第54話「【黄】の相談」
残業が終わったのは午後9時を回った頃だった。
俺はパソコンをシャットダウンしながら小さく息を吐き、今日は進めたかった作業の半分も終わらなかったことに気分が落ち込んだ。
今日の仕事に見切りをつけ、帰り支度をしていたところで、デスクの上のスマホが震えた。
<まだ会社ですか?>
シンプルなメッセージを送ってきたのは明日菜だった。
<今終わって帰るところ>
そう返すと、明日菜の既読はすぐについた。
<お疲れ様です>
<私だったら絶対無理です……>
弱音を隠さないところが明日菜らしくて、思わず少し笑ってしまう。
<慣れだよ>
<いや、慣れててもそんなに頑張るの無理ですよ……佐藤さんだから出来るんだと思います>
その一文は、根拠なんてない社交辞令のように思える。
それでも、昨日の夜から俺の胸の奥に残り続けている真冬の違和感を、一瞬だけ忘れさせてくれる程度には心地良かった。
<ありがとう。お世辞でも嬉しいよ!>
<お世辞じゃないです!>
俺が返事を返すと、すぐに明日菜から返信が飛んでくる。
<本当にそう思ってますよ!!……あと、明日少しだけ相談乗ってもらえませんか?>
相談そのものよりも、その言葉の続きを聞いてみたい気がした俺は、少し考えてから明日菜の提案に了承した。
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翌日退勤後、会社の最寄り駅近くのカフェへ向かうと、窓際の席で明日菜が手を振っていた。
大学の後なのだろうか、白い半袖ブラウスにネイビーのフレアスカートを着ていた。
その透け感のある生地に、否が応でもこの後のことを想像してしまう。
中に入り、「ごめんね、ちょっと遅かったかな。」と言いながら、明日菜の向かいの席に座る。
「いえ、全然です!こちらこそ、すみません。急に呼び出しちゃって…」
「いいよ。で、相談って?」
そう聞くと、明日菜は少し困ったように笑った。
「たいしたことじゃないんですけど……」
そう前置きしてから、明日菜はしばらくストローを指先で回していた。
話し出すまでに少し時間が掛かるのは、明日菜にしては珍しいなと思った。
それほど言いにくいことなのだろうか。
明日菜からようやく出てきたのは、「佐藤さん、忙しいですよね…?」という言葉だった。
「まあ、同期の中だと、忙し目の部署に配属になっちゃったからねぇ…」
「残業も多くて、夜も遅いですし…」
「まぁ、仕事だから、多少は仕方ないかなと思ってるよ。」
俺は明日菜は小さく頷き、少しだけ視線を落とす。
「私も、しょうがないって分かってるんです…」
「何が?」
「連絡とか……会ったりとかです…」
その言葉で、俺はようやく相談の正体を理解した。
「ごめん。ちょっと返事遅かったかな。」
俺の言葉に、明日菜は「いえ!」と慌てたように首を振る。
「責めたいわけじゃないんです。本当に……」
それから明日菜が少しだけ笑ったが、その笑顔はどこか弱々しかった。
「ただ……たまに不安になるんです。」
「不安?」
「はい……私、佐藤さんに嫌われるようなことしてないかなって…」
そう言いながら、明日菜はアイスティーへ視線を落とした。
寂しさを感じるその姿に、思わず言葉に詰まる。
「いや、…してないんじゃない?」
「でも、分からないじゃないですか……私、結構面倒くさいですし……」
明日菜は自嘲的に小さく笑った。
「自覚…あるんだ。」
「ありますよ。…痕が薄くなってだけでヘラって、私ってめんどくさいなぁって思いますもん。」
そう言って笑うが、その目は少しだけ潤んでいた。
「だからたまに怖くなるんです。」
「何が?」
「急に、連絡来なくなったらどうしようとか……もう会わないって、言われたらどうしようとか……」
そこまで言ってから、明日菜は慌てたように付け加える。
「もちろん、そんなことしないって信じてますけど!」
その言葉に、俺は少しだけ苦笑した。
俺のことを、根拠も条件も無く信用している。
それは危ういくらい一方的で、だからこそ純然たる俺が承認されているようで心地良かった。
だが同時に、その言葉の重さも理解していた。
明日菜は現実の俺を信じているというより、自分が信じたい形、つまり自分を見捨てない佐藤直樹を信じている。
明日菜から「佐藤さんなら」という言葉は、今まで何度も聞いてきた。
その度に俺は曖昧に笑って流してきた。
否定する理由もなかったし、わざわざ訂正する必要も感じなかった。
だが今回の明日菜の言葉は、これまでとは少しだけ違うと感じた。
「俺、そんな立派な人間じゃないと思うけどな。」
思わず口をついて出た言葉に、明日菜はきょとんとし、まるで意味が分からないと言いたげだった。
「そうですか?」
「そうだよ。」
「私はそう思いません。」
明日菜の迷いの無い即答は、議論する余地すら存在しないらしい。
「佐藤さんは、私が一番悩んでる時に助けてくれました。」
「それは、たまたま俺が同じテーマで研究してた先輩だからだろ。」
「違います。」
明日菜は静かに首を振った。
「先輩だからじゃないです。」
明日菜はそう言ってから、少しだけ俯く。
「私、分かるんです。」
「何が?」
「人って、自分に興味ない相手には優しく出来ないので。」
その言葉に、俺は返答に詰まった。
「だから、佐藤さんが優しくしてくれた時、すごく嬉しかったんです。」
明日菜はアイスティーの氷を見つめたまま続ける。
「でも最近は、その優しさが無くなったらどうしようって考えちゃって……重いですよね。」
俺が「まあ、少し。」と、正直に答えると、明日菜は小さく吹き出した。
「やっぱり。」
「でも、それだけ?」
「え?」
「相談って言ってたからさ。」
俺がそう言うと、明日菜は少しだけ視線を泳がせた後、数秒迷って、本当に小さな声で言った。
「……確認したかっただけです。」
「何を?」
「私のこと、まだ嫌いになってないか。私のこと、面倒だと思ってないか。」
結局、明日菜が聞きたかったのは、俺からの心の距離が離れていないか、ということだけだったのだ。
俺はその生々しい事実に、思わず息が止まりそうになった。
「なら大丈夫だよ。」
俺がそう言うと、明日菜は安堵したように肩の力を抜いた。
本当に、それだけで救われたような顔だった。
「……よかった。まだ他の女より、私が優先で。」
明日菜は俺に聞き取れない声で何か呟いた後、無意識なのか、それとも意図的なのか分からないまま、首元へ手を伸ばした。
ブラウスの襟元から、かなり薄い青紫の俺の噛み跡が、顔を覗かせた。
その仕草だけで、俺は明日菜が何を考えているのか分かってしまう。
俺は視線を逸らし、窓の外を見た。
同期や同僚の影は外には無く、窓際に座る俺達のことなど誰も気にしていない。
それを確認した俺は、このまま帰れば明日菜はまた同じ不安を抱えるだろうと思った。
そして、その不安を消してやれる言葉も、行動も、俺は知っていた。




