第36話「【紫】とライブハウス」
ライブハウスは、中野から少し歩いた雑居ビルの地下にあった。
薄暗い階段を降りるたび、下のフロアから重低音が響いてくる。
「いや、マジでドラマーのソロライブって何やるんだよ。」
「だから言ってるじゃん。なおきが絶対びびるやつって。」
真冬は楽しそうに笑いながら、受付でもらったドリンクコインを指で弾いた。
中へ入ると、客層は想像以上にカオスだった。
バンドTシャツ姿の男、派手髪の女、スーツ姿の会社員、俺のイメージするライブとは違い、客の服装の統一感がまるで無い。
ステージ中央には、当然のようにドラムセットが1台だけ置かれていた。
「ほんとにドラムしかねぇ……。」
「だからソロライブだって。」
ライブが始まった瞬間、俺は少しだけ認識を修正することになる。
最初は普通のバンド楽曲に合わせてドラムを叩いているだけだったが、途中から急に童謡へ切り替わったり、流行りのアイドル曲へ切り替わったりしている。
それを、超絶技巧のドラムで無理矢理被せ、特有の重低音が脳内に直接響いていく。
正直、意味が分からないが、意味が分からないまま、会場全体が笑いながら盛り上がっていた。
「ははっ、何だこれ。」
気付けば、俺も普通に笑っていた。
仕事のことも、人間関係のことも、その重低音が響く度に脳から消えている。
隣を見ると、真冬は子供みたいな顔でステージを見ながら、リズムに合わせて身体を揺らしていた。
「ね?ヤバくない?」
「いや、意味不明すぎるて……やばい……。」
「最高じゃん!」
笑顔で答える真冬が可愛くて、俺はまた少し笑ってしまう。
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終電一時間前。
ライブハウスを出た俺たちは、そのまま駅前の家系ラーメン屋へ入った。
真冬曰く、「動いた後はカロリーが命!」と言うことらしい。
深夜の店内は、仕事帰りのサラリーマンや酔客で騒がしい。
その喧騒に負けないくらい、「かため!こいめ!おおめ!」と叫ぶ真冬に、また少し和まされた。
カウンターの狭い席に並んで座ると、真冬は当然のような顔をして、俺が注文したセットのチャーハンへ勝手に自分の箸を伸ばした。
一口頂戴という確認のプロセスすらなく、当然のように米を盗み、俺のコップの水を勝手に飲み、自分の麺をすすりながら「あ、今日のスープ、濃い目が濃い日だ!当たりだ!」と勝手な感想を述べる。
肩が何度もぶつかり、真冬の細い太ももが俺のジーンズに触れる。
しかし、昨晩の明日菜のような、意識し合うような色気は一切なく、まるで高校時代からの男友達とメシを食っているかのような感覚に陥る。
レンゲでスープをすすりながら、俺は心の中で深く息を吐いた。
脳内のリソースを、1キロバイトも消費せず、ただ、目の前のラーメンが美味いとか、さっきの対戦のコンボミスがどうとか、その場限りの思い付きを話してたらいい。
「ねえ、直樹。」
真冬が、口元にスープを少しつけたまま、不意に俺の顔を覗き込んできた。
「あん?」
「直樹ってさ、なんかいつも、色々と考えすぎなんだよね。ゲーム中もそうだし、普段も。スマホ見てる時、なんかすごい怖い顔して脳みそフル回転させてるじゃん。」
一瞬、背筋に冷たいものが走った。
俺が観測されているかのような発言に、脳内防衛システムが過剰に反応する。
しかし、真冬はすぐに麺の残りをレンゲですくい上げながら、あっけらかんと続けた。
「ま、そういう余裕なさそうなところが、マジでキモい。もっとバカになんな。」
真冬はそう言って笑うと、俺のレンゲへ勝手にチャーシューを乗せてきた。
「ほら。社会人、肉食え肉。」
「カロリーとか言ってんのに、ちょっと減らそうとしてんじゃねぇ。」
「バレたか。」
真冬とのくだらないやり取りに、また少しだけ笑ってしまう。
こんな風に、何も考えず笑える時間が、自分の人生に存在すると思っていなかった。
仕事も、人間関係も、将来も、恋愛も、何もかもを一時停止して、ただラーメンを食って、格ゲーの話だけしていればいい。
そんな空間に俺は、依存し始めている気がする。
店を出る頃には、終電まで残り20分を切っていた。
「やっば。走れば間に合う?間に合っても吐いちゃう?」
「お前絶対間に合わす気ないだろ。」
「えー?直樹と深夜徘徊編でもいいけど?」
「小学生かよ。」
笑いながら駅へ向かう途中、俺のスマホがまた短く震えた。
<やっぱ、今日中野いた?>
再び来た真子からのメッセージで立ち止まりかけた足を、俺は無理やり前へ出す。
横では真冬が、「やば、終電チャレンジ!ちゅらららー!」と笑いながら早足になっていた。
俺は歩きながら、さらに追加で着た通知を開く。
<ゲーセンで、直樹っぽい人見た気がした。派手髪といたから違うかもしれんけど>
その一文を見た瞬間に喉の奥が急激に乾き、俺は思わずスマホを強く握り込んだ。
真冬はそんな俺の異変に気付く様子もなく、「置いてくよー!」と笑いながら先へ進んでいく。
真子は、別に疑っているわけでも、追及しているわけでもなく、ただただ、『見かけた気がする』と言っているだけだ。
だが、その何気ないメッセージが、観測されているようで、俺の脳内では警告へと変換されていた。
今まで完全に切り分けられていたはずの人間が、接触する危険性は分かっている。
走りながらもなおポケットの中で、スマホがもう一度震える。
<まぁいいや、明日ひまだったらゲームしよ。直樹の家いくね。>
悪意のないであろう真子の軽さが、逆に怖かった。
そのメッセージが頭を支配していたら、いつの間にか俺は駅の改札前まで来ていた。
終電接近のメロディが、騒がしく鳴り続けている。
「じゃ、またね。火曜の夜とか空いてる?」
真冬がスマホ画面を見せながら、当然みたいな顔で聞いてくる。
火曜日は、狩野とのテーマパークに行く予定だ。
しかし夜なら、真冬との時間が取れなくはない。
「分からんが、たぶん大丈夫。」
「たぶんって何。断るときの社会人の返事じゃん。」
「社会人だからな。」
「うわ、出た。」
真冬はケラケラ笑うと、「じゃ、またねー!」と雑に手を振った。
そのまま小走りで改札を抜け、人混みの向こうへ消えていく。
俺はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
真冬といる間だけは、脳内のノイズが消えるのだが、その安全地帯ですら、もう完全な秘匿領域ではなくなり始めていた。
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ようやく自宅へ帰り着いた俺は、電気も点けず、そのままベッドへ倒れ込んだ。
複数のスレッドを並列処理し、それぞれへ最適化された人格を維持し続ける。
その運用自体には、もう慣れ始めているが、今日の想定外が負担だった。
暗い部屋の中で、枕元へ伏せていたスマホが、また短く震えた。
「……また、真子か。」
俺はゆっくり通知を開く。
<最近の直樹ってさ、格ゲーしてる時だけ、めっちゃ楽しそうだよね>
事実の適示だけしかしない真子のメッセージ、それが俺にとっては異様に恐ろしかった。




