第35話「【紫】とゲーセン」
「先輩、おはようございます。朝ごはん出来てますよ。」
俺は明日菜の柔らかい声で目を覚ますと、カーテンの隙間から差し込む光で、既に朝と言うには少し遅いことに気付いた。
少しだけ身体が軽くなって気がし、揉み返しも無い。
昨日まで脳へ張り付いていたノイズも、少し薄れている気がする。
ベッドから身体を起こすと、小さく味噌汁の匂いが漂ってきた。
「……おはよう、今何時?」
「もう10時です。先輩、めちゃくちゃ寝てました。……頑張ってたんですね。」
明日菜はそう言って、小さく笑いながら、背伸びをして俺の頭を撫でた。
俺が部屋へ置かれたローテーブルに目をやると、焼き鮭、卵焼き、味噌汁が並んでいた。
「すご。」
「えへへ。先輩、疲れてそうだったので。」
明日菜の顔は、好きな男へ尽くせていること自体に満足している表情に見えた。
俺は椅子へ座りながら、ぼんやりと『こういう時間は危険』と思っていた。
夜だけなら、身体を重ね、癒され、その場限りで終わらせられる。
それは関係性管理として十分制御可能な領域だ。
だが、朝食を作り、休日の予定を共有し、恋人みたいな空気が生まれ始めると、話が変わってくる。
それは俺と明日菜が、監視と継続を前提とした関係へ変質し始めるからだ。
「先輩、今日このあと暇ですか?」
俺はやっぱり来たな、と思った。
明日菜は少し遠慮がちに視線を逸らしながらも、どこか期待した顔をしている。
「新宿で今、期間限定のカフェがあって……その、もし良かったら。」
明日菜の誘い方が可愛くて、少しだけ罪悪感が湧く。
だが同時に、俺の脳は即座に別の計算を始めていた。
今日は土曜で、真冬と時間を合わせられる可能性が高い。
それに、狩野への返信も残っているし、久美子からの未読も返していない。
そして何より、これ以上明日菜との『健全な恋人イベント』を進行させるのは管理しきれない恐れがある。
「ごめん。ちょっと仕事残ってて、午後だけ出社なんだ。」
勿論俺の口から咄嗟に出た嘘だが、明日菜は俺の言葉を疑わない。
「えっ……土曜なのにですか?」
「担当してる案件のリリース近くてさ。」
「あ……そっか。」
分かりやすく肩を落とした後、それでも明日菜は無理に笑った。
「じゃ、じゃあ仕方ないですね。お仕事頑張ってください。」
その健気さに一瞬だけ俺の胸が痛むのは、ただの管理コストでしかないと意識する。
そうすることで、俺は維持コストを支払っている安心感も得ることが出来た。
なるべく早く食事を済ませて、急いでる風に明日菜の部屋を出た。
春先の少し冷たい風が、首筋へ残ったオイルの感触をゆっくり消していった。
それと同時に、俺は優しくて頼れる先輩の人格を脱ぎ捨てていく。
ポケットの中で、スマートフォンが短く震えて画面を開くと、相変わらず処理待ちの通知が何件か並んでいる。
ざっくりと内容を確認しながら、全員へ整合性の取れた返信を返し、それぞれ別人格として最適化し続ける作業。
それが今の俺の日常であり生存している意味にも感じていた。
全員に返信を終え、家に着いた時、通知欄に新しいメッセージが追加される。
<今日中野のゲーセン>
真冬からのメッセージはたったそれだけで、誘いですらない。
なのに俺はそれを見ただけで、脳内を埋めていたノイズが少し静かになるのを感じていた。
不親切で、雑でなメッセージなのに、俺は気付けば普段着に着替えて、もう一度駅に向かっていた。
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駅近くのゲーセンに入った瞬間、電子音と排熱の匂いが一気に押し寄せてきた。
格ゲーコーナーは3階の右奥と知り、俺たちが懇意にしているゲームの筐体を探していると、真冬の明るい声が聞こえる。
「あ、直樹、来た。」
真冬は筐体へ座ったまま、俺を一瞬だけ見た。
紫混じりの髪を後ろで雑に結び、大きめの黒いパーカーの袖を捲っている。
傍らには飲みかけのエナドリを置き、手にはラバーバンドを数本付けていた。
「遅くね?」
「うっせ、寝不足で移動速度落ちてんだよ。」
「ウケる。今日の直樹、絶対反応終わってるじゃん。」
そう言いながら、真冬は空いている向かいの席に親指を向けた。
「はい、座れ雑魚。」
「言うようになったな、真冬。ボコボコにしてやるよ。」
コインを投入口に滑り込ませると、画面が切り替わり、対戦開始の演出が走る。
レバーを握った瞬間、俺の口調から社会人としての建前や、男としての虚飾が完全に消え去っていた。
真冬の前でだけは、言葉が雑になり、毒舌が混じる。
相手の機嫌を読み、欲しい言葉を選び、人格を最適化する必要が一切ないためだろう。
最も低コストな人格を、そのまま起動できるのは、俺の精神衛生上もいいのかもしれない。
「あー、クソ!今の確反あんのかよ!」
「あるに決まってんじゃん。何年このキャラ使ってんの?」
「うるせぇ、今手が滑ったんだよ。」
「汗の管理が出来ない雑魚おっつー!」
真冬はケラケラ笑いながら、容赦なく俺の体力ゲージを削り切った。
少しだけいる周囲のギャラリーからも、小さく笑い声が漏れる。
「なおき今日マジで反応終わってるじゃん。」
「寝不足なんだよ。」
「知らん。多忙社会人アピールうざ。」
「お前、同じカオカタ使いへの敬意とかないの?」
「格ゲーでリスペクトとか言い出した時点で負け。」
「クソ女が。」
「あ、効いてる効いてる。」
レバーを叩く音だけが、狭い対戦スペースへ乾いた連打音として響く。
真冬は負ければ「今の理性無きぶっぱじゃん!」と騒ぎ、勝てば子供みたいに笑う。
会話はほぼ煽り合いなのに、不思議と空気は軽かった。
すると、少し後ろ側でスマホを構えていた大学生くらいの男2人組の声が耳へ入る。
「え、あれなおまふじゃね?」
「マジ?動画のペアのやつ?」
「でも思ってたより殺伐としてるんだけどw」
「カップル勢かと思ったら、ガチ勢すぎて草。」
真冬がそれを聞いて吹き出した。
「なおき、ほら。もうバレてるじゃん。」
「だからオフは嫌なんだよ。こういうのあるし。カオカタ人口少ないし。」
「えー、面白いからいいじゃん。」
「会社に見つかったら終わる。」
「顔出てないし平気平気。」
全く危機感のない返答を聞くに、真冬自身は本当に何も考えていないのだと思う。
承認欲求で動画を上げているわけでも、恋人アピールをしたいわけでもない。
ただ、自分たちの対戦が面白かったから切り抜かれて、勝手にネットへ流れているだけ。
そして真冬も、その雑なノリを面白がっているだけだった。
一頻り戦った後、真冬と俺は一旦休憩のため、自販機コーナーに向かった。
「っていうかさ。今日このあとライブ行くんだけど、チケ余ってるから、なおき来る?」
「ライブ?」
「うん、推しドラマーのソロライブ。」
「ドラマーのソロライブって嘘だろ、聞いた事ねえよ。」
「えー!知らないのー?じゃあびびるよ?その凄さに。」
真冬はエナドリを飲みながら、少しまじめな顔で向き直った。
「でも直樹、今日なんか死にそうな顔してるし。音浴びた方が回復するっしょ。」
意味不明な理論過ぎて、普段の俺なら断っていたと思う。
だが、真冬といる時だけは、自分の脳内の管理システムの動きが緩慢になる気がする。
ただ、その瞬間に面白いと思うかどうかしか気にしていない自分が居る。
「……まぁ、話のネタになるし、行くだけ行く。」
「よっしゃ。じゃ、チケ代は直樹の奢りね。」
「何でだよ。」
「社会人だから。」
「理不尽すぎる。」
真冬は「じゃ、決まり」と笑いながら、そのまま俺の背中を強く叩いた。
少しひりひりするその雑な力加減が、俺にとっては不思議と不快じゃなかった。
「ほらいくよ!」と言う真冬の後を追って、俺たちはゲーセンを後にした。
ライブハウスへ向かう人混みの中を、真冬は迷いなく進んでいく。
縦に並んでいた後ろを追っていた俺は、真冬を見失わないように歩いていた時だった。
ポケットの中でスマホが短く震えたため、俺は何気なく画面を開いた。
<今、中野?>
真子からのメッセージを見た瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。
真冬が振り返ると、足を止めた俺のことを不思議そうに見ている。
「直樹どした?」
俺はスマホの画面消すのも忘れ、そのままポケットに突っ込んで小さく息を吐いた。
俺の脳内では、システム異常を知らせる警告音が、静かに鳴り始めていた。




