第39話「【緑】の高揚」
執務室の人口が少しずつ減り始め、20時を過ぎる頃には、オフィスの照明は半分近く落とされていた。
静まり返った空間に、PCファンの低い駆動音と、社内メッセンジャーアプリの通知音だけが断続的に響く。
俺はまだ、自席に残り続け、仕事に精を出していた。
疲労はとっくに限界を超えているはずなのに、不思議なほど思考は冴えていた。
明日は狩野とテーマパークへ行く。
その予定を完璧な形で成立させるためなら、残業も、嘘も、前倒し作業も、全部ただのリソース変換に過ぎない。
必要な処理を順番に積み上げていくたび、脳の奥で何かが熱を帯びていく。
すべてを制御できているという錯覚だけが、異常な集中力を維持させていた。
画面の隅で、スマホが短く震え、表示されたのは狩野からのメッセージだった。
<明日、ディティールとか背景設定の細かさ説明するから、覚悟しといて。引かないようにね!>
思わず小さく笑い、俺は仕事の手を止めて返信を打つ。
<おっけー。ツアリストの狩野様に全部お任せします!>
数秒後、即座に返信が返ってきた。
<よろしい!なら、ちゃんと聞く姿勢を持って臨むように!>
短い一言なのに、どこか満足げなのが伝わってきて、俺はもう一度だけ口元を緩めた。
情報の共有には感情の共有が伴い、それが相互理解を促進する。
そんな考え方が、狩野にはあるのだと理解できる。
俺もその意見には賛同するし、だからこそ狩野と噛み合う部分が有るんだろう。
数往復やり取りをしたあと、不意に短いメッセージが届いた。
<まあ、普通に楽しみではある。>
普段の狩野ならまず送ってこない類の文面に、一瞬だけ、画面を見る手が止まる。
だが、その直後。<期間限定チュロスもあるらしいし。>と、誤魔化すみたいに追撃されたメッセージを見て、俺は少しだけ笑った。
<了解、楽しみだ。>
そのメッセージとスタンプを返したあと、今度は久美子とのトーク画面を開く。
事前に脳内で組み立てていた、偽装用メッセージをそのまま入力していく。
<明日、今運用中の方のシステムの緊急保守対応入っちゃってさ。本番作業室に入りっぱなしだから、日中ほぼスマホ触れなくなりそう。終わるの深夜かも。お弁当の件もごめん!>
それだけ書いて送信すると、罪悪感は、驚くほど存在しなかった。
有休申請、前倒しした業務、社内アプリの在籍ステータス、返信タイミング、不達リスク、と、バラバラだった要素が、俺の設計通りに噛み合っていく。
画面に並んだトーク履歴を見ていると、妙な高揚感が胸の奥を満たしていき、気付けば、俺は少し笑っていた。
その直後に震えたスマホが映し出したのは、真冬のメッセージだった。
<明日の夜、次のタッグ大会に向けてカオカタ磨き出来るん?>
俺は真冬との約束を思い出したが、明日は狩野と朝からテーマパークへ行く。
閉園近くまで滞在する可能性も高く、その後の流れ次第では、真冬と遊べない可能性は十分にある。
<まだ分からん。仕事次第すぎる。>
この送信であれば断ってはおらず、確約もしていないため、保険だけが残る。
さらに数秒後、今度は久美子から通知が届いた。
<そんな忙しいのに、ちゃんと寝れてる?最近ずっと心配してるよー……泣>
俺は久美子の文面を見ても、特に何も感じなかった。
やはり、申し訳なさも、後ろめたさも、不思議なくらい存在しない。
むしろ、心配してくれる彼女として正常稼働していることに、どこか安堵すら覚えていた。
<大丈夫だよ。メッセージで元気貰ってるから。落ち着いたら連絡するね!>
テンプレートみたいな返信を送り、すぐにトーク画面を閉じる。
しかし今度の通知は真子からだった。
<ドクペ、ケースで直樹の家に届くように注文したから、ヨロ>
真子の雑さに思わず少しだけ笑っていると、その数秒後には明日菜からメッセージが来る。
<先輩、忙しいのは分かってるんですけど、今週か来週会えませんか?>
俺は一瞬だけ視線を止め、頭の中で、既に来週のスケジュールが自動的に組み替えられ始めていた。
頭の中で、来週の予定が自動的に組み替えられていく。
空いている日や誤魔化せる理由を考え、移動時間を確認しながら被る可能性のある予定を処理可能か判断する。
必要な情報だけを整理し終えると、俺はスマホを伏せ、小さく息を吐いた。
終電も近く、23時半を回る頃には、フロアには3〜4人を残すだけになっていた。
俺はPCのシャットダウンを押し、ゆっくり椅子へ背を預ける。
暗転したモニターに、自分の顔がぼんやり映り込んだ。
目の下の隈、乾いた唇、疲労の滲んだ表情が映り、自分でもまともな状態じゃないことくらい分かる。
それでも、不思議と気分は悪くなかった。
明日は狩野とテーマパークで、多分閉園近くまで居る。
そこまで考えた瞬間、胸の奥が少しだけ熱を帯びた。
楽しいと思っているはずなのに、同時に、どこか空腹感みたいなものも残り続けている。
何が足りないのかは自分でもよく分からないが、その感覚を深く考える気にはなれなかった。
疲れているだけだから寝れば戻ると、そう判断し、俺は立ち上がる。
むしろ全部を制御できている今の自分は、少しだけ無敵にすら思えた。
そう信じたまま、俺は静まり返ったオフィスを後にした。




