第61話「【黄】の通告」
久美子との未来が削除され、空っぽになった部屋で、俺は二日酔いも相まって、寝落ちしてしまった。
辺りが薄暗くなったところで目が覚めたが、相も変わらず身体は重かった。
部屋を見ても玄関を何度見ても、誰もいない。
考えることすら面倒で、俺は枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。
通知が数件見え、昨日の飲み会の写真、迷惑メール、ニュースアプリ、その中に、見慣れた名前があった。
思わずタップし、メッセージを開いた瞬間、俺の指が止まる。
<お疲れ様です。大丈夫ですか?>
大丈夫ですかというその一文に違和感を覚える。
昨日の同期のみのこと、久美子から先ほど未来を絶たれたことを、俺は誰にも何も言っていない。
「それなのに……なんで分かったんだ……?」
小さな違和感が脳裏をよぎるが、その疑問を追いかけるだけの気力は残っていなかった。
今の俺は、誰でもいいから誰かに肯定してほしかった、誰でもいいから俺は大丈夫だと言ってほしかった。
その思いから、気が付けば、俺は返信を打ち始めていた。
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「佐藤さん、ちょっと痩せました?」
夜になり、明日菜が俺の部屋に入るなり、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「最近ちゃんとご飯食べてますか?」
「まあ、一応……」
そう答えると、明日菜は納得していない顔で小さく眉を寄せた。
「絶対ちゃんと食べてないですよね?」
明日菜はそう言いながら、コンビニのスープやおにぎりを取り出してテーブルへ並べていく。
「夜遅いですけど、これくらいなら食べられますよね?」
「なんか、保護者みたいだな。」
「だって心配なんですもん。」
明日菜は少しだけ拗ねたように言い、俺の前に温かいココアを作って置いた。
「佐藤さんは、頑張りすぎなんですよ。仕事もそうですし……プライベートもそうですし……」
ぽつりと明日菜が言う。
「そんなことないよ。」
「ありますよ。」
明日菜が迷いの無い即答を見せた。
「佐藤さんって、いつも周りのこと考えてるじゃないですか……誰かが困ってたら助けるし、変な空気になったら間に入るし……」
明日菜はココアの湯気を見つめながら、静かな声で言った。
「別に普通だろ?」
「普通じゃないです。」
明日菜の即答に、俺はつい笑ってしまう。
目の前で真っ直ぐ肯定されることが、思っていた以上に心地よかったからだ。
「佐藤さんは、ちゃんと周りを見てる人です。」
明日菜はそう言って、小さく首を振る。
「だから、全部が全部、佐藤さんだけのせいじゃないと思います。」
その言葉に、胸の奥で固く結ばれていた何かが少しだけ緩んだ。
そして、追い打ちをかけるように明日菜は続ける。
「佐藤さんは悪くないですよ……少し疲れてるだけです。……佐藤さんは悪くないですよ。」
静かな声だった。
その一言で、胸の奥に張り詰めていた何かが少しだけ緩む。
久美子はもういない、理解者はいない、そう思っていたのに今は、目の前の後輩が当たり前みたいに俺の心配をしている。
「……ありがとう、明日菜ちゃん……そう言ってもらえると、少し救われる。」
俺が小さく呟くと、明日菜は少しだけ目を丸くし、数秒後に顔がぱっと明るくなる。
まるで、その一言をずっと待っていたみたいに。
「本当ですか?」
「ああ。」
「よかった……」と、明日菜は安心したように息を吐いた。
それからの会話は穏やかだった。
仕事の話、大学の話、最近見た動画の話、俺の好きなゲームの話等、他愛もない雑談が続き、張り詰めていた神経が少しずつ緩んでいく。
昨日の夕方以降、初めて、自分がまともに人と話している気がした。
だから、その一言が混じった瞬間も、俺は最初、意味を理解できなかった。
「でも、大会の時は元気そうでしたし、真冬さんとの仲は平気そうでしたね。」
明日菜が何気なくそう言ったのを数秒遅れて、その言葉が脳に届く。
「……え?」
明日菜の指が止まり、「あ。」と、その小さな声だけで十分だった。
何かがおかしいと、そう確信するには。
「今、なんて言った?」
「えっと……」
「真冬って言ったよな?」
明日菜は露骨に俺から視線を逸らした。
「なんで、その名前知ってるんだ?」
「いや……」
「俺、お前に話したことあったか?」
俺は記憶を辿っても、明日菜の前で真冬の話をした記憶は一度もない。
「前に聞いた気がして……」と、明日菜が小さく言う。
俺は「言ってない。」と、即答した。
「勘違いだと思いますよ。」
「じゃあ何を勘違いしたんだよ。」
返答はなく、部屋の空気が少しずつ重くなり、俺の脳の奥で、引っかかっていた断片が繋がる。
さっき、明日菜は確かに『ゲーム大会』と言った。
「……待て、なんでゲーム大会のこと知ってる?」
俺はゆっくり顔を上げると、明日菜の肩がびくりと震える。
「それは……」
「俺、お前に話したか?」
格ゲー大会のことを知っている人間は限られている。
コミュニティの人間、当日現地にいた人間、うちの同期、そして真冬。
少なくとも、明日菜が知っているはずの情報ではない。
背筋を冷たいものが這い上がる。
今まで見えていた景色の輪郭が、少しずつ歪み始めていた。
「……明日菜……お前、何を知ってるんだ?」
俺は静かに尋ねた。
「ごめんなさい……っ」
不意に、明日菜が両手で顔を覆い、肩が震え、ぽろぽろと涙がテーブルへ落ちる。
「だって……不安だったんです……」
明日菜は絞り出すような声を上げた。
「佐藤さん、最近ずっと忙しそうだったし……私の知らない人の名前とか……知らない場所の話とか……増えていって……だから……確認したくて……」
明日菜は涙で濡れた顔を上げると、その目には怯えと執着が混ざっていた。
確認とは何の話だろうかと思っていると、明日菜は震える声で続けた。
「佐藤さんがお風呂入ってる時に……画面に通知が出て……」
「通知?」
「はい……『小松真子』さんから来てて……パスコード分からないから、中は見てません……でも気になって……」
明日菜の言葉がそこで途切れたが、その先は聞かなくても分かっていた。
「この間、佐藤さんの部屋で、佐藤さんがパソコン開いたまま寝ちゃった時に……フォトアプリとか……SNSとか……少しだけ見ました……」
俺のPCはスマホと同期がとれている。
少しでも断片的な情報を拾い集めれば、真冬という名前くらい辿り着ける。
信頼して部屋へ入れた相手が、俺の目を盗んで情報を集めていたという生々しい現実。
ただ、それだけだった。
「……お前、自分が何やったか分かってるのか?」
気付けば、俺の声が冷たくなっていたため、明日菜の肩がびくりと震える。
「それ、普通じゃないぞ。」
明日菜は俯いたまま、「知ってます。」と小さく答えた。
「普通じゃないですよ?……でも…」
急に声が落ち着いたトーンになり、明日菜は涙を拭った。
「佐藤さんが、そうしたんじゃないですか?」
「……は?」
俺は言われた意味が分からず、思考が止まる。
俺を見た明日菜の瞳は、責めるでもなく、怒るでもなく、ただ、本当に不思議そうな色をしていた。
「佐藤さん、いつも言ってたじゃないですか。困ったら相談していいよって。ちゃんと話してくれれば分かるよって。見捨てたりしないよって。だから私は信じたんです。佐藤さんなら大丈夫だって。佐藤さんなら、私を嫌いにならないって。私が不安になるたびに、佐藤さん、安心させてくれましたよね?大丈夫だよって、嫌いじゃないよって、面倒だと思ってないよって。不安になるならそれを吐き出していいって。痕が消えてさみしいならまた付けてあげるって。だから何度も何度も私に痛みと傷跡をくれたじゃないですか。それは信頼しているからそうしてくれたんですよね。だから私はその信頼に答えなきゃって。でも信頼されているかどうか、確認することも信頼なんだって気づいたんです。その信頼は安心から来るものだから、安心するために確認すべきなんだって思ったんです。だから私……確認してもいいんだと思ったんです。確認すれば安心できると思ったんです。」
そこまで続けた明日菜は、苦しそうに笑ってみせた。
「だって、佐藤さんが安心させてくれるから。」
不安になって、確認して、安心して、また不安になる。
俺はそこで初めて理解した。
明日菜は俺を監視したかったわけじゃなく、俺から切り捨てられることを恐れていた。
そして、その恐怖を和らげるために、情報を集め続けていた。
その依存を育てたのは、俺自身だった。
「ごめんなさい…本当に、ごめんなさい……」と、明日菜が震える声で言う。
「でも……私、佐藤さんのこと、好きだったんです」
その一言だけは、言い訳でも自己弁護でもなかった。
「だから、嫌われるのが、捨てられるのが、他の女のところに行かれるのが……怖かった……」
俺は何も言えなかった。
明日菜も泣いて、俺も傷付いて、どちらが被害者で、どちらが加害者なのか、もう分からなかった。
伸ばされた明日菜の手を、俺は反射的に避けた。
自分でも驚くほど自然な動作だった。
普通ならプライバシーを覗かれたことを怒るべきなのだろう。
だが、俺の胸にあったのは怒りでも恐怖でもなく、ただ、どうしようもない疲労感だけだった。
久美子にすべてを見抜かれ、未来を否定された直後だった。
その傷口が塞がる間もなく、今度は明日菜から重すぎる感情を差し出される。
誰かを傷付けないよう整合性を取り続けることも、誰かの期待を受け止め続けることも、誰かの不安を安心へ変換し続けることも、今の俺には、もう無理だった。
明日菜からはただただ無償の承認が欲しかっただけなのに、「お前は間違っていない!」と言ってほしかっただけなのに、今、その承認そのものが息苦しい。
俺はもう、誰の感情も処理したくなかった。
「……ごめん。」と、ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
明日菜が顔を上げると、涙で濡れた目が俺を見ている。
「今は……そういうの、全部無理だ」
それだけ告げて明日菜の腕を引き、部屋から出そうとする。
明日菜が何か言おうとしたが、聞きたくなかった。
もう誰の言葉も処理したくなかった。
「帰ってくれ。」と静かに言うと、明日菜が固まる。
「佐藤さん……」
「ごめん。」
今の俺からは、疲労でそれ以上の言葉が出てこない。
もう何も考えたくなかった。
明日菜は何かを言いかけて、やがて唇を噛み、そして小さく頷いた。
「……分かりました……また……会えますか?」
明日菜は自分で立ち上がろうとしない代わりに、震える声で聞いた。
その一言に、俺は返事ができなかった。
会いたいとも、会いたくないとも思わない。
ただ、考えたくなかった。
沈黙だけが部屋に落ち、数秒が経った時、それを答えだと受け取ったのだろうか。
明日菜は涙をこぼしながら、ゆっくりと立ち上がった。
「私、迷惑でしたよね。」と言った明日菜の声は掠れていた。
今の俺には、明日菜を傷つけないための言葉を組み立てる余力すら残っていなかった。
「そっか……」と、明日菜は小さく頷いた。
それから少しだけ間を置いたのは、俺からの引き留める言葉や、違うという言葉かもしれない。
俺が何も言わずにいると、長い沈黙の末に明日菜はゆっくり振り返る。
その顔は泣いているのに、どこか諦めきれていなかった。
「それでも……佐藤さんが好きでした……たぶん、今も…です。」
明日菜は震える声を上げながら、一歩だけ後ろへ下がる。
返事のできない俺を、明日菜は数秒だけ見つめ、それから諦めたように目を伏せる。
「……失礼します。」
カチャリ、と静かな音がしてドアが閉まる。
明日菜の後を追わなかった俺は、恐ろしいほど静か部屋で身動きが取れなかった。




