第55話「【赤】の無関心」
翌朝、俺の部屋で明日菜の用意した簡単な朝食を食べた後、明日菜と共に家を出た。
朝の満員電車に揺られながらも、不思議と足取りは重くなかった。
むしろ、最近脳内に溜まっていた澱のような疲労感すら薄れている気がした。
その理由は俺の中で明確だ。
昨夜の明日菜は、救われたような顔で何度も感謝の言葉を口にしていた。
俺が与えた言葉に頷き、俺が付けた痕を愛おしそうに指でなぞり、最後には安心したように眠っていた。
明日菜は分かりやすく不安になるため、安心させたり落ち着かせるために、印をつけてやる。
それが消えかかるとまた不安になると、その繰り返しだ。
必要な入力と出力が見えている以上、管理は難しくない。
少し優しくして、わざわざ時間を作ったように装い、痛みとともに痕跡を残す。
それだけで明日菜は満たされる。
これは恋愛の駆け引きというより、決まりきった条件分岐をなぞる作業に近かった。
俺が求める結果を返してくれる以上、そこに予測不能な要素は存在しない。
そう思うと、胸の奥に小さな万能感が広がった。
俺はその感覚を反芻しながら、午前中の業務を驚くほど軽い気分で片付けていった。
昼休みになり、社員食堂のレジに並んでいると、後ろから聞き馴染みのある声が聞こえた。
「あ、直樹じゃん。」
トレイを手にした真子が、いつものように眠そうな顔で俺の後ろに並んでいた。
「おう。1人なら一緒に食べる?」
「うん、いーよー。」
向かい合って席に着き、定食へ箸を伸ばす。
それだけのことなのに、少しだけ肩の力が抜けた。
真子は、俺が昨日どこで誰と過ごしたのかは気にせず、興味を持っていないことは分かっている。
「そういえばさ、錬士の情報見た?14年振りの完全新作だよ!!」
真子は唐揚げを頬張りながらスマホをこちらへ向けた。
「発売来年みたいだけど、アクサも居たし、マゼガンとかパキプレコンとかも居たよ!今からめっちゃ楽しみだよねえ!」
思い出した途端にテンションが高くなったのか、真子が満面の笑みを浮かべる。
「見た見た!グラフィックもめっちゃ綺麗になっててテンションあがったわ!」
「めっちゃわかる!しかも絶対今回はDLCで追加要素くるよ!何千回も遊べる!」
利害関係や未来の関係性への期待も確認もない、ただの下らない会話をしながら食事をする。
それが真子との時間の魅力でもあった。
「おい、小松!今度の土日暇か?」
俺の背後から大き目の男の声が飛んできたため振り返ると、真子と同じ部署の営業寄りの陽キャ同期が立っていた。
以前、食堂で真子と俺の横に滑り込んできた、2人組のうちの1人だ。
前は「小松さん」呼びだったのに、今は「小松」と呼び捨てになってのが、俺は気になった。
「あれ、気づかなかったけど、また佐藤と一緒?」
営業男が薄ら笑いを浮かべながら、俺の隣に座ってきた。
既に食器は空になっていて、座る必要など毛頭無いことに気付いた俺は、さらに胸がもやもやした。
「偶然、偶然。」
真子はそう答えると、俺たちを気にも留めず、カレーを口へ運んだ。
だが、その偶然が何度目なのか、俺はきちんと把握している。
「あー、後今週の土日は別に暇だよー。」
俺の目から見ると、少し怠そうに真子は答えた。
「マジ?じゃあ今度シーシャ行こうぜ。池袋の新しい店がフレーバーも多くて、スムージーも上手いらしいし。」
「えー、それ何が楽しいん?」
「行けばわかるって!なら、その前後にゲームバーも行こうよ。小松そういうの好きなんでしょ?」
「あー、それは面白そう。」
真子が承諾に近い返事をすると、営業男は満足そうに笑った。
「だろ?」
そう言うと、営業男はトレイを持って立ち上がり、なぜか俺に一度だけ視線を向けた。
別に何か言ったわけじゃないが、その目はどこか勝ち誇ったようにも見えた。
「あ、そうだ。」
男が歩き出す前に、思い出したかのように真子の方を向いた。
「小松、今度はちゃんと終電で帰れよ?」
「んー?何だっけそれ?」
「この前みたいに寝落ちされたら困るし。」
「あー、あれね!いやー、あれは事故だったし。」
「事故で終電逃すなよ。」
「結果的に若手みんなで雑魚寝になったし、楽しかったからセーフ。」
「じゃあ、また連絡するわ。」
そう言い残し、営業男は今度こそ立ち去っていく。
だが去り際、ほんの一瞬だけもう一度俺へ視線を向けた。
わざと真子と自身との距離感を見せつけることで、俺がどう反応するか見ているのだろうか。
真子は何事もなかったようにカレーを口へ運ぶ。
「ゲームバーって、ちょっと面白だよね。」
真子は特別な感情も無く言ったのだろう。
誰に誘われても、ただ面白そうだから行くという習性なだけだ。
俺の家へ来る時と同じで、何も変わらない。
だからこそ、何故か腹立たしかった。
男の背中を見送りながら、俺は無意識に箸を握り直す。
俺はシーシャなんて興味がないし、ゲームバーに行くくらいなら自分の環境を整える。
それでも今だけは、その男が少しだけ気に入らなかった。
真子が誰に誘われようが自由なのは、最初から分かっている。
俺だって真子にとっては、十把一絡げの遊び相手の1人でしかないはずだ。
なのに、どうしてこんなにも面白くないのだろうか。
箸を握る手に無意識にさらに力がこもり、指の色ががまばらに赤と白に変化する。
俺の記憶は、入社して間もない頃のログへと引き戻されていた。
真子と初めて身体を重ねた翌朝、俺の隣で目を覚ました真子は、大して気にもしていないような顔で欠伸をしていた。
『おはよー。お腹空いた。コンビニ行かん?』と服を着るのと同じくらい自然に会話が始まったとき、俺は心底心地良かった。
責任も、確認も、『これからどうする?』も、『私たち付き合うの?』もなく、ただ昨日のゲームの続きをするみたいな顔で、真子は俺の隣にいた。
久美子とは気を使って、言葉を選んで、傷つけないように考えて、何度も失敗したのに、真子との間にはそんなものは必要なかった。
『そいや、久美子と付き合ってんの?』と、帰り際にそう聞かれた時も同じだった。
『ふーん』とそれだけ言って怒りもしなければ、泣きもせず、俺の事を責めたりもしなかった。
俺はその時、真子のことを理想的だと思った。
余計な感情や、面倒な確認が無く、最小コストで成立する関係だ。
だから俺にとって真子は、最も安全で落ち着ける場所だったはずだった。
なのに、今の俺は、あの営業男の言葉が妙に引っ掛かっていた。
真子が『誰かの部屋で遊び、終電を逃し、雑魚寝した。』ということ。
真子なら十分あり得るが、本当にそれだけなのだろうか。
真子は警戒心が無い上に距離感が近く、興味があることには無防備に飛び込む。
あの日のSNS投稿だってそうだ。
服が泥と海水で汚れて気持ち悪いから、周囲に男が居ても脱いでしまう。
自分以外のものは、真子の判断材料に入っていない。
そして、俺の知らない場所で、俺の知らない時間に、俺に向けるのと同じ笑顔で、誰かと馬鹿みたいな話をしていたのだろうか。
そう考えた瞬間、自分でも理由の分からない苛立ちが、俺の胸の奥を掻き回した。
そんな時、真子が不意に「ねえ、直樹さ。」と言いながら、顔を上げた。
「里香とは最近どうなの?」
「……は?」と俺は思わず間抜けな声が出た。
「あと明日菜ちゃんだっけ?直樹の研究室の後輩の子。」
俺の心臓が嫌な音を立てた。
「それと真冬ちゃん。」
さらに追撃が飛んでくる。
「……なんでお前がその名前知ってるんだよ。」
「なんでって……そんなの普通に分かるじゃん?」
真子は本当に不思議そうな表情で、首を傾げた。
「何が分かるんだよ。」
俺は少し棘のある声で返した。
「直樹、スマホ鳴りすぎだし、夜中ずっと起きてスマホ弄ってるし。」
そう言いながら真子がカレーを一口食べ、気にした様子もなく続ける。
「何してても鳴ってるし、たまにスマホ丸見えで女の子の名前いっぱい出てるし。」
まるで天気の話でもするみたいな口調だった。
「別に見ようとしたわけじゃないよ?たまたま見えただけだから大丈夫。」
黙ったままの俺を見て、真子は肩を竦めた。
「同期も言ってるよ。……佐藤って結局誰と付き合ってるの?ってね。」
その一言に、俺の胸の奥が小さくざわつく。
「私も同期のグルチャは5つくらいしか入ってないけどさ、久美子だと思ったら違う人といるって言われてたり、里香とも仲良いの見たとか言われてるし。……まあ、私的にはどうでもいいんだけど。」
真子の「どうでもいい」という一言は、俺にとって何故か重かった。
真子は今、嫉妬でも怒りでも責めている訳でもない。
ただただ、本当に俺の関係性に興味がないのだ。
「誰と付き合ったとか、誰と別れたとか、修羅場になったとか、そういうの面倒だから、私に報告とかいらないからね。」
その瞬間、俺が恐れていたのは追及じゃなく、もっと別の何かだったことに気が付いた。
「直樹さ。」
「……なんだよ。」
「私のこと好きじゃないでしょ。……ってか、ヤりたいだけ。」
俺の心臓が一瞬だけ止まったような気になった。
「何言ってんだよ。」
「だって、好きなら付き合おうって言うじゃん?」
真子はあっさり言って、水を一口飲んだ。
「直樹、それ言わないし……まぁだから楽いんだけどね……私ももう恋人とか面倒だし。」
本当に同てもよさそうに言う真子に、反論が出てこなかった。
「ゲームして、ジャンクな飯食って、暇だったら遊んで、眠かったら寝る。」
そこで真子は一度言葉を切って、いつものように少し笑った。
「今のままが一番よくて、一番楽じゃん。」
俺は何も言えなかった。
目の間の真子は、俺がどんな感情で黙っているのかも興味がないだろう。
それなのに、営業男へ向けた苛立ちとは違う種類の何かが、俺の胸の奥へ静かに沈んでいった。
「じゃあ、またねー。午後も仕事だー。」
真子はそれだけ言うと、当たり前のような足取りで返却口へとトレイを運んだ。
次の約束や、振り返ってこちらを確認する視線すらも、何一つ残すことは無かった。
俺は、食べかけの定食に箸をつけず、その背中を見送るしかなかった。
明日菜は俺を求める。
久美子は俺を信じる。
里香は俺を理解しようとする。
真冬は俺に線を引く。
だが真子は違う。
真子は、俺がいなくても成立してしまう。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
俺は冷めかけた定食へ箸を伸ばしたが、結局一口も食べることが出来なかった。




