第40話「【緑】の解説」
火曜日の朝、薄く雲のかかった晴天が心地いい。
パークへの遊歩道は、平日の開放感に浮き立つ人々で賑わっていた。
俺は珍しく早起きをして、約束の時間の15分前には到着していた。
昨夜は終電近くまでの残業に加え、真冬へのメッセージ調整や久美子への不達設定など、脳内カレンダーの組み替えに追われてほとんど眠っていない。
それなのに不思議と眠気は薄いのは、未知のものへの期待なのだろうか。
それとも、全部の予定がまだ破綻せず回っているという、高揚感のせいだろうか。
改札の近くで待っていると、人混みの向こうから見覚えのある姿が歩いてきた。
いつも執務室で見せる、カチッとしたオフィスカジュアルの狩野ではない。
下はネイビーのガウチョにスニーカー、上は淡いアイボリーのとろみ素材のブラウスで、過度な装飾はない。
髪は低めの位置でまとめ、バレッタで留めているがいつもとは違い毛先にかけて遊びがあった。
執務室で見るよりずっと柔らかい雰囲気に、一瞬だけ認識が噛み合わなくなる。
同じ人物のはずなのに、別人みたいだった。
「おはよう、直樹。……何、人の顔じっと見て。」
「いや、なんか新鮮だなと思って。私服、似合ってる。…っていうか、名前呼び?」
俺が率直な感想を口にすると、狩野は少しだけ視線を泳がせ、それから小さく咳払いをした。
そして開口一番、真面目な顔でこう告げた。
「ありがと。あとね、先に言っておくけど、このパークは雰囲気のこだわりが強い訳。職場と同じように呼んでたら、仕事のこと思い出して、雰囲気壊れるでしょ?」
照れ隠しを含んだその実用性重視の台詞が、いかにも狩野らしくて、俺は思わず小さく笑った。
「了解。ツアリストの指示には全面的に従うよ、里香。」
「わかればよろしい!」
そう言う里香と笑いあって、俺たちは入園ゲートをくぐった。
そこから、会話の端々に里香の解説が始まった。
「何かワクワクする感じがあるな!何でだろ。」
「入口入った後は少し下りの傾斜になってて、無意識下で足早になるから、心拍が上がってワクワクに変わるんだよ。」
「何それ凄っ!そんなところから設計する思想半端じゃない。」
パークに入った瞬間から、里香は本当に楽しそうに言葉を紡ぐ。
お城を高く見せる錯覚を利用した設計、背景になってる店舗に応じた環境音、アトラクション周辺の混雑を自然に分散させるためのレイアウトといった技術的な話。
それだけじゃなく、世界観を見せるため、各アトラクションや建物一つ一つに割り振られているエピソードも、俺の聞きたいタイミングで話してくれる。
しかも里香は、一方的に知識を披露しているわけじゃない。
俺がどこに反応したかを見ながら、説明の深さを自然に変えている。
技術に食いつけば設計思想を、演出に反応すれば感情設計をというように、会話のテンポが、妙に心地良かった。
そして、その話を聞くのは実に楽しく、ゲストを楽しませるための圧倒的な情熱を、計算し尽くしたロジックで構築されていると感じた。
俺は途中から、里香から説明されること自体に、心地よさを感じ始めていた。
情報の共有によって、互いの思考と感情を滑らかに接続していく。
そんな里香のコミュニケーションのあり方が、今の俺には異様に新鮮だった。
昼頃、パーク内でも人気のある限定フードのワゴンに並んでいる最中だった。
ふと前方に目を向けた瞬間、俺の身体がピキリと硬直した。
数十メートル先、歩き去っていくカップルの女性が、同じ部署の先輩らしき後ろ姿が見えたのだ。
俺はすぐに顔を背けたが、隣の里香はその動揺に気づく様子もなく、スマホでワゴンのメニュー表を真剣に見つめたまま呟いた。
「やっぱどっちにするか決められない!直樹と別の頼むから、半分こしない?」
笑顔で提案する里香に頷き、俺はもう一度遠くの背中を凝視した。
100人以上いる課内故に、後ろ姿だけでは断定できない。
だが、もし本当に先輩だった場合、「佐藤と狩野が平日にテーマパークへ来ていた」というログだけは残る。
その可能性が、一度脳裏を掠めると離れなかった。
そんな俺の様子を、里香は不思議そうに覗き込んできた。
「何、さっきからキョロキョロして。……並んどくから、トイレならあそこだよ。」
「え?ああ、うん。トイレは大丈夫だ。」
愛想笑いを浮かべながら、俺は心の中で小さく首を振る。
考えても今は仕方ないのはわかるが、胸のモヤモヤはしばらく続いた。
午後になり、目当てのアトラクションに並んでいる間も、退屈する時間は1秒もなかった。
里香との会話は、驚くほど異常な噛み合い方を見せていた。
テーマポートと採用IPの親和性、アトラクション周辺のモニュメントの意味、ショー演出で使われた最新技術。
恐らく里香は、俺の興味をそそる内容を、素早くかつ的確に選別し、会話している。
話していて盛り上がる上、全く疲れないことに俺は気づいた。
お互いに対等なスタンスを保ちながら、純粋な好意だけがその隙間を埋めている。
その圧倒的な居心地の良さに触れた瞬間、俺の脳内に、少しだけ危険な認識が芽生え始めていた。
里香といると、無理に会話を繋ぐ必要がない。
気を遣っている感覚も、頑張って盛り上げている感覚もないのに、自然に噛み合っていく。
その心地良さに触れた瞬間、俺の中で、ひどく危険な発想が芽生え始めていた。
久美子と別れて、里香を選べば今の不安定な状態全部、もっと綺麗に整理できるんじゃないか。
そんなことを考え始めている時点で、もう十分に壊れ始めていたのだと思う。
「あ、直樹。せっかくだし、あそこの井戸の前で写真撮る?」
列が少し止まったタイミングで、里香がスマホを取り出した。
里香の提案に、俺は一瞬だけ思考が止まる。
保存、共有、と言った単語が反射的に脳裏を掠めたが、空気を壊したくないという感情の方が、僅かに勝った。
「いいよ、撮ろうか。」
俺はそう言って、インカメラでスマホを構える里香に寄った。
「撮るよー!」
スマホから鳴るシャッター音と共に、画面の中へ俺と里香の姿が保存された。
一枚の写真だけで、人間関係は驚くほど簡単に可視化される。
普段の俺なら、そんなログを自分から残したりしない。
それでも、この時の俺は目の前の時間が純粋に楽しかったから、里香の隣に映ることを優先していた。
夕方になり、足に疲労が溜まってきた俺たちはエリアの隅にあるベンチに腰掛けていた。
狩野は新しく買ったチュロスを小さく口に運びながら、パーク内を見つめてぽつりと呟いた。
「なんか……思ったより、ちゃんと楽しい……」
「思ったより、って。来る前は嫌だったのか?」
「違うよ。ただ、誰かと一緒に来て、こんなに自分の好きな話をずっとしてられたの、初めてだったから。」
彼女は少し恥ずかしそうに笑い、それからチュロスを口に咥えた。
「そうなのか?」
「詳しく無い人と来るとオタク臭さを消しながらアテンドする事が多いし、オタク同士で来ると知ってる前提で逆に今日みたいな話はしないし…」
その姿を見ていると、胸の奥に、妙に静かな感情が広がっていく。
会話を盛り上げようと意識した記憶がない。
沈黙を埋めようと焦った記憶もない。
ただ同じ景色を見ながら話していただけなのに、不思議なくらい疲れなかった。
俺はその不思議なくらい居心地が良い感覚を、まだ上手く言語化できなかった。




