第60話「【青】の通告」
強烈な頭痛とともに、何かの物音が聞こえた気がして、揺れる頭を手で押さえながら目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む容赦のない朝日が、二日酔いの目に鋭く突き刺さる。
昨夜、駅前の裏路地で胃の中のものをすべてぶちまけた時の苦酸っぱい残味が、喉の奥に張り付いて消えない。
「……う、くそ……」と言いながら身体を起こした、その時だった。
キッチンの方から微かな生活音が聞こえ、泥のような意識のまま寝室を出る。
キッチンには、白いエプロン姿の久美子が立っていた。
「あ、直樹くんおはよう。お水、ここに置いておくね。」
テーブルの上にはペットボトルと胃腸薬。
久美子は何事もないように味噌汁を温めている。
俺は数秒かけて目の前の状況を認識しようとしたが、正常に理解ができなかった。
「……久美子?」
「うん?」
「なんでいるんだよ。」
「今日は元々遊ぶ約束だったでしょ。インターホン何回か鳴らしたんだけど、出てくれなかったから、ドアノブ触ったら開いたよ。」
そう言って久美子は振り返る。
「不用心だろ。…いや俺がか。」
「ごめんね。でも、直樹くんが心配だったから……」
言葉も、表情も、声の調子も、どこにも異常はない。
二日酔いの恋人を心配して様子を見に来ただけ。
それなのに昨夜から積み上がった違和感だけが、警告ログのように脳の片隅で点滅し続けていた。
目の前にいる久美子は、普段通りすぎるほどに普段通りだった。
久美子が淹れてくれてくれた白湯を口に含むと、冷え切った胃の奥へ熱が落ちていき、少しだけ吐き気が和らいだ。
ダイニングテーブルを挟んで、久美子が俺の元にしじみ汁を置き、向かいに座る。
何気ない沈黙の中、しじみ汁が体に染み渡る。
そして久美子が、ふと口を開いた。
「昨日、返信くれなかったね。」
その一言に、心臓が一瞬だけ強く脈打った。
路地裏で吐きながら見たメッセージが脳裏に蘇る。
「……ああ、急に同期の飲み会に捕まってさ……思ったより長引いたし、かなり飲まされたんだよ。」
そう言いながら、俺は視線を湯呑みに落とした。
「で、帰ったらそのまま寝て……スマホ見る余裕もなかったんだ。」
それも、完全な嘘ではない。
いくつかの事実を並べて1つの説明にする、いつも通りのやり方だった。
久美子は黙って聞き、やがて小さく頷く。
「そっか。大変だったね、男の人同士の飲み会って…」
責める声ではなく、疑う声でもなく、ただ受け入れるだけだった。
誰とどこに居たのか問いかける様子は微塵もない。
その反応に、俺はわずかに肩の力を抜く。
昨日の飲み会で散々追い詰められたせいで過敏になっていただけかもしれない。
少なくとも今のやり取りに破綻はないと、そう判断した瞬間だった。
久美子が静かな声で続けた。
「ねえ、直樹くん?」
「ん?」
「私、少し話したいことがあるんだ。」
そう言うと久美子は、テーブルの上に置いていたスマートフォンを静かに手に取った。
「四月の……初めてちゃんと恋人になれた……その日の翌日の日曜日なんだけどさ……」
「……何が?」
「真子ちゃんと、駅前のラーメン屋さんにいたよね。」
ガチリ、と脳の奥で何かが噛み合う音がして、一瞬で酔いが覚める。
久美子と何度かの失敗の後、ようやく繋がれた翌日、真子とラーメンを食べた日の記憶が、強制的に呼び起こされる。
「……なんで、それを知ってるんだ?」
俺が掠れた声で聞くと、久美子は首を傾げた。
「同期の子が見たんだって…」
それだけ言った久美子には、怒りも責める響きもまるでなかった。
ただ事実を確認するだけの声。
久美子は自身のスマホを数回スワイプし、俺の方へ向けた。
そこに表示されていたのはメモアプリだった。
<
●月●日 帰りに回転寿司(小松さん)
●月●日 ラーメン(小松さん)
●月●日 会社近くのカフェ(大学の後輩?)
●月●日 残業終わりに居酒屋(狩野さん)
●月●日 一緒にパン屋さんに行って出勤(狩野さん)
●月●日 ゲーム大会、終電無し(まふゆ?さん)
●月●日 直樹くん家でゲーム(小松さん)
●月●日 同期会キャンセルしてカフェ(大学の後輩?)
●月●日 ゲーム大会(まふゆ?さん)
●月●日 社員食堂(小松さん)
●月●日 コンビニ前のスペース(狩野さん)
>
無機質な文字列が、ただ並んでいるが、そのどれもに見覚えがあった。
「……何だよ、これ。」
「メモ。」と久美子は端的に答えた。
「最初はね、気のせいだと思ったの…だから忘れないように書いてただけ。」
画面を見つめたまま、久美子は続ける。
「でも、だんだん皆からの話とか、増えていったから……」
その言葉で、これは久美子が、自分自身を納得させるために残していた記録だと理解した。
俺は、予定が衝突しないようにカレンダーを管理していた。
誰とも鉢合わせしないように、嘘同士が矛盾しないように、気を付けながら運用管理していた。
だが久美子は別の場所で、別の方法で記録を集め続けていた。
問い詰めるためではなく、俺を信じ続けるために。
だからこそ、このメモは恐ろしかった。
久美子は一度も俺を責めず、ただただ、ずっと確認し続けていたのだ。
久美子は不思議なほど落ち着いた様子で、スマホを伏せるように置いた。
「最初はね、私が悪いのかなって思ってたの。」
久美子の静かな声に、俺は何も言えない。
「私は可愛くないし、真子ちゃんみたいに明るくないし、狩野ちゃんみたいに仕事ができないからかな、とか…」
久美子は、自嘲するような力のない笑みを浮かべた。
「だから、料理も覚えたし、服も変えたし、ダイエットもしてるし、メイクも練習したし、直樹くんが好きそうなゲームだって調べたよ……」
俺はそのいくつかは気付いていたが、何も返していなかったことに、胸の奥が重くなる。
「でもね、違ったみたい。」
久美子はゆっくり首を横に振った。
「直樹くんって、嘘つきじゃないんだよ…」
久美子の言葉に、俺は思わず顔を上げた。
「……え?」
「嘘つきなら、もっと分かりやすいと思うの。慌てたり、ごまかしたり、怒ったりするでしょう?でも直樹くんは違うの…」
久美子は真っ直ぐ俺を見る。
その目は、責める目ではなく、観察結果を伝えるような目だった。
「直樹くん、自分で嘘をついてると思ってないよね?」
俺の心臓が強く脈打つ。
「その時その時で、一番正しい答えを言ってるだけ。だから、後から話が繋がらなくなる。でも本人は悪いことをしてる感覚がない。」
言葉が出ない俺を後目に、久美子は続けた。
「最初は私も分からなかったんだ。なんでこんなに苦しいのか、なんで信じたいのに信じられなくなるのか、ずっと考えてた……」
そう言って久美子は、少しだけ目を伏せる。
「でもね、やっと分かったの。」
静かな声で話をする久美子は、泣いていない、怒ってもいない、だからこそ苦しかった。
「直樹くんは、私を騙してたんじゃない。私を見てなかったんだよ。」
その一言だけで、今までのどんな責め言葉よりも深く胸を貫かれた。
「私、ずっと待ってたんだ。いつか本当のことを話してくれるかなって……いつか私の方を見てくれるかなって……変わってくれるかなって……」
久美子は小さく息を吐き、少しだけ寂しそうに笑った。
「でも、変わらなかったね。」
その言葉には怒りも恨みもなかった。
ただ長い時間をかけて確認を終えた人間だけが持つ、静かな諦めがあった。
久美子は静かに立ち上がり、使っていたマグカップを流し台へ運ぶ。
まるで、いつもの休日みたいだった。
「今日は帰るね。」
久美子のその一言だけで、俺の胸がざわつく。
「……久美子。」
俺は気付けば呼び止めていた。
久美子は穏やかな表情を浮かべて振り返った。
その表情は、今の俺には余計に怖かった。
「なに?」
問われて、俺は言葉に詰まる。
何を聞きたかったのか、自分でも分からない。
謝罪なのか、弁明なのか、許しなのか、どれも違う気がした。
その時俺の口から出たのは、もっと根本的な問いだった。
「……怒らないのか?」
久美子は少しだけ目を瞬かせ、そして小さく笑う。
「怒ったよ。」
久美子の返答は予想外だった。
「…いっぱい怒った。…いっぱい泣いた。…いっぱい考えた。」
ぽつりぽつりと久美子は言いながら、バッグを肩に掛ける。
「でもね、ずっと同じところにはいられないから……」
俺は何も返せず立ち尽くすと、久美子は玄関へ向かう。
靴を履き、ドアノブに手を掛けたところで振り返った。
別れようとも、好きとも、許すともいわず、静かな音を立ててドアが閉まった。
部屋の中から久美子が消えた瞬間、俺は初めて気付いた。
久美子は今日、一度も未来の話をしなかった。
いつもの様に来週はどうしようとか、ここに行ってみようとか、この料理作ってみたいなとか、何一つ言わなかった。
いつもなら当たり前に存在していたはずの未来だけが、綺麗に削除されていた。
昨日、同期たちに囲まれた時間よりも、酒を飲まされ、責め立てられた時間よりも、今気づいたその事実の方が、俺にとっては遥かに重かった。




