第46話「【黄】の饜食」
土曜日の朝になったことは、カーテンの隙間から差し込む朝日で分かった。
俺がゆっくりと目を開くと、何度か見た天井が目に入った。
枕元へ視線を向けると、そこには小さく丸まるように眠る明日菜の姿がある。
規則正しい寝息を立て、柔らかな髪を揺らしながら、肩口から華奢な身体が覗いている。
昨夜、何度も触れた細い首筋には、新しい痕跡が残っていた。
明日菜の白い肌の上に浮かぶ淡い赤紫色は、当然1つではない。
首筋の付け根から鎖骨の上にかけて、いくつもの痕跡が点々と続いており、中には、俺の歯形の輪郭が残っているものもある。
それは、明日菜が消えないでほしいと願うたびに残した印だ。
朝日を浴びた明日菜の柔らかい肌は透けるように白いのに、その中に滲む紫色と薄い桃色の痕跡が、不思議なほど目を引いた。
明日菜にかかっていた布団は、いつの間にか胸元まで落ちていた。
露わになった鎖骨は綺麗に浮き出ており、その下へ続く胸元も驚くほど薄い。
呼吸に合わせてゆっくり上下する肋骨の輪郭と、余計な肉のない細い身体が何度見ても心を揺さぶられる。
そして、その白い肌の上には昨夜の名残が、随所に確かに残されていた。
鎖骨の下、薄く浮いた肋骨の辺り、白い肌へ絵の具を落としたように広がる淡いピンクと青み掛かった紫の痕跡が花咲く。
その花弁を彩るように、楕円状に刻まれる俺の歯形。
触れれば消えてしまいそうなほど儚い身体だからこそ、その色は余計に鮮やかに見えた。
本来なら不自然で、人によっては忌避される色彩なのに、なぜか目を逸らせない。
どこか背徳的で、どこか危うくて、所有欲が満たされるようで、そして何より明日菜の願いがそのまま形になったような痕《印》だった。
明日菜の身体は今、俺を確かめるように寄り添いながら眠っている。
それを見ながら、昨夜の明日菜を思い返す。
俺が思っていた以上に貪欲で、時折こちらの理性を試すような扇情的な言葉を投げかけてきたことを。
「……ん?」
小さな声と共に明日菜が身じろぎすると、ゆっくりと瞼が開き、俺と明日菜は視線が合った。
数秒遅れて状況を思い出したのか、頬がほんのり赤く染まる。
「……おはようございます。」
「おはよう。」と返すと、明日菜は少しだけ嬉しそうに笑った。
そして何かを思い出したように首筋から鎖骨、そして胸をたどって肋骨付近へ指を流す。
確認しながら安心するように触れる仕草を見た瞬間、昨夜の会話が脳裏をよぎった。
印が消えると不安になるという言葉は、明日菜にとっては冗談ではなかったのだろう。
「……ちゃんと残ってます。ふふっ。」
明日菜は首筋から鎖骨へ続く痕跡を指先でなぞりながら、心底安心したように微笑む。
俺には、明日菜が昨夜まで抱えていた不安は消えているように見えた。
だから、この後に続いた言葉は少し意外だった。
「噛み跡もありますし……今回は長く残りますよね?」
「まあ、しばらくは消えないと思うよ。」
「よかった……」と明日菜は嬉しそうに頷く。
そして数秒だけ考えるように視線を落とした後、少しだけ恥ずかしそうに続けた。
「でも、次はもっと強くても大丈夫です。」
「もっと強く?」
「はい……長く残る方が安心するので……」
明日菜は自分の首筋へ触れながら、小さく笑うが、その声音は冗談ではなかった。
昨夜の印で満たされたから終わった訳ではなく、満たされたからこそ、次はもう少し深い何かを求めていると、俺は理解した。
「そんなことしたら、明日菜ちゃんが痛いじゃん。」
「佐藤さんに刻まれる痛さなら、むしろ、その方が安心します……ほんとに次は……血が滲むくらいでもいいので……」
他愛のない、だが確実に一線を越えつつある明日菜との会話は、俺への隷属願望なのか被虐願望なのか分からず、しかし確実に超えてはいけない領域に差し掛かろうとしていた。
そう考えながら枕元のスマホへ手を伸ばし、画面を点灯させた瞬間、俺の思考は停止する。
時刻は8時52分を指し示し、通知欄には、久美子からの未読メッセージが並んでいた。
<そろそろ残業終わったかな?まだ盛り上がってるよ!>
<人事の人の余興すごいよ!クイズ大会で賞品も出るみたい!>
<締めの時間近いかも……二次会もあるみたいだけど、直樹くん二次会から参加とかする?参加するなら私も行こうと思うんだけど……>
<やっぱり仕事忙しいよね。いっぱい送ってごめんね!明日に備えて私は二次会出ずに帰るね!>
<あんまり無理しないでね!おやすみ!明日のデート楽しみ!>
<おはようー!晴れてていい天気だね!私は準備して向かうね!>
今日の待ち合わせは10時半に秋葉原の電気屋に向かい、ドライヤーを買いに行く約束をしている。
本来なら、とっくに自宅へ戻って準備を始めていなければならない時間だった。
昨日は食堂で久美子と顔を合わせているため、同じ服で行ったら帰ってないことに気付かれてしまうため、一旦帰るのは必須事項だ。
「……まずいな。」と思わず漏れた俺の声に、明日菜が不思議そうに首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「いや、ちょっと予定があってさ。」
そう言いながらも、俺の視線はスマホの時刻から離れない。
残された時間と現在地から、帰宅に必要な移動時間や秋葉原までの所要時間を計算すると、すでに余裕はほとんど残っていない。
それでも俺は、『久美子は怒らないし、少しくらい遅れても笑って許してくれる。』という都合のいい前提条件を、疑いもせずに組み込んでいた。
「明日菜ちゃんごめんね、ちょっと外せない予定あるからもう帰るね。」
俺が矢継ぎ早にそう言うと、明日菜は一瞬だけ寂しそうな顔をしたが、すぐに笑顔を作った。
「はい。今日はありがとうございました。」
その声音には不満も引き留める意思もない。
むしろ昨夜から今朝にかけて十分に満たされたのか、どこか安心しきった響きすらあった。
「また連絡するね。」
「はい。」
俺は急いで身支度を整えると、明日菜の部屋を後にして、エレベーターへ乗り込み、一階へ降りる。
その間も頭の中ではスケジュールを組み直し続けていた。
自宅でのシャワーと着替えを削るために、髪のセットをせずに帽子を被れば、ギリギリ間に合うだろうと、計算していた。
だが、人間の行動はシステムのように理論値通りには動かなかった。
帰宅後、昨夜から着続けていた服を洗濯機へ放り込み、急いでシャワーを浴びる。
髪を乾かし、服を選び、財布と鍵を確認し、玄関を飛び出した時には、想定よりも遅延が発生していた。
そして最寄り駅へ向かう途中にスマホが震え、画面を見るとすでに10時15分になっていた。
そして通知欄には、久美子の名前が表示されている。
<もう秋葉原着いたよ!電気街口の改札前で待ってるねー!>
俺の遅刻は確定的なのに、久美子は約束の15分前に着いている。
それはどうすることも出来ないとは理解しながらも、俺はそのまま駅の階段を駆け上がった。




