第56話「【緑】の安息」
昨日の昼休み、社員食堂で真子が放った言葉が、一晩経っても頭から離れなかった。
『私のこと好きじゃないでしょ。……ってか、ヤりたいだけ。』
『好きなら付き合おうって言うじゃん?』
と、事実を確認するみたいに、当たり前のこと真子が言っただけだ。
好きなら付き合おうと言うし、付き合おうと言わないなら好きじゃない。
その単純なロジックを前にして、反論だけが見つからなかった。
午前中の業務中も、意識がずっと昨日に引っ張られていた。
その結果だったのだろう。
「佐藤くん、ちょっといい?」
モニター越しに声を掛けられ、俺は顔を上げた。
更改プロジェクトのサブリーダーを担当している先輩社員が、俺に向かって手招きしている。
先輩の席に向かうと、俺が先ほど確認依頼をした内部設計書が映し出されていた。
「ここの境界値条件だけど、これだと異常系パターン網羅出来てないよね?」
先輩に指摘された箇所は、読み返せば気付けるレベルの初歩的なミスだった。
「あ……すみません……完全に見落としてました。」
「佐藤くんにしては珍しいね。」
先輩は不思議そうな顔で首を傾げ、今の俺にはその反応の方が余計に刺さった。
「これ、午後までにパターン網羅できる?」
「はい。すぐ対応します。」
「よろしく。テスト仕様書も同じとこダメだから、合わせて直してね。」
先輩の指示に頷き、自席に戻った俺は小さく息を吐く。
ここに配属されたまだ短いが、初めて犯したミスだった。
モニターに表示された設計書を見つめながら、自分でも情けなくなる。
真子のことを考えて集中できませんでした、なんて理由になるはずもない。
仕事とプライベートは切り離して、独立して管理するのが俺のはずだ。
なのに今日は上手くいかなかった。
そんなことを思っていると昼休みになり、俺は気分転換しよと席を立つ。
給湯スペースの横にある自動販売機で缶コーヒーを買おうとした時だった。
「あ。」と、聞き慣れた声がした。
振り返ると、里香がブラックコーヒーの缶を片手に立っていた。
「「お疲れ」」
お互いに声がハモった後、里香は俺の顔を見て少しだけ首を傾げる。
「今日、珍しく元気ないね。上手くいってないの?」
俺は里香の指摘を受け、思わず苦笑した。
「あー、分かる?」
「分かるよ、ずっと肩落ちてるし。先輩のデスクに呼ばれてたし。その件?」
そう言って里香は缶を軽く揺らす。
「まあ、それも1つではある。」
里香は「そう。」と言い、それ以上の理由は聞かなかった。
他の理由は何なのかとか、普通なら聞きそうなことを一つも聞かない。
真子は興味がないから聞かないが、里香は俺が話したくなったら話せばいいと思っているから聞かない。
真子と里香、2人は同じ行動を取るのに、俺の受け取り方はまるで違った。
ただ隣で缶コーヒーを開け、プシュッという小さな音だけが響いた。
「たまにはミスしてくれないとさ、比べられる私もきついから。その方が助かる。」
里香は前を向いたまま言った。
「あとさ、直樹って、意外と無理するタイプだと思う。」
「そうかな?」
「分かってないってことは、そういうタイプってことだよ。」
里香の隣にただいるだけなのに、不思議と肩の力が抜ける。
その理由を、俺はまだ上手く説明できなかった。
「里香はさ。」
「ん?」
俺は缶コーヒーへ視線を落としたまま口を開く。
「人のこと、気にならないの?」
「気になるし、気にしてるよ。」
そう言いながら、里香は当然みたいな顔をしている。
「いや、例えばさ。俺が何で落ち込んでるとか。」
里香は少しだけ考えるような仕草を見せ、その後小さく頷いた。
「ああ、それは普通に気になるけど……聞いてほしいなら、自分から話すんじゃないの?」
「聞かれないと話せないこともあるだろ。」
「あるかもね。」
俺の反論を、里香はあっさり認める。
「でも、その時は聞いてほしいって言うと思う。私はエスパーじゃないし、勝手に理由を決めつける方が失礼でしょ。」
そう言って笑顔を見せる里香に、俺は何も返せなかった。
その考え方は、俺の周りにはあまり居ない種類のものだったからだ。
心配になる久美子、不安になる明日菜、興味を持たない真子、話題を流す真冬。
だが里香は、気にしているのに踏み込まないと言った。
その違いが俺の心地良さの正体なのだろうか。
そんなことを考えていると、昼休み終了を知らせるチャイムが鳴った。
「あ、午後が始まった。戻らなきゃ。」
里香はそう言って、飲み終えた缶を軽く振った。
「午後も頑張ろ。」
「おう。」
それだけ言って、俺たちはそれぞれの島へ戻った。
午後の業務は午前中より幾分かマシで、設計書の修正も終わり、指摘箇所の見直しも完了する。
それでも、頭の片隅に張り付いた違和感だけは消えなかった。
定時が近付き、モニターへ映る設計書を閉じる。
今日のタスクは予定通り完了し、十分な進捗が得られている。
だがやはり、俺の胸の奥には、小さな引っ掛かりだけが残っている。
真子の正しい言葉『付き合おうと言わないなら好きじゃない。』は、それほどまでに、厄介だった。
もし本当に好きじゃないなら、どうして俺は、同期のあの男のことが気に入らなかったんだろうか。
どうして真子が誰と遊ぶのかを気にしたんだろうか。
どうして今も、こうして考え続けているんだろうか。
答えは出ないが、1つだけ分かることがある。
今日一日中俺が考えていたのは、明日菜のことでも、里香のことでも、真冬のことでもない。
当然、久美子のことでもなかった。
ずっと真子のことだった。




