第50話「【赤】のまぜそば」
月曜日の朝、少し早めに出勤した会社の食堂で、俺は買ったばかりのブラックコーヒーを口に運んでいた。
脳の動きが明らかに低下していて、強烈な睡魔と倦怠感が、思考を容赦なく圧迫していた。
理由は明確で、昨日一睡もできなかったからだ。
真冬にホテルを断られたという例外処理、生活圏をゆっくり侵食してくる久美子、スマホの通知欄にちらつく明日菜からの依存度が高いメッセージ、最近同じ課の同期から指摘された里香、そして予測不能な真子。
順調に管理出来ていたと思っていたが、水面下で絡み合い、俺の処理能力を奪い合い、徐々に精神的な疲労として溜まっていった。
「直樹おはー。なんか死にそうな顔してない?」
昨日夜間当番だったのか、真子が目を擦りながら俺の対面の席に腰を下ろした。
社内のコンビニで買ったであろう台湾まぜそばを、乱暴に開封しながら眠そうに笑う。
「私は眠たガールだから、このジャンキーパワーで回復するんだけどねー!」
その姿を見た瞬間、俺の胸の奥に言いようのない安堵感が広がった。
真子は最初から変わらず、俺に対して何も求めていない、何も確認しない、説明もいらない、故に期待もされない。
俺が誰と会っていようが、何をしていようが、真子は真子のままで、どうしようもなく楽だった。
「いや、ちょっと寝不足でさ……昨日眠れなくて寝てなくて……」
「ふーん。仕事してた私と一緒だねー、お疲れー。」
真子は興味なさそうな相槌を返すと、台湾まぜそばに麻婆豆腐をかけて、ぐちゃぐちゃに混ぜ始めた。
「あ、そいや今週の水曜直樹ん家行っていい?」
「ん?何かあった?」
「全消し戦でホーリーカウンター練習したいんだよね。昨日、サーバー監視しながら動画見てたらやりたくなった。」
「ほんと落ちゲー好きだな。練習しなくても真子に圧勝出来る奴はほとんどいねーよ。」
「いや、大学の時、サークルに1人だけ居たんだよねー。」
真子はまぜそばを混ぜながら続ける。
「何使っても勝てなくてさ。……プロになれんじゃないって思ったけど、普通に社会人やってるゲーマーが。」
「そんな奴いるんだ。仲良かったん?」
「元カレ。」と、真子は何でもないように言った。
「いきなり元カレの話かよ。」
「直樹が、圧勝できる奴がいないとかいうからー……でも、まじでゲームだけは強かったんだよねー。」
「褒めるなよ。」
「褒めるっていうか、事実だし、とうとう1回も勝てずに終わったから。」
「そこだけ未練あるんだ。」
「そうそう。だから直樹と練習する!午後は動画見てイメトレする!」
「ってか仕事しろよ。……まぁウチの来るのは良いけど。」
「話わかるー!定時退社日だからすぐ上がれるしねー。」
その軽さに、思わず肩の力が抜けたと同時に、真子との接続は維持されていることが確認できた。
俺は、崩れかけた均衡が、辛うじて保たれている気がした。
そのまま真子と雑談してから自席に戻ろうかと思っていたが、平穏は続かなかった。
「あ、佐藤じゃん!お前も朝飯?」
「昨日の大会見たぞー。」
朝食を摂っていたのか、同期数人が近くを通りかかり、そのまま足を止めた。
「結構でかめの大会で3位とか、すげーじゃん。」
「配信アーカイブ見たって話、さっきしてたんよ。」
「佐藤が格ゲーやるの初めて知ったわ。」
次々に掛けられる声に、俺は曖昧に笑うしかなかった。
「まあ、ゲームくらいしか趣味ないから……」
俺の反応に、別の同期が笑った。
「つーか、佐藤の彼女って年上のギャルなんだな!清楚系が好きなのかと思ってたわ!」
「は?」
「ほら、あの女の人……何だっけ?」
するともう一人がスマホを取り出し、俺が真冬とでた大会SNSのリザルトPOSTを開く。
「これこれ!なおまふの『まふ』の方!派手髪のギャルじゃん!」
「これ、彼女じゃないよ。」
「マジで?距離近いのに!?」
俺の返事に大げさなほど、同期の1人が驚いた。
「他の動画で抱き合ってるのとかあったぞ?」
「付き合って無いのに、こんな感じかよー。」
若干の羨望を含みながら、周囲が笑ったのにつられて俺も笑う。
笑い声の中、麺を啜っていた真子が、「へー。」とだけ呟いたが、俺以外は気付いていなかった。
「あれ?」
同期の一人が首を傾げた瞬間、俺は嫌な予感がした。
「そういや佐藤って、土曜デートじゃなかった?」
「ん?」
「金曜の同期会の時さ、佐藤は仕事で来れないって話になってて。」
「あー、あったあった。」
別の同期が思い出したように笑う。
「一次会終わった後だ。古見さんが『明日デートだから今日は帰る』って言ってたよな。」
「え、佐藤って古見さんと付き合ってんの?」
俺と久美子の関係を、今知ったらしい同期が驚いた表情で声を上げた。
「お前、知らなかったのかよ。」
「食堂で飯食ってるの何回も見たぞ。」
「俺も見た。」
「てか入社前からじゃなかったっけ?」
「結構長いよな。」
周りの話題が久美子へ流れ、そこで問題が起きた。
同期の1人が、俺の向かいでまぜそばを啜っている真子を見た。
「あれ、でも今は小松と飯食ってるじゃん。」
「確かに。」
「小松と佐藤も、なんか研修の時からよく一緒にいるよな。」
突然振られた真子は、口いっぱいに麺を頬張ったまま顔を上げた。
「んー?………まぁ、直樹とゲームするしねー。」
それだけ言って、また麺を啜る。
「うわっ、軽っ!」
「小松らしいな。」
笑いが起きるが、真子は本当に何も気にしていない。
だからこそこの会話は厄介だった。
「でも昨日の大会もその前の動画も、佐藤ずっとギャルと一緒だったよな。」
「それな。」
「え、待てよ。ってことは佐藤の相手は、古見さんに、小松、……んで大会の相方のギャルってこと?」
同期がそう言いながら指を3本立てて、俺に見せてきた。
「それと、あと狩野さんもだろ。」
別の同期がそう言いながら、指を4本立ててきた。
「は?」と、俺は思わず反応してしまう。
「いや、この前誰か言ってなかった?」
「何を?」
「狩野さんと佐藤、年休被ること多いって。」
「あー。」と、別の同期が思い出したように頷く。
「確かに、佐藤の部署でちょっと話題になってるらしいやつか。」
「そうそう。しかも歓迎会で、先輩に弄られてる狩野を庇ったんしょ?」
「それはただの偶然と佐藤の男気なだけじゃね?」
「そうだな。古見さんと付き合ってるのに、さらに同期に行くわけねーか。」
「まあそうだな。」
誰も深くは追及しない雑談だったが、俺だけは違った。
俺の知らない場所で共有されていた情報が、同期たちの記憶の片隅に残っていた事実に、背筋が冷える。
「で?」と同期が笑いながら、俺を覗き込んできた。
「佐藤、交友関係どうなってんの?女ばっかじゃん?」
「まじで羨ましいわ。くそリア充じゃん。」
そして別の同期が何気なく言った。
「でも佐藤って、いつも誰か女と一緒にいる印象あるわ。」
「言われてみればそうだな。」
誰かがそう言って笑い、その場もまた笑いで流れた。
しかし俺は、『佐藤はいつも誰か女といる』という印象だけが、同期たちの中に蓄積されているという事を理解し、その危険性を把握した。
まだ、点はまだ点のままだが、いつか誰かが思い出した時、その点同士は勝手に繋がる。
そんな予感だけが、胸の奥に重く沈んでいた。




