第62話「【紫】の通告」
台所には、久美子が残していったしじみ汁、テーブルの上には明日菜が淹れてくれたココアのマグカップが並んでいる。
ココアの表面には薄い膜が張り、もう湯気は立っていなかった。
俺はしばらく、それを眺めていた。
この部屋は俺が1人で過ごすことの方が少なかったのかもしれない。
誰かが勝手に冷蔵庫を開けて、誰かがソファに寝転んで、誰かがゲームの話をして、誰かが飯を作って、誰かが俺とベットを共にした。
俺の部屋は何も変わっていないのに、俺の捉え方が何か変わったような感覚だ。
ソファに身体を預けると、ひどく疲れていたことが再認識される。
何もしていないのに、ずっと何かを背負っているような感覚だけが残っている。
久美子の言葉と、明日菜の泣きそうな声が重なり、俺の胸の奥が少しだけ痛んだ。
けれど、それが何の痛みなのか分からない。
申し訳なさなのか、寂しさなのか、罪悪感なのか、あるいはもっと別の何かなのか、俺には判断できなかった。
「何なんだよ……」と小さく呟いたのは、誰に向けた言葉でもなかった。
ポケットの中でスマホが震え、俺は数秒ためらってから画面を開いた。
正直、もう誰からの連絡も見たくないし、誰かの感情を受け止める余裕がなかったためだ。
画面に表示されていたのは、真冬からのメッセージだった。
<今からいつものゲーセンくる?>
シンプルなメッセージに、俺はしばらく画面を見つめる。
行くか行かないか、どちらを選んでも正解も不正解も無く、説明も良い訳も必要ない。
今の俺にはそれがありがたく、指が勝手に動く。
<いくわ>と、それだけ打って送信すると数秒後に既読がつく。
<り>というシンプルな一文字が帰ってきたことで、俺は今日初めて肩から何かを下ろしてくれた気がした。
部屋にはまだ冷めたココアも、鍋に入ったままのしじみ汁も見ないように、重い身体を引きずってそのまま玄関へ向かった。
真冬から言われた通り中野駅前のゲーセンへ向かう電車の中で、窓の外を流れる景色をぼんやり眺めていると、落合駅の掲示が視界に入った。
俺の通ってた高校の名前と同じ駅名だ。
上京してから実家には帰ってないし、高校自体もう閉校になって何年も経つ。
それなのに、その文字を見た瞬間、古い記憶が不意に浮かび上がる。
高校卒業式の日の中庭のベンチで、制服姿の彼女と最後の雑談に興じていた時、俺は人生で一番緊張していた。
相手の名前は南奈南。
小学校から高校までずっと同じ学校で、12年間ずっと同じクラスだった。
俺と俺の一番の友達と奈南、同じゲームが好きだったその3人で遊ぶことが多かった。
俺の友達は、高校からの付き合いだったこともあり、俺が奈南に惹かれていることは話していたわけでもない。
3人ともバラバラの進路となり、卒業したらもう会えなくなる。
だから奈南と最後抜け駆けをして、告白しようと思ったのだ。
人生で初めて、自分から、ずっと好きだったこと、離れる前に心の距離が近い関係性になりたいことを。
結果は、数秒で終わったが、別に酷い振られ方をしたわけじゃない。
『直樹ごめんね。私、付き合ってる人いるからさ…』と、その一言が返事としてもらえただけだった。
だからこそ、余計に何も言えなかった。
俺は窓の外へ視線を戻し、今さら思い出すような話でもないと思い返した。
この駅の前は何度も通っているはずなのに、もう何年も前のことを鮮明に思い出すのは何故だろうか。
車内アナウンスが流れ、俺は小さく息を吐いた。
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薄暗いゲームセンターの中は、電子音とレバーを弾く乾いた音で満ちていた。
いつもの筐体の前に真冬がいて、俺が隣に座ると、真冬は画面から目を離さないまま言う。
「顔死んでるじゃん?」
「……人の顔色見てないだろ……まぁ色々あってさ。」
と俺が力なく笑うと、真冬は「へー。」と興味無さげに返した。
興味がないという訳ではなく、俺に気を遣っているのかもしれない。
ただ、淡泊な反応は、今の俺にはありがたかった。
「ほら、直樹そっち座って。」
真冬が顎で画面を示し、俺は指定された筐体に100円玉を投入した。
対戦が始まり画面の中のキャラクターが動き出すと、真冬の普段の立ち回りから行動を読み、通れば勝つという単純なゲーム性に、脳が支配された。
ここには、久美子も明日菜もおらず、負の感情はない。
この瞬間、この画面と相対する時だけは、俺は何も考えなくてよかった。
数戦ほど終えた頃には、頭の中を埋め尽くしていた雑音も、少しだけ薄れていた。
負ければ悔しいし、勝てば嬉しいという、至極単純な世界だ。
「今の読みの欠片もないただのぶっぱだろ。」
「いやいや余裕で読んでたし。」
真冬が鼻で笑うと、俺も少しだけ笑った。
俺はなんだか久しぶりに、まともに笑った気がした。
その時、真冬のスマホが震え画面を確認した真冬が、「あ。」と短く声を漏らす。
「ごめん。うち帰るわ。」
「え?」
時計を見るがまだ21時にもなっていない。
俺はてっきりここから飯を食ったり、飲みに行ったり、場合によってはホテルへ流れたりするのかと思っていた。
「なんか用事あった?」
「んー。」と真冬は少しだけ考えるような顔をした。
「客。」と、それだけ言って立ち上がったため、俺は思わず聞き返していた。
「夜は出勤いれてないんじゃないの?今から?」
「今から。小遣いくれる本指がどうしてもって、うちも切りたくないから今から出る。」
「いや、でも……」と言いかけて言葉が詰まり、何を言おうとしたのか自分でも分からない。
俺はただ、まだ帰ってほしくなかったし、今日だけは一人になりたくなかった。
そんな感情だけが先に出ていた。
真冬は俺の顔を見て、小さくため息をついた。
「直樹さ。」
「ん?」
「最近ちょっとマジでキモい。」
俺は心臓が止まったような気がしたが、真冬は悪意もなく続ける。
「なんか勘違いしてない?」
「勘違い?」
「うん。……彼女いるのに、なんでうちに彼女みたいなこと求めてんの?」
返事ができない俺を後目に、筐体の光を見ながら、真冬は淡々と続ける。
「ゲームするのはいいし、飯も別にいい。……でもさ、直樹って客じゃないじゃん。」
そう言って真冬は肩を竦める。
「うち、客なら金払うから夜まで付き合うけどさ。……彼女いる男に、夜まで一緒にいてほしいとか、寂しいとか、そういうの求められても正直めんどい。」
あまりにも軽い口調だったからこそ、言葉が刺さる。
「別に怒ってないよ?」と言いながら、真冬は笑った。
「たださ。うちは直樹の彼女じゃないから。」
その一言で十分だった。
久美子とも、明日菜とも違い、責められているわけでも、失望されているわけでもない。
ただ単純に、線を引かれたのだ。
最初からそこにあった境界線を、俺が勝手に見失っていただけだった。
「じゃ、おつー。」
そう言って真冬は片手を上げ、何でもない別れ方でそのまま人混みの中へ消えていった。
筐体のデモ画面だけが、誰もいない対戦席を照らしている。
気付けば俺は、無意識に逃避先だと思っていた真冬からも、線を引かれていた。
画面の中のキャラクターは、入力した通りに動く。
しかし、人間は違う。
俺はレバーから手を離したまま、真冬が座っていた筐体を見つめ続けていた。




