第63話「【緑】の通告」
真冬が人混みの向こうへ消えてから、俺は筐体から少し離れた壁に寄り掛かっていた。
『うちは直樹の彼女じゃないから。』
そう言った真冬の言葉だけが、頭の中で何度も再生される。
ただ今日だけは、一人になりたくなかっただけだったのかもしれない。
いや、本当は今日だけじゃなく、俺はずっと誰かといる理由を探していた。
真冬からは現状の関係を拒否されたわけじゃなく、これ以上踏み込むなと線を引かれただけだ。
真冬は最初から変わっていないのに、俺はいつからか何か別のものを期待していた気がする。
何を期待していたのかは、自分でも分からない。
筐体から聞こえるレバー音をぼんやり聞きながら、俺はポケットから財布を取り出した。
まだ100円玉は残っているが、もう遊ぶ気にはなれなかった。
ようやく俺はゲーセンを後にし、終電近い時刻の電車で部屋へ戻った。
鍵を開けて玄関へ入ると、部屋の中は真っ暗だった。
誰もいないのだから、当たり前だ。
壁のスイッチを押すと、蛍光灯の白い光が部屋を照らした。
生活感に溢れたいつもの部屋なのに、俺は不思議と落ち着かなかった。
鍋に入ったままのしじみ汁に目が入り、それから視線を逸らすように冷蔵庫を開く。
すると、いつの間にか増えた調味料が並んでいた。
俺なら絶対に買わないであろう、健康にいいらしいドレッシングや減塩のめんつゆ。
『冷蔵庫に減塩のめんつゆと、健康にいいドレッシング入れておくから、1人の時も野菜パックとか買ってかけて食べてね。』
そんなことを前に久美子から言われた気がする。
けれど、いつからそこにあったのかも思い出せなかった。
俺は何となく扉を閉めた。
洗面台へ向かうと、そこには俺はあまり使わないドライヤーがあった。
これも久美子と買いにいったものだ。
部屋の中を見回すが、本当に誰もいない。
それなのに、どこを見ても誰かがいた痕跡だけが残っている。
ソファ、マグカップ、冷蔵庫、洗面台と、視線を向けるたびに、誰かの顔が浮かぶ。
「俺の部屋って……こんなだったか?」と、俺は小さく息を吐いた。
上京してきたばかりの頃は、もっと殺風景だった気がする。
なのに今は、人がいないのに人の存在を強く感じる。
俺はソファに深く身体を預け、スマホを取り出した。
いつもは溜まっている通知は、今は一件も無かった。
俺はメッセージアプリを開き、トーク一覧をぼんやり眺め、何気なく久美子のメッセージをタップする。
<明日、直樹くんちで待ち合わせにしよっか?>
画面を戻すと、久美子の下には明日菜の名前がある。
最後に部屋を出ていった時のことを思い出し、すぐに視線を逸らした。
あの時の泣きそうな顔を思い出すだけで、胸の奥が少し重くなる。
さらに下へスクロールすると真冬とのトーク。
最後に表示されているのは、<り>、たったそれだけだった。
あまりにも普段通りで、あまりにもいつも通りの文字列だった。
なのに今日だけは、その一文字が遠い存在に感じる。
俺はスマホを握ったまま天井を見上げた。
トークを非表示、いや削除してしまえば少しは楽になるかもしれない。
そう思って指を伸ばすが、途中で止まった。
消したところで、何かが変わるわけじゃない。
むしろ、本当に何もなくなる気がした。
俺は小さく息を吐き、スマホを胸の上に置いた時、里香の顔が思い浮かんだ。
同期であり、同じ配属先であり、俺に好意をもってくれているであろう里香の笑顔だ。
その時、短い通知音が鳴り、画面上部に表示された名前を見て、俺は思わず身体を起こした。
すぐさま通知をタップすると<日曜空いてる?>というメッセージが里香から来ていた。
俺は考えるより先に返信を打ち込む。
<空いてる>
送信して数秒ですぐに既読が付き、里香から返信が返ってきた。
<じゃあ少し会おっか>
具体的な時間も、場所も書かれていないが、俺はそれを深く気にしなかった。
日曜日に里香に会えば、このボロボロになったシステムを少しは修復できるかもしれない。
里香は優しいだからきっと話を聞いてくれ、責めずに味方でいてくれる。
そんな淡い期待が胸の奥に灯っていた。
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日曜日に待ち合わせ場所に指定されたのは、新宿駅から少し離れた喫茶店だった。
店内は静かで、休日の昼間にしては空いている。
先に来ていた里香は、窓際の席でアイスコーヒーを飲んでいた。
「おー。」
俺に気付くと、いつものように軽く手を上げる里香の笑顔を見て、少しだけ肩の力が抜けた。
「悪い、待った?」
「別に。」と、里香はいつも通りに笑う。
それに安心した俺が普通に会話を始めると、その会話はぎこちなさもなく普通に続いた。
責められることも、久美子の名前も、明日菜の名前も、真冬の名前も出ない会話だ。
俺は少しずつ落ち着きを取り戻し、やっぱり里香は違うとそう思い始めていた。
だが、注文したコーヒーが半分ほど減った頃、里香はストローを弄りながら、不意に言った。
「直樹さ。…少し休んだ方がいいよ。」
「ん?休む?」
突然の話題に、俺は意味が分からなかった。
「恋愛とか。…まあ女の子絡みを……だね。」
俺は数秒間、その言葉が理解できなかった。
「何それ。」と笑いながら返すが、里香は笑わなかった。
「そのままの意味。」
里香は窓の外を見たまま続ける。
「私さ。……直樹なら大丈夫だと思ってたんだよね。」
そう言う里香は責める顔も怒っている顔もしていなかった。
「どういう意味?」
「そのまんま。何だかんだ最後はちゃんとする人だと思ってた。」
里香は小さく笑うが、その瞳の奥には失望しているような色を感じる。
「いや、別に俺そんな……」
俺が何か弁明をしようとしたが、里香はただただ静かに俺を見つめた。
それが逆に苦しく感じ、言いかけていた言葉が自然に止まる。
「何も言えない?……私が怒っていると思ってるの?」
無言になった俺を前に、里香は少しだけ困ったように笑った。
「別に浮気してたからとかじゃないよ。誰にでも優しいとかも、個性だから別にいい。」
同期の男連中が知り、久美子が知っていたため、当然里香も知っていた。
それを俺はここで理解し、胸が少し痛んだ。
「問題なのはさ、自分が何してるか分かってないところかな。」
店内のBGMだけが流れ、俺は返事ができなかった。
里香の言葉が刺さり、反論は全くできなかった。
里香は俺を責めたいわけでも、説教したいわけでもないのだろう。
ただ、もう出ている答えを告げるだけの時間のため、待ち合わせをしたということか。
しばらく沈黙が続いた後、口が少し乾いていた俺は小さく言った。
「それって……終わりってこと?」
里香は数秒考え、それから再び困ったように笑う。
「うーん……。ただ、同じ課に配属になった同期っていうだけ、ってことかな。」
里香はそう言って、アイスコーヒーのグラスに残った氷をストローで軽く突いた。
俺は、何か言わなければいけない気がするのに、言葉が出てこない。
「ごめん。」
ようやく出たのは、そんな曖昧な一言だった。
その微妙な謝罪に、里香は首を横に振る。
「別に謝ってほしいわけじゃないよ。……私さ、直樹のこと嫌いになったわけじゃないから。」
里香の声は驚くほど穏やかで、俺の胸が少しだけ軽くなる。
だが次の言葉で、その感覚はすぐに消えた。
「でも、付き合いたいとも思わなくなった。」
里香はそう言って、今日で一番優しく笑った。
「なんで?」
里香の笑顔が心に痛いほど刺さり、自分でも情けないと思いながらも、聞かずにはいられなかった。
里香は少し考えてから言う。
「直樹ってさ……誰かを好きになる前に、誰かに必要とされたい人なんだと思う。」
俺は反論が思いつかず、黙ってしまう。
「だから一人になると苦しくなる。……でも、それって恋愛じゃないでしょ。」
里香は最後に小さく笑う。
「少し休みな……ちゃんと独りになった方がいいと思う。」
その言葉に俺は何も返せず、そのまま話が終わってしまう。
「じゃ、帰るね。」
里香のその言葉を合図に、会計を済ませ、店を出る。
駅へ向かう途中の交差点で、里香は足を止めた。
「じゃあね。」
「……うん。」
「月曜また会社で。」
里香それだけ言って俺に手を振ると、人混みの中へ消えていく。
俺はその背中を見送った。
追いかけようとは思わなかったのは、追いかけても意味がないことだけは分かっていたからだ。
久美子、明日菜、真冬、そして里香。
気付けば、みんな俺の前からいなくなっていた。
スマホを取り出すして、トーク一覧を開くと、まだ切れていない名前を見て、俺は少しだけ安堵した。
<小松真子>
今、俺の周りに残っているのは、たぶん彼女だけだった。




