第33話「【赤】とパーカー」
もうすぐ定時というタイミングで、俺はスマホの通知欄をぼんやりと眺めていた。
未読のまま残り続けている、真子からの短いメッセージ。
<ひま?>
送られてきたのは、一昨日の深夜三時で、それ以来、真子から追加の連絡は来ていない。
だが逆に、その沈黙が気味悪かった。
同期の男の中で流れ始めた大会動画、首元の痕跡、狩野との距離感と、どんどん俺に関する何かが蔓延していく。
断片的な情報だけが少しずつ蓄積されていく中で、真子は何も言わない。
何を知って、何を思っているのか、全く分からない。
正直、真子と距離を置くべきなのは分かっていた。
だが、ゲームの話が噛み合い、会話のテンポが合い、何より身体の相性まで良い相手を、俺は簡単に切れなかった。
<今日、一時間くらい残業で上がれそう。うち来る?>
送信から十秒も経たず、既読が付く。
返ってきたのは、了承のスタンプだけだった。
そのスタンプ1つで、妙に安堵している自分がいた。
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深夜11時、夕飯を定食チェーンで適当に済ませ、3時間ぶっ通しでパズルゲームの対戦をしていた俺たちは一時休戦となった。
トイレから帰ってくると、画面が既に別のゲームに切り替わっている。
「直樹はこのシリーズの体験版やった?」
真子が浅く腰掛けながら、コントローラーを片手にこちらを見る。
画面には、高難易度ローグライクの新作体験版のタイトルロゴが表示されている。
真冬とやる格ゲーみたいな、反射神経と読みで押し通すゲームじゃない。
リソース管理と運がものをいう、ゆっくり頭を使うゲームだった。
「まだ。忙しくて触れてない。」
「ふーん。直樹すぐに飛びつきそうなのに。」
真子はそう言いながら、勝手にニューゲームを押した。
変更されたシステムを読まなくても、どういうルートを選び、どのビルドが強く、どこでリスクを切るべきかが、真子とは感覚が噛み合う。
「そこ、回復温存した方がいい。」
「うん。分かってる。」
「……いや今の、わざと被弾してない?」
「この後、痛み分けの杖で削るから。」
「あー、なるほど。」
説明が短く済むのは思考回路が近いことの証明で、だから一緒にいて疲れない。
疲れるけども疲れているように感じない、というのが正確か。
真冬といる時みたいに、頭を空っぽにはできない。
真子といると、脳がずっと緊張している。
何を考えているのか読めないし、どうしてどこまで観測されているのか分からない。
なのに、身じろぎするたびに肩が触れ、薄手のニット越しに伝わる体温を感じ、ゲームに集中して少しだけ無防備になる横顔に信頼を感じる。
そういう部分を認識するたび、俺の意識はゲームより真子の方へ引っ張られていく。
心底、真子の事が可愛いと思った。
触れても自分のものになった感覚がなく、欲望を満たすほど、逆に遠さだけが浮き彫りになる。
何度触れても、所有欲の飢餓感だけが最後まで残る。
だから真子は可愛いのだろう。
真子は、同期の中でも頭1つ抜けて整った顔立ちをしていて、どこか猫を思わせる瞳には、男の本能を揺さぶる独特の色がある。
付き合っているわけでもないのに、こうして深夜に身体を重ねる関係性には、強烈な刺激と中毒性があった。
だが、頭が全く休まらない。
真子は手元のスマートフォンをいじりながら、何の前触れもなく、俺の首元へ視線を走らせる。
昼間、狩野のコンシーラーを借りた場所だ。
「直樹、なんか首のところファンデ塗ってない?」
心臓が嫌な音を立てて跳ねたが、俺は極めて自然な動作を装い、視線をテレビ画面に向けた。
「いや、今朝ひげ剃り負けしてさ。みっともないって狩野が貸してくれただけ。」
「ふーん……」
真子がそれ以上何も追及してこないため、逆に俺の脳内は酷使させられる。
真子の脳内で、今どんな発言として汲み取られ、何を思っているのかを裏読みしなければならないからだ。
そのまま体験版だけをひたすら2時間続けた頃、真子がコントローラーを置いた。
「……あっつ、なんか冷たくて甘いの飲みたい。」
「ドクペは無いぞ。」
「じゃあビニコン行く。」
真子はそう呟くと、ソファから立ち上がり、何の躊躇もなく身につけていた衣服を脱ぎ捨てた。
下着姿の細すぎる身体が、部屋の白い照明へそのまま晒される。
そのまま真子は、俺のクローゼットから勝手に引っ張り出した薄手の黒いパーカーを頭から被った。
裾は太ももの中程までしかなく、少し動くだけで下着の存在が危うくなる。
「……お前、その格好でコンビニ行く気か?」
「ビニコンくらい平気でしょ。」
真子は眠そうな顔のまま、スマホと財布だけ持って玄関へ向かう。
その後ろ姿を見ながら、俺は無意識に息を止めていた。
薄いパーカー越しに浮き出る肩の線、折れそうな腰、妙に細い脚、そして裾からちらりと見えそうになるその危うさが、どうしようもなく目を引く。
外に出て歩きながらも、真子の裾が気になって仕方がない。
「そういやお前、それ下履いてないだろ。」
「履いてる。」
「確認させろ。」
「きも。」
真子は振り返りもせず、淡々と返す。
真子の無防備さが気味悪いくらい自然で、だからこそ、俺の情欲は簡単に刺激される。
コンビニ前の自販機の灯りが、俺たちを白く照らす瞬間、真子が不意に笑った。
「そういえば大学の時、元カレに似たようなことされたな。」
「……何が。」
「夜中にコンビニ行くぞって。」
真子はアイスのケースを眺めながら、どうでもよさそうに続ける。
「ヤった後、そのまま大きいTシャツだけ着せられて外連れ出された。」
「……は?」
「しかも白だったから透けるかと思って、焦ったなー。」
「いや、そういう問題じゃなくて。」
「でもちょっと面白かったよ。通行人めっちゃ見てたし。」
真子が悪びれもせず笑う姿を見て、俺の胸の奥が妙にざわついた。
真子には入社してから別れた彼氏が居たたことくらい、当たり前に理解している。
身体の関係も俺が最初なわけがないってことは、理性では分かっている。
なのに、今こうして、俺の服を着て俺の隣を歩いている真子から、他の男の痕跡が急に立ち上がってきたことが、異様に気に入らなかった。
「直樹、顔怖っ。」
「別に。」
「へー、嫉妬?」
「してない。」
「へー。」
面白そうに笑う真子の笑顔が、俺にとってはまた腹立たしかった。
部屋へ戻った後、俺はすぐに真子をソファへ押し倒していた。
真子は抵抗もせず、ただ細い指で俺の首筋へ触れる。
「……直樹、今日なんか変。さっきの話で興奮しちゃった?」
「うるさい。」
噛みつくみたいに唇を重ねると、真子は少しだけ目を細めた。
その余裕とに満ちた表情が、余計に俺の神経を逆撫でし、俺は自分の欲求をそのまま真子の身体にぶつけた。
それも、制御をせずに、暴力的なまでに。
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真子と身体を重ねた後、気付けば時刻は深夜2時を回っていた。
帰るタイミングを失ったまま、真子は俺のベッドへ勝手に潜り込み、俺も特に追い出す理由を見つけられなかった。
「……直樹、そっち暑い。」
「お前がくっついてくるからだろ。」
「んー?」
真子は適当に返事をすると、そのまま俺の腕を枕代わりにして目を閉じた。
付き合っているわけでも、恋人らしい会話をするわけでもないのに、同じベッドで眠っている時間だけは、2人での生活という感覚があった。
真子が寝息を立て始めたことが分かる。
しかし、それを聞いてもなお、俺の脳は完全には休まらない。
真子は今何を考え、俺の首元のキスマークをどこまで察していて、同期の中で流れ始めた断片的な噂を、どこまで拾っているのか。
隣で寝息を立てる細い身体を抱き寄せながらも、頭のどこかではずっと警戒が続いていた。
それでも、真子の身体は柔らかく、軽く、妙に抱き心地が良い。
細い肩へ触れるたび、守りたいのか、壊したいのか、飼育したいのか、所有されたいのか、自分でも分からない感情が湧き上がる。
結局、俺の瞼が重くなったのは、空が明るくなり始めた時だった。
しかし、真子のスマホのアラーム音で微睡みかけた俺を覚醒させた。
薄暗い部屋の中、真子がベッドの上で気だるそうに起き、髪をかき上げていた。
スマホを確認すると、時刻は5時15分。
「……今日、夜監視当番だった。」
「は?」
「着替えとタオル持ってかなきゃ。いったん帰る。」
真子は眠そうな顔のままそう呟き、床へ落ちていた下着とスカートを拾いなが着始める。
「今から帰るのかよ。」
「始発二本目くらいなら、まだ人少ないし。隣駅だし。」
そう言いながら、真子はインナーとトップスを雑に鞄に詰め込み、昨夜コンビニへ行った時と同じ俺の黒いパーカーを被った。
「これ借りんね。」
俺が回答する前に、真子はそのまま玄関で靴を履き始めた。
「直樹、今日絶対寝不足じゃん。」
「お前のせいだろ。」
「ふふ。」
真子は少しだけ笑うと、そのまま何事もなかったみたいに部屋を出ていった。
ドアが閉まった後、部屋には一気に静寂だけが残る。
俺はベッドへ倒れ込みながら、重い頭で天井を見上げた。
性的には満たされているはずなのに、脳の疲労感だけが異様に残っている。
真子といると、常に神経が休まらない。
何気ない一言だけで、脳が勝手に裏読みを始める。
この視線の意味は何だろうかとか、あの沈黙の意図はどうなんだろうかとか、考え始めると止まらない。
それでも、ゲームの話が噛み合い、夜中にコンビニへ行き、同じベッドで雑に眠る時間は、どうしようもなく心地良かった。
面倒で、怖くて、可愛くて、何度触れても所有できた感覚が残らない。
真子はそういう女だった。
だから余計に疲れる。
俺は重たい瞼を閉じながら、ふと真冬の顔を思い出す。
あの派手な髪色の女と格ゲーを叩き、朝まで騒ぎ、安いラーメンをすすっている時だけは、この観測されている感覚が綺麗に消えていた。
真冬は、何も確認してこないし、整合性も必要ない。
ただゲームをして、笑って、腹が減ったと言う。
以前は真子に感じていた楽さは、真冬の雑さの方が心地良いと感じているのかもしれない。
俺のスマホが短く震え、また誰かから通知が来ていたことが分かる。
だが俺は画面を見る気力もないまま、そのまま浅い眠りへ沈んでいった。
出勤準備まで僅かな休息を、身体が欲していたのだ。




