第34話「【黄】の癒し」
金曜の退勤後、俺は駅前の喧騒から少し離れたカフェのボックス席にいた。
睡眠時間は2時間も取れていない。
頭の奥には鈍い熱が残り、コーヒーを飲んでも意識が薄く霞んでいる。
それでも、俺は関係性管理業務のためここへ来ていた。
対面に座っているのは、大学時代の後輩である明日菜だ。
「直樹先輩、本当にありがとうございます!先輩に聞いてもらえて、大丈夫になりました!」
明日菜は研究室のM1の先輩への愚痴を一通り吐き出した後、安心したように肩の力を抜いた。
そして、そのまま縋るような視線をこちらへ向けてくる。
「私、直樹先輩のそういう、ちゃんと整理して話してくれるところ、本当にすごいと思います……先輩がいなかったら、私、普通に病んでました。」
「そこまでじゃないでしょ。」
「そこまでです。私、昔からすぐテンパるし……」
素直な明日菜は、そう言って困ったように笑う。
明日菜は俺のの言葉を疑わず、少し褒めれば嬉しそうに笑い、少し肯定すれば露骨に安心する。
だから扱いやすいし、頼られている感覚も強い。
簡単に言えば、男としての自尊心を高確率で満たしてくれる相手だ。
それに十分可愛いし、俺への好意も隠そうとしない上、身体が美しい。
この関係を切る理由は特になかった。
「大丈夫だよ、明日菜ちゃんは頑張ってる方だと思う。その先輩の言い方が悪いだけだから自信持って。」
そんな言葉を返すたび、明日菜の感情が少しずつ安定していくのが分かる。
だが同時に、俺の脳のリソースも削られていく。
相手の表情を読み、欲しい言葉を選び、安心させるという、明日菜のメンタル保守に近かった。
俺の頭はまたも、真冬なら、こんな工程は一切必要ないと思ってしまう。
放っておいても勝手にラーメン食って、ゲームして、笑っている。
その比較が脳裏を過った瞬間、俺は無意識に思考を止めた。
「……先輩?」
「あ、ごめん。ちょっと残業多くて寝不足で……」
「え、大丈夫ですか?」
明日菜が心配そうに身を乗り出すと、ふわりと甘い香水の匂いがした。
自分のために付けてくれたのだと解釈し、少し気分が良くなる。
「最近忙しいんですか?」
「まぁ、色々。」
「ちゃんと休んでくださいよ……。先輩、無理してそうだから心配です。」
その言葉を聞きながら、俺はぼんやりと思う。
5人の人間関係を処理しつつ仕事をやり、自分の生活もきちんと過ごす。
それら全部を同時並行で回しているのは、冷静に考えると、かなり異常だった。
「……先輩、ほんと顔やばいですよ?」
「そんな?」
「やばいです。目の下ちょっとクマあるし。」
明日菜はそう言うと、少し迷った後、小さく口を開いた。
「……あの、もし良かったらですけど。」
「ん?」
「私、マッサージ得意なんです。昔ちょっとだけリラクゼーションサロンでバイトしてて。」
「へぇ。」
「だから、その……お時間いただければ、癒しますので……その…」
最初に体を合わせた後、何度か行為に及んでいるのに、そのいじらしい言い方が可愛らしく、明日菜の表情は男に必要とされたい顔をしていた。
「明日、土曜でお休みですよね?」
「まぁ。」
「だったら、少しくらいゆっくりしても大丈夫じゃないですか?」
その明日菜の誘いにのり、気付けば、俺は明日菜の部屋へ来ていた。
相変わらず小奇麗にしており、今日は甘いアロマの香りがする。
キッチンから戻ってきた明日菜は、ハーブティーを手に持ち戻ってきた。
俺を癒すための空間を頑張って演出しているが、久美子ほどの重さは無く、俺の気分も次第に高揚していく。
「先輩、身体あっためた方がいいので、お風呂どうぞ。お湯張ってありますので。」
「……そうなんだ、じゃあ借りるね。」
「はい、ごゆっくり。…あ、オイルも使いますので、服は着なくて大丈夫ですから。」
久々に湯船に浸かった俺は、それだけで少し疲れが取れたような気がした。
身体を拭き、俺が腰にタオルだけ巻いた状態で部屋へ戻ると、明日菜はベッド脇へ座って待っていた。
「じゃあ、うつ伏せになってベッドに寝てください。」
明日菜に言われるまま寝ると、そのまま下半身にタオルがかけられた。
肩と首から始まった明日菜のオイルマッサージは、想像以上に手つきが上手かった。
電子レンジで温められたオイルが、肌の上でゆっくり伸ばされ、乾き切っていた筋肉が少しずつ解けていく。
指先だけではなく、手のひら全体で包み込むように圧を流されるたび、肩甲骨の奥に張り付いていた疲労が静かに剥がれていった。
「……先輩、肩すごい硬いです。」
「最近ずっとこんな感じ。」
「絶対無理しすぎですよ。」
明日菜はそう言いながら、首筋へゆっくりオイルを滑らせる。
その手つきは妙に丁寧で、俺の身体をちゃんとほぐして楽にしてあげたいという意識が強く感じられた。
さっきまで脳内を埋め尽くしていた仕事や人間関係のノイズが、少しずつ遠ざかっていく感覚があった。
「……先輩、ずっと力入ってますね。」
「仕事柄かな。」
「違います。多分、気を張りすぎてて、本当にリラックスした状態になれてないんですよ。私しかいなので、安心して力抜いて下さい。」
その言葉に、俺は少しだけ笑った。
ただ癒される側でいていいという空気が、異様に心地良かったためだ。
「先輩。」
「ん?」
「先輩はもっと、甘えていいんですよ?」
その瞬間、背中へ当たる柔らかい感触に、俺の思考が少し止まる。
顔を出来るだけ後ろにし、視線を背中側に向けると、明日菜の顔がすぐ近くまで距離を詰めていた。
「……私、先輩が無理してるの、結構分かりますよ?」
明日菜はそう言いながら、肩へ軽く体重を預けてくる。
その仕草には露骨な色気というより、頼ってほしいという感情の方が強く出ていた。
男に必要とされることで、自分の価値を確認したい女。
だから明日菜は、触れてくる指先にも、抱きついてくる身体にも、『尽くしたい』という感情がそのまま出る。
「今日は、いっぱい甘やかしますから。」
耳元でそう囁かれた瞬間、張り詰めていた緊張の糸が少しだけ切れた。
ただ、純粋に肯定して、必要としてくれるという分かりやすさが、今の俺には必要なんだと理解した。
明日菜の細い指が、俺の腕を滑り、手の甲へそっと重なる。
拒絶する理由を考えるより先に、俺はその手を握り返していた。
そのまま俺たちは、言葉を交わす回数も少ないまま、自然と身体を重ねていた。
明日菜は終始、こちらの反応を伺うように表情を揺らしながら、それでも嬉しそうに俺へ触れてくる。
まるで、「必要とされている自分」に安心しているみたいに。
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行為を終えた後、部屋の中には小さく流れ続けるアニメ映画のオルゴールアレンジだけが残っていた。
照明も落とされていて、部屋全体が妙に静かだ。
俺はベッドへ背中を預けたまま、ぼんやり天井を見上げる。
さっきまで身体を支配していた熱がゆっくり引いていき、代わりに重たい疲労感だけが浮かび上がってくる。
すると、隣にいた明日菜がそっと俺の腕へ抱きついてきた。
「……先輩、大丈夫ですか?」
「んー……」
俺には、すでにまともに返事をする気力もなかった。
明日菜はそんな俺の顔を覗き込むと、少し安心したように笑った。
「よかった。さっきより顔、ちゃんと力抜けてます。……飲み物、取ってきますね。」
そう言いながら明日菜は、指先で優しく俺の前髪を軽く整えて、裸のままベットを降りた。
戻ってくる明日菜の表情は、自分が必要とされたことだけで満足しているような笑顔があった。
「……どうぞ、飲むともっと身体楽になりますから。」
「ありがとう。」
明日菜からペットボトルを受け取り、そのまま口をつける。
「先輩、もっと頼ってくれていいのに。」
「十分頼ってる気がするけど。」
「まだ足りないです。」
明日菜はそう言って、小さく笑いながら俺の肩へ額を擦り寄せた。
その体温が、疲れ切った俺の脳へゆっくり染み込んでくる。
その傍ら俺の頭では、久美子、真子、明日菜、狩野、真冬に加えて同期連中の人間関係を処理しながら、仕事でも成果に向かって取り組んでいる状況を思い返していた。
全部を同時並行で回しているのは、冷静に考えるとかなり異常だった。
しかし、俺は不思議とやめる気にはなれない。
むしろ、複数の女から別々の種類の感情を供給され続けている今の状態に、俺は依存し始めていた。
その時、ベッド脇へ置いていたスマホが、短く震える。
画面に表示された名前を見て、俺は一瞬だけ思考を止めた。
<真冬:金曜だし通話しながら対戦する?>
その数秒後、さらに追加で通知が届く。
<狩野:来週火曜のテーマパーク、集合時間決めていい?>
そして、ほとんど間を置かず、もう1件。
<真子:今日、夜監視だる>
通知欄へ並んだ3人の名前を見つめながら、俺は無意識に乾いた笑みを漏らした。
脳が休まる暇がない。
それなのに、やはり全部を切り捨てる選択肢だけは、どうしても浮かばなかった。




