第45話「【黄】の要求」
時計の針が18時半を回った頃、ようやく会議から戻ってきた主任へ状況を引き継ぐと、主任は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「悪かったな、佐藤。今日一年目の飲み会だろ?」
「いえ、仕事優先ですし人事への連絡も済んでますので。」
「対応してくれてありがとな。もう、俺の方で続き見るから、上がれ。」
主任はモニターへ視線を戻し、俺からの資料を画面に表示させたまま続ける。
「今からならまだ間に合うだろ。せっかくの人事イベントなんだから行ってこい。」
「……ありがとうございます。では、よろしくお願いいたします。」
俺は軽く会釈をして、自身のパソコンをシャットダウンすると、鞄を掴んでエレベーターホールへ向かう。
今日の会場へ電車を使えば20分弱だろう。
オフィスのエントランスから出ようとした、その時だった。
スマホが震えたので中身を見ると、明日菜からだった。
<まだお仕事中ですか?>
<すみません。お忙しいですよね。>
<もし難しかったら大丈夫です。>
<でも、少しだけでも会えたら嬉しいです。>
そこまで読んで俺は一旦立ち止まった。
ホテルへ向かえば、久美子、里香、真子に加えて、真冬との大会映像を見た同期もいれば、テーマパークに里香が男と行ったことを知っっている同期もいる。
ここで、遅れて登場と言う注目を浴びながら、それらすべてを躱し、元の管理状態に戻すためにリソースを消費するのは得策なのか。
一方で、明日菜は一人で待っていて、何か事情があるのかもしれない。
それに、少しだけ顔を見て、同期会が終わるタイミングで会場に着いたことを演出すれば、全ての管理が楽になるのではないか。
そう自分へ言い聞かせながら、俺は無意識に指を動かしていた。
<今どこにいる?>
俺は駅に向かわず会社のエントランスのソファに腰を下ろし、明日菜からの返信を待つことにした。
時間にしたら1分もかからず、返信がくる。
<実は……佐藤さんの会社の近くです>
俺は思わず画面を見直すと、続いて2通メッセージが届く。
<駅前の広場です>
<ご迷惑でしたか?>
俺は明日菜の行動力に頭が痛くなった。
会社の近くで落ち合うなら、同じ課の人間に見られる可能性がある。
そうしたら、先輩が気を利かせて同期会へ行っていいと上がらせてくれたのに、それを無視して明日菜と会っていることになる。
だが、放置するわけにもいかないし、何より無条件で俺を肯定してくれる明日菜のメンテナンスをしなければという思いもあった。
<そこで待ってて>
そう返信を送り、駅前まで走っていくと、駅前広場のベンチに座る明日菜を見つけた。
俺の姿を見た瞬間、その表情がぱっと明るくなる。
「佐藤さん!」
明日菜がそう声を上げながら、小走りで駆け寄ってくる。
俺の呼称が変わってるような気がして、違和感を覚えたが、瑣末な問題のような気がして、その考えを封じた。
「すみません。近くまで来たら、もしかしたら少しだけ会えるかなって思って……」
悪気はない本当にないのだろうが、その方がよほど厄介だった。
「いや、全然大丈夫。ちょうど仕事が一段落したところだから」
俺がそう言うと、明日菜はほっとしたように胸を撫で下ろした。
「よかった……」
その表情を見て、俺は違和感を覚えた。
ただ会えたことを喜んでいるだけではなく、何か確認作業を終えたような、そんな安堵だった。
「それで?何かあったのか?」
「あ、いえ……」
明日菜は口ごもらせ、視線を泳がせる。
「本当に大したことじゃないんです。ただ、今週ずっと、研究室でいつの間にかひとりになってて……」
「うん、それで?」
「それで、一人でいるのが少し嫌になって……変ですよね…」
そう言いながら明日菜が苦笑する。
俺は変だとは思わず、むしろ明日菜らしいとさへ思った。
誰かに依存したいわけではなく、ただ、不安になった時に頼れる人が欲しい。
そして、その相手として俺を選んでいるだけなのだろう。
「せっかく来たんだし、何か食べる?」
「いいんですか?」
その言葉だけで、明日菜の表情がまた明るくなった。
「いいよ、どこか入ろう。」
俺は明日菜と一緒に、駅から少し離れたのチェーン系カフェへ入った。
平日夜ということもあり、店内は仕事帰りの会社員や学生で賑わっている。
向かいに座った明日菜は、研究の話や大学の話をぽつぽつと続けた。
内容自体は他愛もなかったが、気付けば俺は同期会のことを考えなくなっていた。
同期会へ行けば、気を張って誰が何を知っているか考え、誰に何を話したか思い出すことは必須だった。
だが今はただ相槌を打っているだけで明日菜の管理ができ、俺は良い先輩として上げて貰える。
「佐藤さん……」
明日菜は少しだけ迷うように唇を噛んだ後、ゆっくり言葉を続ける。
「変なこと聞いてもいいですか?」
「内容によるけど……俺が答えられることなら、答えるよ。」
俺がそう言うと、明日菜は小さく笑い、自身の首筋へそっと指を当てる。
「ここ……」
俺は明日菜が指した部分に視線を向けるが、何も見当たらなかった。
「前に付けてもらった印、消えちゃったんです……」
俺は、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……キスマーク?」
俺がその単語を口にすると、明日菜は恥ずかしそうに頷く。
「……はい。変ですよね?」
それだけ言うと、紙コップを見つめながら続けた。
「いや……」
「毎回付けてくださるのに……消えたら、なんだか不安になっちゃって……」
明日菜の不安という言葉に、俺は違和感を覚える。
明日菜は今までそう言った愛情に絡む何かを要求しない女だった。
だが今の言葉は明確にこれまでの明日菜と違うことが分かる。
痕跡を欲っしているということは、俺が所有していることの証明を欲しているということではないか。
「私、……佐藤さんとの時間を思い出して……たまに写真撮ってたんです。」
「写真?」
「そうです、この綺麗な印が消える前に………見返すと安心するので……」
明日菜は可愛く照れたように笑った瞬間、俺の背筋にわずかな寒気が走った。
「私、写真もちゃんとデータ保護して、全部残してます。だって大事なので……大切にしたいので……だから、佐藤さん……また……付けてくれますか?」
蠱惑的な笑みを浮かべる明日菜に目を奪われそうになった時、俺のスマホが震えた。
「ちょっとごめんね、仕事の連絡かもしれないから。」
そう言って俺はスマホを確認すると、久美子からのメッセージだった。
<狩野ちゃんからも障害対応大変そうって聞いたよ!頑張ってね!来れそうなら連絡ほしいな!>
返信は後でいいと俺が判断し、画面を閉じた瞬間だった。
「ふーん……」
明日菜が紙コップを両手で持ちながら、俺のスマホを凝視していた。
「……どうかした?」
「……すみません。何でもないです。」
明日菜は申し訳なさそうに口元だけ笑うが、俺のスマホから視線は逸らさない。
そしてしばらく見つめた後に、明日菜が小さく頷いた。
「私、最近思うんです……印が消えると、なんだか佐藤さんとの時間や……そう、心の距離まで消えちゃう気がして……だから、だからですね……どうしても会いたくなっちゃったんです……」
俺はスマホの久美子の名前と内容を見られたのかと思ったが、明日菜の声色は責める声ではなく、むしろ納得したようであり、説明しているようでもある落ち着いた声だった。
だからこそ気味が悪いと、俺は思ってしまった。
明日菜は再び自身の指を首筋へもっていき、その細い首筋に浮かぶ線をなぞる様に触れた。
指先が、先ほどキスマークの話をした場所を何度も往復する。
「また会えるかなって……仕事ばっかりで忙しくって……私のこと、忘れてないかなって……私のところに、帰ってきてくれるかなって……」
その瞬間、俺は初めて理解した。
明日菜は何も求めない女ではなく、求め方が見えなかっただけだ。
久美子は未来を欲しがり、真子は自由を欲しがり、里香は理解を欲しがり、真冬は享楽を欲しがる。
それらが分かりやすかっただけで、それと同じように明日菜は、痕跡《記録》を欲しがる。
「……佐藤さん。」と、明日菜がまるで返事を待つ3歳児のように、俺を上目遣いで見る。
その表情を見ていると、断る理由を探す方が面倒だった。
どうせ同期会は今から行っても終わっているだろう。
久美子への返信も後で構わない。
明日菜が欲しいのは、未来の約束じゃなく、ただ自分が忘れられていないという証拠だけだ。
「わかった、印、つけてあげる。」
俺がそう言うと、明日菜の目が大きく見開かれた。
「……いいんですか?」
「ああ。」と俺が言うと、その返事だけで十分だったらしく、明日菜は本当に嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ながら、俺は立ち上がった。
店を出ると、夜風が少しだけ冷たいのに、明日菜は自然な動作で俺の腕へ身体を寄せる。
離れないように、消えないように、俺の感触を自身に残すように。
そして俺は、明日菜のその願いを拒まなかった。
そして、その夜、俺は明日菜の細い首筋や鎖骨周りに、たくさんの新しい印を刻んだ。




