第47話「【青】の海容」
「ごめん、久美子!待たせた!」
秋葉原駅、電気街口に改札を息を切らしながら抜けると、目の前の時計は11時手前を指していた。
約束の時間から30分の遅刻をしたにも関わらず、小さなトートバッグを抱えた久美子は立って待っていた。
そして俺の顔を見ると、その表情がぱっと明るくなった。
「直樹くん!到着だね!」
「ごめん、本当にごめん……」
「大丈夫だよー。私もさっき着いたばっかり……って言いたいところだけど、直樹くんに着いた連絡しちゃったね。」
久美子はそう言って笑った。
「……昨日のお仕事、やっぱり大変だったから疲れてるんじゃない?体調大丈夫?」
そう言いながら、久美子は本気で俺の体調を心配するような優しい目を向けてきた。
「いや、ちゃんと眠っちゃって遅刻したから、逆に身体は回復してるよ。……ほんとごめんね。」
「全然気にしてないよ!じゃあ、行こ?家電量販店、あそこだよね」
久美子は嬉しそうに俺の腕に手を添え、歩き出す。
久美子の歩調に合わせながら、俺の胸の奥には、返済不能な利息がさらに積み上がっていくような、強烈な罪悪感が圧し掛かっていた。
大型家電量販店の店内は、週末の買い物客でごった返していた。
「見て直樹くん、これ!ネットの口コミで、髪がすごくサラサラになるって評判だったんだよ!」
久美子は並べられたサンプルを手に取り、楽しそうに風量や重さを確かめている。
「これ軽い!……あっ、こっちの方が風強いかも!」
そう言って目を輝かせながら比較する久美子の姿は、見ているだけなら微笑ましい。
「へえ、本当だ。使いやすそうだね。」と俺も無難な相槌を返す作業を繰り返していた。
だが、その言葉とは裏腹に、意識の一部は別の場所へ引きずられていた。
ポケットの中で、スマホが短く震え、そして数十秒後に、また震える。
その震え方に嫌な予感がし、俺が画面を確認すると、ロック画面には見慣れた名前が並んでいた。
<無事予定に間に合いましたか?>
<昨日から今日にかけて、本当にありがとうございました。>
<また会いたいです。この鎖骨の部分が、お風呂に入ったら少し薄くなってきてしまいました。>
まだ別れてから4時間も経っていないのに、通知はすでに3件も来ている。
昨夜までの明日菜は、自分から何かを求めることがほとんどなかった。
会いたいとも、寂しいとも言わないから管理が楽だった。
必要な時だけ相手をしてやれば満足し、俺をいい先輩だと認めてくれ、それ以外は静かに待っている低負荷な関係だった。
だが今はそれが変わってしまったようだ。
昨夜与えた安心感が、逆に新しい要求を生み始めている。
満たされたから終わるのではなく、満たされたからもっと欲しくなるということなのだろうか。
「……まるで、薬物依存だな。」
明日菜の不安を取り除いたつもりだったが、実際には俺という存在への優先度を上げただけだったのかもしれない。
スマホをポケットに突っ込んで、どうすべきかを考える。
今返信すれば久美子との時間が削られ、無視すれば次はもっと連絡が増える。
どちらを選んでも、負債が増えるだけだというのは理解した。
「直樹くん!これにしようと思うけどどうかな?」
そう言って笑顔の久美子は、久美子らしいミントブルーのドライヤーを手に取った。
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会計を済ませた後、俺たちは昼食を取るため、駅前のファミリーレストランへ入ることにした。
昼時ということもあり、店内はかなり混雑していたが、案内自体はすぐにされた。
2人掛けの席へ腰を下ろすと、久美子は購入したばかりのドライヤーの箱を嬉しそうに撫でている。
「早く使いたいなあ。」
「そんなに楽しみなんだ。」
「だって直樹くんの家に置くんだもん。」
そう言って笑う久美子に、俺も曖昧に笑い返した時だった。
ポケットの中でスマホが震え、何気なく画面を見ると、新着メッセージが1件表示されていた。
<ちゅーマーク拒否してた理由把握ー笑>
真冬からの唐突なメッセージに、俺の背筋に冷たいものが走る。
続けてもう1件追加でメッセージが届いた。
<ってか彼女いたなら言っといてくれん?笑>
俺は反射的に店内を見回すと、数テーブル離れた場所に、男女混合のグループが座っているのが見えた。
その中でピンクパープルのインナーカラーを揺らしながら、スマホをこちらへ向けている真冬と目が合う。
何か面白いものを見つけたかの様に、真冬はニヤニヤしながら片手をひらひら振ってくる。
どうやら格ゲー大会前の仲間との昼食らしい。
俺は久美子に悟られないよう、慌てて返信を打つ。
<いや違う。会社の同期の買い物付き合わされてるだけ!!>
送信してすぐに既読が付き、そして即座に返事が来る。
<ただの同期と腕組んでドライヤー買うんや?笑>
<まぁ、うち関係ないし笑>
その一文を見て、真冬は追及する気はないことに少しだけ安堵する。
ただ面白がっているだけだと思った瞬間、さらに追撃がされる。
<でも、隠すほどなんやなーとは思った笑>
<うちは別にええけど、その子はどう思うんやろな笑>
そのメッセージを受け、俺は自分の送ったメッセージを見返した。
<会社の同期の買い物付き合わされてるだけ>というのは、真冬を誤魔化すために打っただけの文章だ。
それなのに、その一文だけが妙に頭に残る。
送った瞬間は久美子を守るための嘘だったはずなのに、なぜか俺は、別の何かを切り捨てたような感覚を覚えていた。
結局、真冬に返信できないまま、俺はスマホを伏せる。
「直樹くん?やっぱ体調悪い?」
顔を上げると、久美子が不思議そうにこちらを見ていた。
「あ、ごめん。」
「私は大丈夫だけど、連絡は仕事?」
「いや、同期から。」
「そっか。」
久美子は疑うことなく笑い、俺にとってはその無防備さが逆に痛く感じる。
料理が運ばれてきて、久美子としばらく他愛ない話をする。
そしてその話の中で、ハンバーグを切り分けながら、久美子が何気なく言った。
「そういえばさ。」
「ん?」
「直樹くんの家、少しずつ私の物が増えてきたね。」
何かの予兆を感じ、俺の手が自然に止まった。
「歯ブラシもあるし、マグもあるし……今日からドライヤーが仲間入りだね。」
「そうだね。」
「私ね……直樹くんの部屋、好きなんだ。」
「そう?」
「うん。なんか帰ってきたなーって感じするから。」
久美子は指折り数えながら、嬉しそうに話をしている。
「なんかさ……それで、全部ひっくるめるとさ……同棲の予行練習みたい…とか思ったり……」
少し照れたように笑う久美子の言葉に、俺は返事ができなかった。
つい数分前に、俺は別の女に向かって、<同期の買い物に付き合ってるだけ>と、送ったばかりだったからだ。
「ごめん、変なこと言った?」
「いや。そんなことないよ。」と、俺は絞り出すように答える。
それを聞いて久美子は安心したように微笑む。
「今日ね。……私、すごく楽しいんだ。」
俺は何も言えず、ポケットの中で再び震えるスマホを抑え、振動音を久美子に聞こえないようにするしかなかった。
そして俺は、目の前で笑う久美子から視線を逸らせなかった。
そして俺は、<まぁ、うち関係ないし笑>という真冬の言葉だけが、なぜか頭から離れなかった。




