第52話「【緑】の居心地」
午後になり、久美子のことは仕事に押し流されていた。
俺は手元の資料を眺めながら、キーボードを叩いている。
内部設計書の表現に少し迷って手を止めると、画面の隅に社内チャットのポップアップが跳ねたことに気付いた。
<狩野里香(更改PJ):新着メッセージ有り>
そのまま、ポップアップを押下し、里香との社内チャットの窓を開く。
<狩野里香(更改PJ):直樹は今日も残業?>
<佐藤直樹(更改PJ):その予定。進捗会議で詰められるの嫌だし…>
<狩野里香(更改PJ):私も残る予定。後でちょっと2階のコンビニ行ってガス抜きしない?>
<佐藤直樹(更改PJ):おっけ、じゃ後で>
業務連絡の合間に挟まれる、最近お決まりのやり取りだった。
チャットを閉じて集中して作業を再開すると、気づいたらもう定時が近かった。
そろそろ里香を誘ってコンビニに行くかと思っていたところ、「佐藤くん。」と、背後から声が聞こえた。
振り返ると、課でも面倒見が良いと評判の8年目の先輩社員が、書類を片手にこちらを見ていた。
「あ、はい。」
「今日も残業するの?」
「その予定です。少しだけにしたいですけど。」
そう答えると、先輩は俺のモニターを見たわけでもないのに、どこか納得したように頷いた。
「狩野ちゃんも残業みたいだしね。」
「そうみたいです。」
俺にとっては何気ない会話だったが、先輩はそこで少しだけ笑った。
「最近ほんと仲良いよね。」
その一言で、俺は一瞬だけ胸の奥がざわつく感覚があった。
「いや、狩野とはチーム違いますけど、案件は同じなので……それだけで…」と、俺はまごつきながら答えた。
それを受けて、先輩は「あー。」と言いながら再び笑った。
「この前も朝一緒だったよね。2人ともあそこのクロワッサンの袋持ってたし。」
その言葉で、里香と初めて肌を重ねた日と、その翌日の出勤時に先輩と会話したことを思い出した。
「あー…あの日ですか。」
「そうそう。その時も2人楽しそうだったし……若いうちは同期の存在って結構大きいからね。」
先輩はからかうわけでもなく、頷きながら言った。
「そんなもんですかね。」
「そうそう、私なんか旦那が同期だからさ。お互いに分かり合えること多くて、結構上手くやっていけてるんだよね。」
そこまで言ってから、先輩は「あ、別に変な意味じゃないよ?」と慌てた様子を見せた。
「ただ、狩野ちゃん配属直後よりかなり表情柔らかくなったなーって思って。」
先輩のその意見の真意が分からず、俺は曖昧に笑って返す。
「そうですかね。」
「うん。いいことだと思う。」
先輩はそれだけ言うと、保育園のお迎えにだから、と慌ただしく荷物をまとめ始めた。
「じゃ、お先ね。」
「お疲れ様です。」
「この部署じゃ難しいかもしれないけど、残業ほどほどにね。」
先輩が去ったあと、俺は再びモニターへ向き直る。
だが、画面に並ぶ設計書の文字列を眺めながらも、『最近ほんと仲良いよね』という言葉が頭の片隅に残っていた。
それは、昼休みの久美子が俺と真子の仲を、今の先輩が俺と里香の仲を指摘してきたからなのだろうか。
今日だけで2人から指摘されたが、恐らく偶然なんだと思う。
俺はそう結論づけても、どこか気持ち悪さが心に残った。
しかし、その気持ち悪さも里香から来たメッセージで、あっという間に頭の片隅に追いやられる。
<狩野里香(更改PJ):コンビニ行く?>
そのメッセージを見て、すぐ俺は席を立ち、里香の席に視線を送る。
同じタイミングで里香と目が合い、そのまま頷いて執務室を後にした。
エレベーターを待ちながら、「今日も死にそう?」と里香が小首を傾げた。
「今日はまだマシ。」
「それ、昨日も聞いた。」
「昨日は日曜だろ。ワーカーホリックめ。」
雑な口調で俺が言うと、里香が「確かに。」と言いながら小さく笑った。
最近、里香との雑なやり取りは居心地が良く、気楽で楽しいものだった。
コンビニへ入ると、里香は迷わずブラックコーヒーを手に取る。
「またそれか。1日に何回コーヒー飲むんだか。」
「好きなものは好きだからいいの。目がしゃっきりするし。」
「毎回見てる気がするからさ。…たまにはノンカフェインにした方が良いぞ。」
「直樹のエナドリに言われたくないかなぁ。家にもすっごい溜めてるし。」
そんなやり取りをしていると、レジ横で商品を選んでいた社員がふとこちらを見た。
視線を感じた方に向き直ると、同じフロアの別チームの先輩だった。
「お疲れ様です。」
俺が軽く挨拶すると、里香も向き直って会釈をした。
「お疲れ。買い出しってことは、2人とも残業する気満々だね。頑張って。」
先輩は意味深な笑みを浮かべるでもなく、ただ自然に微笑んでレジに向かった。
その背中を見送りながら、俺は里香の手から缶コーヒーとバウムクーヘンをひょいと取り上げ、自分のカゴへ放り込む。
「ん?」と、里香が上目遣いで俺を見ながら、首を傾げた。
「これくらい奢る。」
「いや、自分で払うけど。」
「大した額じゃないだろ。」
半ら呆れ顔をした里香が、「そういう問題じゃないから。」と、呆れたように言った。
だが本気で拒否する様子もない。
「テーマパークでフード代出してもらったし。」
「あれって、私がどっちの味も食べたかっただけだから。」
「ご相伴に預かったお礼ということで。」
「私と直樹は対等な同期だから、単語のチョイス間違ってるよ。」
「細かいな。」
「直樹が雑なんだよ。SEなんだから齟齬を産まない日本語使おうよ。」
そう言いながらも、里香は自分の購入分を取り返そうとはしなかった。
俺がレジを済ませ商品を受け取り、そのままオフィスの飲食スペースに移動する。
席に着いたところで、里香に缶コーヒーとバウムクーヘンを渡すと、里香は缶コーヒーを指で軽く弾き、「ごちそうさま。」と、微笑んだ。
「じゃあ、今度は私がアイスでも奢ってあげよう。」
「それ、無限ループになんじゃん。」
「じゃー、奢ってあげない。」
里香とのやり取りが妙に自然で、俺は少しだけ笑った。
「そういえば、今日2回目だな。」
「何が?」
「里香と仲良いねって言われたの。」
「へぇ。」
「へぇ?」
「別に否定する必要なくない?」
「なんでだよ。」
「仲良いじゃん。」
そういった数秒後、里香は少しだけ目を丸くし、「嫌だった?」と、俺に小さく問いかけた。
「いや。」と、俺は即答した。
里香との関係を勘繰られるのは管理リスクであるはずなのに、嫌なわけじゃない。
むしろ最近は、里香と一緒にいる時間に居心地の良い自然さがあった。
「じゃあ別にいいじゃん。まぁ、他人から見たら仲良く見えるんでしょ。」
里香はそう言ってブラックコーヒーのプルタブを開けると、プシュッという軽い音が聞こえた。
「そんなもんか?」
「そんなもん、そんなもん」
里香のあっさりした口調には、深読みも、期待も、探りもなく、ただ事実だけを言っていた。
それが俺が気楽に思う理由なのかもしれない。
「少なくとも私は困ってないしね。」
そう言って里香は缶を口元へ運ぶ。
俺もエナジードリンクの缶を開け、一口飲んだ。
「ならいいか。」
「うん。」
会話はそこで終わり沈黙が流れるが、不思議と気まずさはない。
残業前の数分、里香と一緒にただコンビニに行って少し休憩するだけ、肩の力が抜けている自分に気付く。
無理に話題を探す必要も無ければ、気を遣い過ぎることもなく、変に期待されることもない。
「じゃ、あと2時間くらい頑張るか。」
「2時間くらいの残業じゃ、また進捗で吊し上げだね。」
「やめろ。」
わざと暗い顔で反応すると、それを見た里香が小さく笑う。
その笑い声を聞きながら、俺たちは再び執務室へ戻った。
その時の俺はまだ知らなかった。
自分では独立したイベントとして処理していたログが、他人の視点では既に関連付けられ始めていることを。




