第42話「【緑】の反応」
水曜日の朝、薄暗い部屋の中で目を覚ました。
身体をゆっくり起こすと、肩から腰にかけて鈍い疲労が残っている。
ぼんやりと視線を巡らせた先で、ひとつの背中が静かに部屋へ溶け込んでいた。
里香は、俺が貸した大きめのTシャツにスウェットパンツ姿のまま、床へぺたんと座り込み、デスク周りをじっと眺めている。
昨夜の熱が消えた後なのに、妙な気まずさはなかった。
真子を泊めた翌朝みたいな、生々しく乱れた空気でもない。
真冬と夜更かしした後みたいな、軽薄な延長線でもない。
久美子と過ごす朝のような、恋人らしさを確認し合う空気とも違った。
ただ、不思議なくらい自然で、まるで最初からこの部屋に里香が存在していたみたいに感じた。
「……起きた?」
俺の気配に気づいた里香が、細いフレーム眼鏡を軽く押し上げながら振り返る。
「直樹の部屋、思ったより雑多だね。」
「思ったよりって何だよ。」
「もっと部屋に何も置かないタイプかと思ってた。」
そう小さく笑ったあと、里香は再びモニターへ視線を戻す。
「配線とかもさ、隠そうという気持ちが微塵もない。性格出るね。」
「付け替え考えたらむき出しが最強なんだよ。ってかそんな見るなよ。」
「いや、見るでしょ。これだけ露骨だと。」
そう言いながら、里香は机の横に置かれていた常温のエナドリを手に取った。
賞味期限を確認し、少し嫌そうな顔をする。
「これ沢山あるけど、いつ飲むの?」
「いつも飲んでる。」
「……胃も脳も、壊すよ。…こんなの、元気の前借りしてるだけなんだから。」
そう呆れながら言った里香は、少し考え込んだあと、スマホを取り出した。
「駅前のカフェ、早朝営業してるから行く?」
「え、今から?」
「私、今日の通勤のために服着替えに行かないといけないから、今からでもカフェ寄ったらギリじゃない?」
その言い方は、世話焼きというより、単なる事実確認に近かった。
だが、不思議と冷たく感じない。
むしろ、その踏み込みすぎない距離感が妙に心地良かった。
「……わかった、準備する。」
そう答えながら、俺はぼんやりと里香を見つめる。
里香と一緒にいると疲れない理由を、俺はまだ上手く言語化できなかった。
里香が着替えている横で、俺は歯を磨きながらスマホを確認していた。
昨日の夜は里香と盛り上がったため、いくつかメッセージが滞留している。
<久美子:昨日もお仕事お疲れ様!案件、無事に落ち着いた?>
<久美子:今日、もし少しでも時間あったらお昼一緒に食べたいな。無理そうなら夜に電話しよ!>
<真子:泊りからの直結勤務つら。ねむ。今日直樹の家でねる。>
<真冬:(昨日行われたオンライン大会の配信アーカイブURL)>
<真冬:うちのここの挑発コンうまくね?>
それぞれの画面をスクロールしていく。
そして、共有カレンダーの通知アプリが、今週末にある久美子とのデートの予定をポップアップで主張してきた。
いつもなら、こういう通知の滞留を見ると、むしろ少し高揚した。
誰に、どの順番で、どの温度感で返信して、そこで決まった予定を、どこへ差し込むか。
バラバラの情報を整合性が崩れないよう組み上げていく作業は、パズルみたいで嫌いじゃないし、全部管理できている感覚に喜びを感じていた。
だが、今朝は通知を見ているだけで、脳の奥がじわりと重い。
面倒という感覚とも少し違い、久美子との予定を確認した瞬間、胸の奥に妙な圧迫感が走る。
久美子はちゃんとしているがゆえに、期待に息が詰まり、返報性の原則を破りたくなる。
そうやって久美子といる時間は、幸福というより、負債を延滞なく返済している感覚に近かった。
「直樹って、ずっと通知鳴ってるね。」
振り返ると、昨日の服に着替え終えた里香が立っていた。
「……まあ、色々。システムのアラートとか、同期の連絡とか。」
俺が曖昧に濁すと、里香はそれ以上の詮索をすることはなく、ただ「ふーん。人気者だね。」とだけ言った。
俺の連絡相手に興味がないのか、踏み込まないだけなのかは分からない。
だが、里香の奥の静かな瞳は、俺が何かを必死に隠し、取り繕っていることを見透かすような不思議な深さを持っていた。
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オフィスに出社すると、執務室はいつも通りのざわめきに包まれていた。
「あ、佐藤。おはよー。」
デスクへ向かう途中、隣チームの同期の男が缶コーヒー片手に声をかけてきた。
「昨日マジ最悪だったわ。」
「何が?」
「俺ちょっと残ってたら、先輩にそのまま飲み連れ回されて終電ギリ。狩野も休みだったじゃん?だから『若いから男でもいいや』とか言われてさ、いじられるし飲まされるし、マジで地獄。」
「あー……お疲れ。」
適当に相槌を返しながら、自席へ鞄を置く。
すると彼は、思い出したみたいに続けた。
「そういや昨日さ、うちのチームの先輩が彼氏とテーマパーク行ってたらしいんだけど、平日だからめっちゃ楽しかったってお土産貰ったわ。」
「へえ。」
「しかも、そこに狩野っぽい女が男連れでいたとか言っててさ。」
それを聞いた瞬間、俺は呼吸が止まりかけるが、彼はそんなこちらの内心に気づく様子もなく笑った。
火曜日に俺と里香が同時に有休を取っていたこと自体は、別に珍しくもないからだろうか。
「いや、正直さ、ちょっと意外じゃね?狩野って同期内では大人びてるし、バリキャリ思考っぽいから恋愛とか興味なさそうじゃん。」
「……まあ。」
「なんかずっと冷静だし、愛想薄いし。あと貧相な身体で胸ないし。」
「お前最低だな。」
「いやでも分かるだろ。なのに普通に彼氏いるっぽいの、ちょっと脳バグるわ。」
軽い雑談の同期ノリで、深い意味なんて何もないとは分かっている。
だが、その深い意味のなさこそが気持ち悪く感じてしまう。
俺と狩野の退勤タイミングが近い日が数回あったこと、歓迎会で庇った形になったこと、そこから妙に会話が増えていたこと。
周りが意識し始めたら、そういった一つ一つの点が繋がる可能性もある。
それが違和感として同期ネットワーク上へ散らばったら、今のような管理が続かないかもれない。
誰も疑っていない、誰も監視していない、誰も追及していないという状況だが、断片だけが自然に保存されていく気がする。
「ってかさ。」と、同期が缶コーヒーを振りながら、何気なく言う。
「お前と狩野、休み被る率ちょっと高くね?配属2か月で3回くらい被ってね?」
「……たまたまだろ。」
「まあ、そうかー。」
彼はそれ以上追及せず、自席へ戻っていったが、俺の心拍だけは戻らない。
視線を向けると、既に席に座る里香は、昨日何事もなかったみたいにPCへ向かい、静かにキーボードを叩いていた。
その時、少し離れた島の方から、女性の先輩社員の声が聞こえてきた。
「はい、お土産ー。昨日めっちゃ歩いたから足死んだ。」
紙袋を配りながら、先輩が笑う。
「あざっす!っていうか先輩、昨日休みだったんすか?」
「うん。彼氏とテーマパーク行ったんだけど、空いてていっぱい回れたんだよねー!」
「え、めっちゃいいじゃないですか!」
周囲の雑談がひと段落した頃、紙袋を配り終えた女性先輩が、ふと里香の席の方を見た。
「狩野ちゃん、昨日もしかしてテーマパークに居た?」
俺にもその質問が聞こえ、心臓が強く脈打つ。
だが、里香は手を止め、先輩の方を向いていつも通りの静かな声で返す。
「……なんでですか?」
「いや、たぶん見かけた気がして。彼氏さん?」
先輩たちが、「えっ!?」「マジで?」と面白がるように反応する。
里香は少しだけ視線を上げ、それから小さく笑った。
「ふふっ、どうでしょうね。」
否定も肯定もしない回答に、先輩たちがさらに盛り上がる。
「え、何その反応。絶対いるじゃん!」
「いやー、狩野ちゃん隠すタイプだと思ったわ!」
「ていうか昨日有休デートだったのかよー。」
周囲が好き勝手に盛り上がる声があるが、その中心にいる里香だけは、妙に温度が低い。
照れるでもなく、誤魔化すでもなく、ただ騒がしさが過ぎ去るのを待っているみたいだった。
そして、その会話を聞きながら、俺だけが理解していた。
昨日狩野は有給を取得し、彼氏と思われる男とデートでテーマパークに行ったという曖昧な情報。
だが、こういうノイズの蓄積は、後の管理侵害につながるのではないかと。




