第38話「【赤】と社員食堂」
月曜日の朝、俺は眠気を誤魔化すように自販機へ小銭を流し込み、特濃ブラックのボタンを押した。
鈍い音を立てて落ちてきた缶を拾い上げると、指先がわずかに震えていた。
昨日は日曜日だったはずなのに、結局、真子を何度も求めてしまった。
別に特別な理由があったわけじゃないが、気付けばカーテンの隙間から眩しい朝日が差し込んでいただけだ。
その時には、俺の隣で裸のまま布団にくるまった真子が、「眠いし、代休あるから午前休する。鍵あとで持ってくから、そこ置いといて。」とだけ言い、半分寝た声を漏らしていたことを思い出す。
俺は自分の領域に真子をそのまま残すことには気が引けたが、出勤時間が迫っていたため、鍵を机に置いて家を出たのだ。
定時ギリギリに滑り込んだはいいものの、やはり睡眠欲には抗えず、顔を洗うついでに自販機スペースまで来たというのが現状だ。
特濃と表記されるだけあって、俺の飲んだ缶コーヒーは空腹の胃を強く刺激し、少しだけ痛んだ。
「おい佐藤、お前マジで顔死んでね?」
もう少し休憩しようと壁に寄ろうとしたとき、俺の背後から声が飛んできた。
振り返ると、同じ部署の同期の男が、社員証をぶら下げたまま笑っていた。
隣のチームに配属されたその同期は、業務で直接絡むことは少ないが、たまに雑談する程度の距離感だ。
「いや、ちょっと担当案件のUT期限が近くてさ。実行エラーは潰せたんだけど、ロジック側の原因特定が泥沼で……」
「聞ける人いないのか?」
「まぁ、協力会社の人に聞けば教えてくれるかもしれないが、先輩からは『自分で考えて解決したことが一番身になる』とか言われて……まぁやるしかないって感じ。」
「うわっ、めっちゃスパルタ。…研修成績優秀な佐藤じゃないと務まらんチームだな。」
同期はそう言って苦笑したあと、思い出したように続けた。
「てか今週金曜、同期会だろ?しかも全員に声かけてるから、全員来たら150人規模のやつ。お前行けんの?」
「ああ、さすがに行こうとは思ってる。」
「なら夜遊びせずにちゃんと寝ろよ。最近のお前、目の下のクマやべぇぞ。」
睡眠不足を指摘されただけで、探られているわけでもない。
ただ、無害な雑談の一部だとは理解しているが、その雑談が最も厄介な記録として作用する可能性を考えてしまう。
『最近の佐藤はずっと疲れている。』、『夜遅くに繁華街で見た。』、『同期会も全然来ない。』そんな、記録した本人たちすら自覚がないまま、俺の不整合なログが、分散保存され始めているのではないか、と。
空になった缶を無意識に振ると、ポケットの中でスマホが短く震える。
片目でそっと内容だけ確認すると、真子からのメッセージだった。
<めざめー、プリン食べとくね>
同期の前と言うことも忘れ、俺は思わず小さく笑いそうになった。
俺は同期に「じゃあ、また。」と言い、歩きながら<NG>というスタンプだけ返すと、新たなポップアップが表示された。
<今日、仕事終わったら電話できる?ちょっとだけ話したいな。>
俺は数秒、液晶画面を見つめたまま歩きを止めた。
普通の恋人同士の電話であることは分かるが、何故このタイミングなのか疑念が湧いてしまう。
親指で静かに通知を閉じ、今週の予定を再度思い直す。
今日はUTを終わらせて、明日はきっちり有給取得し狩野とのテーマパークデート、金曜日は全同期を集めての同期会がある。
今夜は久美子の電話対応をし、火曜夜に真冬との格ゲーの約束もあった。
それぞれが衝突しないよう、カレンダーを組み上げるたびに、疲弊がどこかへ消失し、全てを自分の支配下に置いているという万能感が込み上げる。
その万能感は、俺の仕事にも良い影響を生み出した。
明日の有給休暇を完全な形で成立させるため、俺はデスクに戻ると深く集中でき、先週まで詰まっていた仕事を片付けることが出来た。
そのまま進捗会議の資料準備に手を付け、明日処理しなければならないものを次々と消化済みタスクへと切り替えていく。
頭の奥がジリジリと痛み、熱を帯びる感覚はあるが、それ以上に、押し寄せるタスクを捌ききる奇妙な快感が、麻薬のように俺の脳内を支配していた。
次に俺が時計を見た時には、昼休みに入って30分も経っていた。
あわてて社員食堂に駆け込むと、既に席は疎らになっていた。
俺は納豆カレーを受け取り、窓際の空席へ腰を下ろす。
湯気の立つうどんへ箸を伸ばしかけた時、不意にトレイが隣へ滑り込んできた。
「おつかれー。」
少し気だるそうな声の正体は真子だった。
さらに、その向かい側へ、真子と同じ部署の同期男2人が座ってきた。
片方は営業寄りの陽キャタイプ、もう片方は大人しそうな眼鏡の男だ。
どちらも、真子へ妙に話しかける頻度が高いのを、研修時代から俺は知っていた。
「小松さん?午前休じゃなかったの?」
営業っぽい方が、唐揚げ定食を置きながら聞く。
「んー、午後だけ来た。家に居ても暇だし。」
真子はそう言って、俺のうどんを覗き込んだ。
「うわ、またそれ?直樹ほんとそれ好きだよね。」
まるで何度も見てきたみたいな自然すぎる真子の口調に、向かいの2人が一瞬だけ視線を上げる。
「あれ、佐藤とよく飯食うの?」
「昨日もいたしねー。」と言い、真子は何でもない顔で唐揚げを頬張る。
「昨日はボドゲ対戦してたけど、直樹めっちゃ事故ってて笑った」
「え、2人で?」と、食べる手を止めた眼鏡の男が反応した。
「あー、うん。昨日暇だったから、直樹んち行っただけ。」
男の部屋へ行くという一言だけで、周囲は勝手に関係性を補完する。
もちろん、真子にそんな意図はないことを、俺は理解していた。
話題を流す意味でも、俺は無言でうどんをすすった。
営業男が、「へぇ……」と妙に乾いた声を出しながら、俺を少し刺すような視線を向けてきた。
「てか佐藤って、ゲームとかやるイメージ無かったわ!なんか仕事終わったら、家帰って即寝てそう!」
さっきより少し大きな声で、営業男が笑いながら言う。
眼鏡の男も「それ、わかる。」と、苦笑しながら同調する。
「休日とか、ずっと寝てるイメージあるよね。」
「いや絶対それ!あとコンビニ飯食って、たまに妄想して終わりみたいな生活してそうだよな!」
男2人が顔を見合わせながらケラケラ笑ったところで、真子もつられるように吹き出す。
「なにそれ、ひどっ!」
真子は殊更否定はせずに、むしろ楽しそうですらある。
「でも直樹、ゲーム中だけめっちゃ喋るからね。仕事中ずっと死んだ顔してるのに。」
「マジ?」
「え、想像つかねぇ」
そういう2人の視線が俺へ集まるが、俺は適当に肩をすくめた。
「小松さんが勝手に押しかけてくるだけだよ。」
「は?何それ?お前んち行くレベルで仲良かったの?」
営業男が、少しだけ笑顔を引かせ、言葉に圧をかけてきた。
その瞬間、不意に俺の太腿へ何かが軽く触れ、視線を落とすと真子の手だった。
小さな銀色の鍵が、テーブルの死角でそっと俺に返される。
俺が受け取るより先に、真子は自然な動作で身体を寄せ、柔らかい髪が肩へ触れる。
「ありがと。」
俺は耳元で、小さく真子に囁かれた。
その音の近さに反射的に顔を上げると、向かい側で眼鏡の男の箸が止まっていた。
その隣で、営業男の笑顔も、ほんの少しだけ固まっている。
真子は何事もなかったように、ごくごくと喉を鳴らして麦茶を飲んでいた。
俺だけが、胃の奥へ冷たいものが沈んでいく感覚を覚えていた。
昼休みが終わりに近づき、真子は「午後だる……」などと言いながら席を立っていく。
営業男も眼鏡の男それに続きながら、さっきまでの空気を誤魔化すように、他愛ない業務の話を始めていた。
俺はトレイを返却口へ置くと、そのまま食堂横のトイレへ小走りで向かい、個室へ入って鍵を掛けた。
ようやく一人の空間になれたことで、張り詰めていた神経が少しだけ緩んだ。
頭の中では、既に明日の動きが整理され始めている。
朝7時に家を出る、パーク最寄駅で狩野と合流する。
既に久美子には仕事の進捗が芳しくなく、終日拘束されると伝達済みだ。
水曜の進捗会議資料も今日中に終わらせる見込みが立っている。
むしろ複数のスケジュールを同時運用しながら、問題なく回せている今の状態に、奇妙な高揚感すら覚えていた。
その時、個室の外から、さっきの営業男の声が聞こえた。
「……いや、でもさ。」
少し声量を落とした、雑談の延長みたいな口調が聞こえる。
「さすがに、あの距離感って付き合ってね?」
一瞬だけ、心臓が止まりかけるが、続いて聞こえてきた眼鏡男の返答は、曖昧だった。
「……どうだろ。まぁ、でも佐藤だし。古見さんとの噂もあるしさ。」
「古見?小松さんといろいろ真逆じゃねーか!」
下卑て乾いた笑い声が響き、2人はそのままトイレを出ていった。
俺は個室の中で、ゆっくり息を吐く。
決定的な何かを掴まれたわけじゃないが、ほんの小さな違和感だけが、他人の記憶へ保存され始めている。
それが、妙に気持ち悪かった。




