第59話「【青】の同期」
金曜日の16時30分。
定時直前の俺が、今日は誰と過ごすかを考えている時、突如新しいグループチャットに突っ込まれた。
<佐藤直樹を囲む会>
そんな不穏なタイトルのチャットが表示され、俺は恐る恐る中を開く。
<事前連絡した通り、今日は同期のモテ男『佐藤直樹』を囲む男同期飲みです!参加表明をしたメンバーでチャット立てたので、連絡に使って。遅刻厳禁!>
通知の数字が恐ろしい勢いで跳ね上がっていく。
<ドタキャン厳禁なんで、そのつもりで!>
<主役は佐藤だからな!>
<佐藤逃げんなよ!>
ディスプレイに並ぶ無機質な文字列を見つめながら、俺の指先がわずかに冷たくなる。
「なんだこれ……」
思わず声が漏れた。俺の困惑を置き去りにするように、チャットのログはさらに更新されていく。
<佐藤が今日定時帰りというのは分かってるからな!>
<確保組は佐藤連行よろしくー>
<おっけー!>
俺はよくわからないまま、逃げ道を完全に塞がれたような不気味な圧迫感を感じた。
気づけば定時5分前、どうしようかと思っている俺の席の左右に同期の男が2人立っていた。
真子と同じ部署で、以前から真子に好意を隠していなかった2人だ。
「佐藤!今日の男子会楽しみだな!」
「迎えに来たぜー!」
明らかに周りに聞こえるように言っている2人を見て、隣の先輩が「今日は残業する必要無いから楽しんでこいよ。」と声をかけてきた。
完全に逃げ場を塞がれた俺は、そのまま同期の指示に従うしかなかった。
鐘が鳴ると同時に、「よし、行くぞ。」と腕を掴まれ、もう1人が俺の荷物を確保した。
「どこに?何の目的で?」
「飲み会なんだから飲むのが目的だろ。」
そう言って俺は脇を固められたまま、オフィスを出ることになった。
歩いて10分ほどの居酒屋では、広い座敷が貸切になっており、俺たち以外の参加者は集まっていた。
促されるまま、座敷のテーブルの一番奥のお誕生日席に座ることになる。
俺が席についた瞬間、皆はグラスにビールを注いでいたが、俺の前にはグラスではなくピッチャーが置かれた。
「おい。」俺は声をあげるが、気にする同期はおらず、この嫌な予感が外れることを祈るしかなかった。
次の瞬間、周囲の4人が中瓶を手に取り、ピッチャーへ一斉にビールを注ぎ始め、みるみる泡が盛り上がっていく。
「いや待て待て待て。」
「主役なんだから遠慮すんなって。」
「愛情だよ愛情。」
「重いわ。」
俺の抗議など、もはや誰も聞いていない。
「よし、全員揃ったな。」と、誰かがそう言った直後だった。
「じゃあ乾杯…といいたいところだけど、その前に。」
正面に座る同期がニヤリと笑い、座敷の空気が妙にざわついた。
「佐藤くんは誰が本命なのかなー?」
直球すぎる質問に、俺の思考回路が一瞬だけ停止する。
「は?」
「とぼけんなって。」と誰かが言うと、周囲から笑い声が上がる。
「最近さ、お前いつ見ても誰かといるじゃん。」
「そんなことねーよ。」
「いや、あるね。この前も小松と食堂いたし。」
「あー見た見た。前、日曜に駅前のラーメン屋に小松と居たのも見たしね。」
俺は数ヶ月前の日曜の話を持ち出され「え?」と、思わず声が漏れる。
「あと狩野さん。」と、別の同期が口を挟む。
「最近よく一緒にいるよな。」
「それは、同じプロジェクトで2人の打ち合わせが多くて、業務的にも…」
「年休取ってテーマパークで打ち合わせ?流石、できる男は違うぜ!」
そう言われて、俺は今度は返事が詰まった。
「あとゲーム大会なー。」
「まふゆさんだっけ?めっちゃ仲良しだよな。」
「配信見た見た。あれは結合済みの距離感!」
「準優勝おめでとうございます!」
その声に合わせて、周りからドッと笑いが起きる。
俺だけは笑えず、この会の趣旨を理解した。
これまでの皆の中に蓄積された途切れ途切れの記録が、この場では全部が同じテーブルの上に並べられている。
「なんでそんな覚えてんだよ。」
思わず口をついて出る。
すると同期の一人が笑いながら肩をすくめた。
「覚えてるっていうか。」
「お前が目立つんだよ。」
「そうそう。」
「佐藤、自分で思ってるより有名人だからな。」
その瞬間だけ、背筋に妙な寒気が走った。
まるで自分の行動履歴が、知らないところで共有されていたみたいだった。
だが、その空気はすぐに破壊される。
「よし!」
「じゃあ主役は飲め!」
「女とは飲めるのに、俺らとは飲めねぇとか言わねぇよな?」
「乾杯まだだからな!」
「まずそれ空けろ!」
次々と飛んでくる声に押し流されるように、俺は目の前のピッチャーを見下ろした。
泡の立ったビールがなみなみと注がれている。
誰も酔っていないのに野次が飛び、異様な雰囲気に包まれている。
何かを確認しに来たみたいな視線も、ちらほら見え隠れしている。
ここで席を立ち、飲み会を拒否すること自体は出来る。
だが、それをやった瞬間に何が起きるか分からない。
なぜ俺が呼ばれたのか、何を知っているのか、誰が何を覚えているのか、この会は何なのか。
それが分からない以上、ここで逃げる方が危険だった。
少なくとも今は、合理的に従うほうがいいと判断し、俺はピッチャーへ手を伸ばした。
状況は理解できないが、少なくとも今は、従う方が得策だと判断した。
ピッチャーを持ち上げ、一気に流し込むと冷たい液体が喉を通り、胃へ落ちていく。
ビールの炭酸が重苦しいが、それでも止めるわけにはいかない。
止まれば余計に面倒になる気がした。
だから何も考えず、戻しそうになりながらも、ただ機械的に飲み続ける。
ようやく空になったピッチャーをテーブルへ戻した時には、胃の中でビールが不快な重量を持って存在していた。
その瞬間、座敷から大きな拍手が起きた。
「よし、空いたな。」
誰かが空になったピッチャーを持ち上げる。
「じゃあ次は乾杯用な、いくぞ。」
そう言いながら近くの同期達は、中瓶を1本ずつ手に取った。
「これは古見さんな。」といいながら、ドボドボとビールが注がれると、周囲から笑いが起きる。
次の同期は「これは小松。」と言い、さらにビールが増える。
3本目を持つ同期は「狩野さん。」と、4本目を持つ同期は「で、これが真冬さん。」とそれぞれ言い、ピッチャーの中で泡が盛り上がる。
俺は思わず「待て。」と声を上げた。
「何でその4人なんだよ。」
すると同期の1人が「え?違うの?」ニヤリと笑い、座敷全体が爆笑した。
「じゃあ他にもいる?」
「追加注文しようか?」
「第五婦人の分が必要らしいぞ!」
「誰だー?大学関係かー?」
「やめろ!!」
反射的に出た俺の声に、今度はさらに大きな笑いが起きる。
その瞬間、自分で失言したことに気付いた。
座敷が一瞬だけ静まり返ったと思ったが、すぐに次々に野次が飛び始める。
「いるんじゃねぇか!」
「第五婦人候補!」
「追加戦士発覚!」
「やっぱ隠してた!」
爆笑が巻き起こったため、俺は慌てて口を開く。
「違う違う違う!そういう意味じゃなくて……」
慌てて否定するが、もはや誰も聞いていない。
「じゃあどういう意味だよ。」
「それ説明できる?」
「無理だろ。」
好き勝手な野次が飛び交うが、その騒ぎは長く続かなかった。
それまで笑っていた同期の一人が、思いっきり瓶ビールをテーブルへ置いたからだ。
その大きな音で、その場の全員が口を閉じた。
「なあ、佐藤。」と呼ばれ俺は顔を上げると、久美子と同じ部署になった同期だった。
「一つだけ聞いていいか。」
その声には、今までの茶化しや悪ふざけが一切混じっていない。
「……何だよ。」
「お前さ……古見さんのこと、どうするつもりなんだ?」
俺は同期から真っ直ぐ見られ、胃の奥が冷たくなった。
「……何の話だよ。」
「分かってるだろ。入社前日の飲み会でお前、言ってたじゃん。」
誰も笑わない、誰も助け舟を出さない。
「古見さんと付き合ってるって。」
一瞬だけ、周囲の音が遠のき、嫌な汗が俺の背中を流れた。
「俺、知ってると思うけど、古見さんと同じ部署なんだよ。……だから嫌でもお前の話が聞こえる。」
彼の話を遮るものはなく、皆一様に沈黙を続けている。
「今日も昼休みに雑談した時、こんなこと言ってた。」
『直樹くん最近忙しそうなんだよね。』
『ちゃんとご飯食べてるかな。』
『今度これ作ってみようと思うんだ。』
『喜んでくれるかな。』
彼は、久美子の生々しい発言を淡々と並べた。
俺はそれを聞きたくなくて「……やめろ。」と、思わず口から漏れる。
だが彼は止まらない。
「別にさ……浮気するなとか、他の女と遊ぶなとか……お前と友達でも無い俺が言う立場じゃねぇよ。……でもな。」
彼が一拍溜めて俺を再度睨みつけてきたため、場の空気がさらに張り詰める。
「古見さんを馬鹿にするのだけは違うだろ。」
彼の言葉には、誰も何も言わない。
「お前が他の女と何してるかなんて知らねぇ。証拠もねぇ。だから追及する気もない。」
その言葉に、俺はかえって逃げ場がなくなる。
さらに、彼の声が少しだけ強くなった。
「でも、もし俺たちが見てきたことの少しでも本当なら、古見さんだけは解放してやれよ。」
胸の奥が重く沈むんだ俺を見て、彼は最後に小さく息を吐いた。
「お前。古見さんのこと好きじゃないだろ。」
その言葉に返事はできなかった俺の沈黙が、雄弁な回答になっていた。
しばらくして誰かがぽつりと呟く。
「……やっぱりか。」
その声に続くように、「間違いないな。」という低い声が上がった。
「古見さん可哀想だわ。」
「いや、マジで。」
誰も怒鳴らず、説教もせず、ただ事実を確認したような声だけが広がっていく。
その方が余計に堪えた。
俺は思わず反論しようとしたが、言葉が出てこない。
久美子を大事にしているとは言えなかった。
久美子さんだけを見ているとも言えなかった。
久美子と結婚したいと思っている。
それも違った。
何を言っても嘘になり、俺は何も思いつかず、何も言えずただ俯いて沈黙するだけだった。
しばらくして、誰かがため息を吐いた。
「もういいだろ。」
その一言で空気が緩み、尋問は終わった。
誰かが追加の酒を頼み、別の誰かが唐揚げを取り分け始める。
だが、まわりの喧騒に、俺だけが取り残されているような感覚だった。
その後の飲み会の記憶は曖昧だ。
誰かと話した気もするし、何かを言い返した気もするが、ほとんど覚えていない。
覚えているのは、気付けば自分の行いの懺悔という理由で何杯も飲まされていたこと。
「古見さんに謝れよ。」と、誰かがそう言った声だけだった。
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深夜、午前2時前。
終電の消え去った駅前の裏路地で、俺はガードレールにしがみつきながら、激しく吐瀉していた。
胃液の苦酸っぱさとアルコールの臭いが鼻腔にまとわりつく。
視界が揺れ、頭も回らないのに同期たちの言葉だけは、妙に鮮明だった。
『古見さんを馬鹿にするのだけは違うだろ。』
『古見さんだけは解放してやれよ。』
『お前、古見さんのこと好きじゃないだろ。』
吐き気と一緒に、その言葉まで胃の底から込み上げてくる。
ポケットの中でスマホが短く震え、ゆっくり見ると、表示されたのは久美子の名前。
<花金飲み会どうだった?>
俺は画面を見たまま固まった。
俺は何も言っていない、予定表にも入れていないのに、何故久美子が今日の飲み会を知っているのか。
数秒後にまた通知が届く。
<明日、直樹くんちで待ち合わせにしよっか?>
胸の奥が嫌な音を立てる。
今日一日で聞いたどんな言葉よりも、この何気ないメッセージの方が重かった。
久美子は何も責めない、疑わない、確認もしない。
俺が返信を返さなくても、会う回数が減っても、予定を後回しにしても。
まだ俺を信じている、まだ俺を好きでいる。
だから苦しかった。
もし久美子が怒ってくれたら、泣いてくれたら、責めてくれたら、俺はもっと楽だった気がする。
悪者になればいいだけなのだから。
だが久美子は何も知らないまま、何も疑わないまま、ただ当たり前のように、明日の予定を聞いてくる。
画面の向こうにあるのは愛情だった。
それも、俺が今日見てきたどんな感情よりも純度の高いものだ。
だから返信できない。
『行くよ。』という言葉を書く資格があるのか分からない。
『ごめん、予定ある。』というのも嘘になる。
『別れよう。』の文字を入力する勇気は、もっと無かった。
カーソルだけが点滅している。
今日初めて、俺は自分の人生が最適化できない問題に変わったことを理解した。




