第43話「【青】との食堂」
周囲の他愛ない雑談がひと段落し、女性の先輩社員が自分の席へと戻っていく。
結局、里香が昨日誰とテーマパークへ行っていたのかという疑問は、里香自身によって未解決のまま終わった。
それは、誰も俺だと思っていないし、俺の有給等注視していないことの裏返しだ。
里香もまた、何事もなかったかのように静かにキーボードを叩き、ディスプレイの向こうのソースコードと向き合っている。
しかし、俺のの脳内だけは、過剰なまでに皆が記憶しかねない状況を危惧していた。
同期は150人以上、この課員は100人以上、そんな彼らの記憶に分散された状態で、俺と狩野の有休が被ったこと、狩野が舞浜で男といたことが、蓄積されている。
何かの拍子に1つになったとき、俺が管理しているシステムは障害が発生するのではないか。
完成されたシステムである予定表をスマホで眺めながら、俺は冷や汗をにじませていた。
仕事の集中力もそこそこになってきた11時半、ポケットに入れているスマホが短く震えた。
画面を開くとポップアップしたのは、久美子からのメッセージだった。
<お昼休憩取れそうだったら、食堂で一緒に食べよ!>
液晶画面を見つめた瞬間、俺の頭からは面倒だなという思考が弾き出された。
しかし、その直後、激しい自己嫌悪が追いついてくる。
久美子は同期の恋人として、至極真っ当で健全な誘いをしてくれているだけだ。
それなのに、その通知を見ただけで胸の奥が微かに拒絶反応を示す。
その心を封印し、<昼に入ったら食堂向かうね。>とだけ返信した。
社員食堂は、昼休みのピークを迎えて混雑していた。
窓際の席で向かい合わせに座ると、久美子はトレイを置くや否や、俺の顔を心配そうに覗き込んできた。
「直樹くん、やっぱり顔色悪いよ。目の下のクマも酷いし……本当にちゃんと寝れてる?忙しすぎるんじゃない?」
善意と心配に溢れた言葉を投げかけながら、久美子が自分のトレイから野菜のお浸しが入った小鉢を手に取り、俺の蕎麦の横へ置いた。
「それだけじゃ栄養偏るから、こっちも食べてね。最近、本当に心配だよ。あんまり無理しすぎないでね。」
当たり前のように分けてくれる優しい動作には、母性と、俺を心配する純粋な優しさと、そして、俺の生活を正しい方向へ導こうとする管理の気配があった。
その温かさが、今の俺にはどうしようもなく苦しい。
久美子は、何も間違っていない。
ちゃんと恋人として俺を心配して、支えようとして、未来を共有しようとしてくれている。
まだ未経験で内定だけを得た頃の俺が思い描いていた『正しい社会人カップル』という完成形に、たぶん一番近い関係だった。
それなのに、久美子といると、胸の奥へ少しずつ重たい何かが積み上がっていく。
安心されるたび、期待されるたび、将来の話をされるたびに、俺は誠実に応え続けなければならないという感覚に押し潰されそうになる。
一方で、真子も、里香も、真冬も、そこまで俺へ踏み込んでこない。
一緒にいても、何かを背負わされる感覚がない。
必要以上に未来を求められない。
だから楽だった。
そんなことを考えてしまう自分が最低だとは分かっている。
だが、久美子の優しさを向けられるたび、俺は少しずつ、自分が義務を返済しているみたいな錯覚に陥っていた。
そんな気持ちで関係を続けるのは正しいのだろうかと、箸を動かしながら、脳内で考える。
最後まで久美子を選び続ければ、間違いない未来であることは確かだろう。
なのに、今、久美子の前にいる俺の胸には、あの4人と過ごした朝にはなかったような、目に見えない強烈な圧迫感がのしかかっていた。
「あ、そういえばね……」
久美子は嬉しそうに微笑みながら、お茶を一口飲む。
「今度シルバーウィークあるじゃん?どこか旅行とか行けたらいいなって思ってて。」
「旅行?」
「うん。うちのチームに、夏季休暇くっつけて海外行く人とかいるんだって。」
楽しそうに話す久美子を見ながら、俺は曖昧に相槌を返す。
「さすがにそこまで長くは休めないかもだけど、国内でも温泉とか楽しそうじゃない?二泊三日くらいでゆっくりとか。」
そこまで言ってから、久美子は「あ。」と思い出したように続けた。
「あとね、今週末、もし時間あったら一緒に買い物行かない?」
「買い物?」
「ドライヤーを直樹くんの部屋に置いておきたくて。」
そう言って、久美子は少しだけ照れたみたいに笑う。
「……ドライヤー?」
「泊まったときのためにドライヤー欲しいなって。それに、最近、家デート多いし、映画見るの楽しいけど、たまには外も歩きたいなって。」
それから、俺の顔色を窺うように視線を揺らした。
「もちろん、金曜に大規模な同期飲みもあるし、疲れてるなら全然無理しなくていいんだけどね。」
自然に、当然のように、これからの未来へ自分を組み込んでくる。
その優しさが、今の俺には重かった。
何も考えなくて良い方が楽で、対等な情報の共有だけで満たしていれば、何の疲労も無い関係性を思い描く。
真子も里香も真冬も、そういう楽な空気がどこかある。
だが、久美子は真っ当な愛情を注がれ、必要とされ、その未来に俺の存在を組み込まれる。
俺にとって、久美子からの愛情は、もう純粋な幸福ではなく、延滞の許されない精神的負債の返済義務に近かった。
「じゃあ、一旦土曜日、楽しみにしてるね。」
食堂を出てエレベーターの前で別れる間際、久美子は満面の笑みでそう言って手を振り、自分のチームの島へと戻っていった。
一人になった俺は、深く息を吐き出しながら自席へと戻る。
久美子との買い物はどこか億劫だが、あの笑顔を見た瞬間だけは、安心している自分も確かにいる。
その感覚が、自分でも気持ち悪かった。
席へ戻る途中の僅かな時間だというのに、俺のスマホには次々と通知が流れてくる。
<真子:来週月曜朝3時!新作発表!一緒に見ない?>
<真冬:次の土曜に秋葉で大会あるけど出る?>
<明日菜:今週、金曜の夜とか、もし空いてたら少し会いたいです。>
職場ですれ違った里香からは、短く一言だけチャットが飛んできていた。
<狩野:直樹の家にバレッタ忘れたかも。ないか確認しておいて>
必要なことしか書かれていない味気ない文章だが、その距離感に妙な安堵を覚えてしまう。
誰も俺へ未来を要求せず、ただその瞬間だけの楽しさを共有し、必要が終われば離れていく。
そんな曖昧で、不安定で、責任の薄い関係ばかりを、俺は無意識に求め始めていた。
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残業が終わり、自室でソファに体重を預けながら、カレンダーと通知を整理し始める。
カラフルに色分けされた予定が、画面上へ静かに並んでいた。
もし、久美子を切ればという、冷たいロジックツリーが唐突に脳内に展開されていく。
久美子に割いているリソースは甚大で、それを除外すれば残りの負荷は一気に軽くなる。
真子は、会いたい時だけ呼べばいい。
真冬は、ゲームの予定を合わせるだけで成立する。
明日菜は、そもそも頻度が少ない。
里香は、会社の生活圏内だけで完結できる。
そう思い描いた未来は、俺にとってはあまりにも合理的で、綺麗な最適化だった。
今まで必死に守ってきた『恋人』という存在を、管理効率を圧迫する高負荷タスクとして計算している自分に気づき、背筋が冷える。
その時、机の上のスマホが震えた。
<今日もお仕事お疲れ様!体調崩してないか心配だよ。明日、少しでも声聞けたら嬉しいな。大好きだよ。おやすみ!>
画面いっぱいに表示された、何一つ濁りのない好意を見ると、胸の奥へ強烈な安心感が広がる。
無条件で常に必要としてくれる人がいると、俺はまだまとも側に繋がっている。
そう思ってしまった。
だが同時に、その優しさから逃げ出したくなるほど苦しくなる。
俺の中の安心と罪悪感の天秤が、奇妙なバランスで釣り合っているのが分かる。
失いたくないけど、重く、動きにくい。
全てのロジックが互いを拘束し合って思考が停止し、デッドロックが発生していた。
その中で改めて『久美子のことは好きではない』ことが、1つの事実として認識した。
それでも俺は、久美子だけは失いたくなかった。




