楽しさと楽さに夢中になり、気付けば時計の針は深夜二時を回っていた。
少し眠くなってきたため、ゲームの電源を落とすと、部屋の中に急に静けさが戻った。
さっきまで聞こえていた効果音も、真子の笑い声も消え、エアコンの送風音だけが残る。
「帰る?」と俺が聞くと、真子はソファの上でスマホを眺めながら首を横に振る。
「いまから帰るの怠い。」
帰りたいから帰る、怠いから帰らない、来たいから来る。
そんな変わらない真子に強烈に惹かれ、俺は何となく真子の隣へ座った。
真子は特に避けるでもなく、スマホを弄ったまま足を投げ出す。
沈黙が続くが、気まずさはなく、俺は肩の力が抜けていた。
「真子ってさ。」
「んー?」
「変わらないよな。」
俺がそう言うと、真子は不思議そうな表情で顔を上げる。
「何が?」
その問いに俺は少しだけ考えたが、結局「別に。」としか言えなかった。
真子は興味を失ったようにスマホへ視線を戻す。
「人なんてそんな変わんなくない?」
適当に返された言葉だが、その適当さが今は心地良かった。
俺は無意識に真子の肩へ触れるが、真子は何も言わず、拒絶も無かった。
それを、いつもの合図だと受取り、俺は真子に覆い被さった。
真子は小さく欠伸を1つすると、スマホをサイドテーブルへ置いた。
「明日も仕事なんだけど。」
「知ってる。俺もだし。」
「なら手短に。」
そんな色気の欠片もない言葉に、思わず苦笑した。
ただ当たり前のように俺を受け入れ、当たり前のように時間が過ぎていく。
しかし、そこには愛や好きという言葉は一切なく、ただ嬌声と確認が響き合うだけだ。
それでも今の俺には、その雑な距離感が妙に心地良かった。
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暗い部屋の中で俺が天井を見上げる隣で、は真子がスマホを見ていた。
特に感想も言わないのは、本当にいつも通りだった。
「寝る?」
「ん。」と言い、真子はスマホを置く。
俺は目を閉じると、真子の匂いに包まれた今だけは、真子以外を思い出さずに済みそうだった。
隣から聞こえる小さな吐息に耳を澄ませながら、俺は久しぶりに少しだけ安心していた。
でも、それだけじゃ不安が過ぎり、未来の支えが欲しくなってしまう。
「……あ、今度の土日、前のリベンジで秋葉行かない?」
「んー?」
俺の提案に、真子が眠そうに返事をした。
「コラボカフェやってるらしいんだよね。あのゲームの。」
「……あー、そうなんだ。でもパス。……大学の友達が……ウチに泊まりに来んだよね。」
それだけ言うと、真子は再び眠りへ沈んでいった。
暗闇の中、俺は返事ができなかった。
土日は真子に会えないというだけの話だ。
真子からすれば、友達と遊ぶというだけのごく普通の予定なのに、俺の胸の奥がざわつく。
さっきまで感じていた安心感が、少しずつ形を変えていく。
土日には、この部屋には誰もいない。
スマホを見ても通知は来ない。
ゲームをしても、隣で笑う声はない。
そんな光景を想像した瞬間、胸の奥が妙に冷えた。
もし真子までいなくなったら、もしこの気まぐれな関係すら終わったら、今の俺には、本当に誰も残らないのではないか。
暗闇の中、俺はただ天井を見つめ続けた。
真子の寝息は変わらず聞こえている。
その音に安堵しながら、その音が失われる未来に怯えている。
俺はまだ気付いていなかった。
失うことを恐れ始めた時点で、もう手遅れだったということに。




