第32話「【緑】の気遣い」
翌朝、久美子は朝に資格の勉強会があると言って、先に俺の家を出た。
俺は、そこから少し時間を空けて家を出た。
歩きながら、スマートフォンの画面を鏡代わりにし、何度も自分の首元を確認していた。
さらに町中で反射する自分の姿が映るたび、顎を引き、角度を変えて凝視する。
首元の赤みはほとんど消え、注意深く見なければ分からない程度の薄さになっている。
大丈夫だという根拠の薄い確信が先に立ち、俺は珍しく発覚時の整合性を組み立てようとしなかった。
以前なら、虫刺され、髭剃り負け、湿疹等、最低でも3種類は逃げ道を準備していたはずなのに。
昨日肌を重ねた久美子に指摘されない以上、これを指摘する者はいないという考えもあったのかもしれない。
オフィスに入り、自席へ鞄を置いてPCを立ち上げる。
俺の席は、狩野の島の隣にあり、狩野のキーボードを叩く規則的な音が、パーテーション越しに微かに聞こえていた。
午前中のルーティンワークをこなしていると、背後から「佐藤。」と声が掛かった。
「これ、新人向けの情セキュ資料。eラーニングで来てるから目通して、アンケート回答して。後、やってないの私と佐藤だけだって。」
「あ、悪い。ありがとう。」
振り返りながらお礼を言った瞬間、狩野の動きがピタリと止まった。
少し屈んでいた狩野の眼鏡の向こうが、わずかに曇る。
その視線を追うと、俺の首元へ真っ直ぐ向いて固定されていた。
ほんの一瞬の沈黙の後、狩野の瞳に浮かんだのは、怒りや嫉妬といった感情ではなかった。
「……佐藤、……それ、もう少しちゃんと隠した方がよくない?」
狩野は声を潜め、事務的なトーンで淡々と言った。
「え?」
「いや、別に私から何か聞くつもりはないけど。このオフィスの照明明るいから、光の加減で普通に見えると思うよ。特に上司から覗き込まれた時とか。」
狩野の指摘は、プライベートの追及ではなく、社会人としての常識としてのものだった。
だからこそ、俺は責められているという恐怖を感じる代わりに、どこか奇妙な安心感を覚えてしまっていた。
「……そんなに目立つか?」
「首を動かした時に、明らかに赤いし、位置が位置だからね。まったく……」
狩野は小さく溜息をつくと、机の引き出しから小さな化粧ポーチを取り出した。
その中から、スティック状の小さな容器を1本抜き出し、俺の手へ滑らせてくる。
「これ、使いなよ。マットタイプだから男の人の肌でも馴染みやすいし、ヨレにくいから。」
狩野は、誰とも彼女とも聞かず、ただそこに問題がある状態だけを認識し、処理方法を提示してきた。
「悪い、助かる……」
「別に佐藤の私生活はどうでもいいけど、そういうのって地味に印象悪いから。特にうちの部署、変なところ見てる人多いし。」
そう言って、狩野は俺の首元の角度を確かめるように、少しだけ顔を近づけてきた。
「もう少し右。……そう、そこ。そこに薄く叩き込むように塗って。」
狩野が俺の首元を覗き込むたび、狩野の髪が肩へ触れそうな距離まで近づく。
傍から見れば、仕事中の同期というより、恋人同士の内緒話に近かったかもしれない。
だが、狩野本人にはそんな自覚は毛頭なく、同期に世話を焼いているだけの温度感だった。
「ありがとな、狩野。」
「終わったら返してね。後、感謝なら言葉じゃなくて、無糖のレモン炭酸水でよろしく。」
狩野はそう言って、何事もなかったように自席へと向き直った。
俺は彼女から渡されたコンシーラーを手に取り、言われた通りに塗り直す。
フロアの向こう側、複合機の前で資料を仕分けしていた同期の男が、一瞬だけこちらへ視線を向けたことに気付く。
だが、すぐに何か思い出したようにスマホを確認し、そのまま複合機へ向き直った。
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昼休み。食堂の混雑を避け、自席でコンビニ弁当を食べていると、同期の男たちのグループLINEが再び騒がしくなり始めた。
スマホのバイブレーションが立て続けに鳴る。
煩わしさを感じながら画面を開くと、昨日貼られていたものとは別のリンクが投稿されていた。
今回は動画配信サイトのショート動画だった。
<おい、昨日の格ゲーのやつ、別の切り抜き上がってんだけどw>
<見た。ちょっと画角違うなこれ>
投稿された十五秒ほどの動画を開く。
昨日よりも少し引いた画角で、プレイヤー席周辺まで映り込んでいた。
そして、画面下部にはプレイヤーネーム<まふゆ&なおき>が表示されている。
実況の音声も、以前より鮮明だった。
『さあ、なおき選手!ここでコマンド投げを通したー!』
『隣のまふゆ選手も大興奮!』
リセットが決まった瞬間、派手髪の女が『なおきー!』と叫びながら男へ抱きつく。
動画の画質自体は荒く、まだ顔までは判別できない。
だが、髪型、体格、猫背気味の姿勢、使っているキャラクター等の断片的な情報だけが、妙に俺であるという現実感を与えていた。
<あー、これ確かに佐藤っぽいわw>
<使用キャラも佐藤のスマホケースのやつじゃね?>
<名前なおきだしなw>
<でも顔全然分からんくね?>
<まあ似てる人かもしれんけど、妙にリアルなんだよな>
<てか隣の派手髪の子、めっちゃテンション高いなw>
<格ゲーやってる女ってこんな距離感近いもんなの?w>
<格ゲー界隈よく知らんけど、普通に仲良さそうではある>
<いやでも佐藤って、古見さんと付き合ってんじゃないん?真逆タイプすぎん?>
<逆にああいうギャル系好きなオタクも結構いるぞw>
<佐藤本人だったら反応しそうだけどなw>
<まあでもこの子普通に可愛い>
<スタイル良さそうすぎてうらやましい>
同期たちの空気は、まだ完全に雑談だった。
誰も本気で追及しているわけじゃない。
ただ、同期っぽい奴が大会配信に映っている状況を面白がっているだけだ。
以前の俺なら、この時点でアリバイを組み立てていたかもしれない。
一度だけ、俺は返信欄を開いた。
<いや、別人だろ。>とそこまで打ち込み、指が止まる。
わざわざ否定する方が、不自然な気がした。
そんな風に、自分に都合のいい理屈を並べ、今はノイズとして流れるのを待った方が合理的だと判断する。
俺はスマホを伏せ、真冬とただゲームをして騒いでいただけの時間を思い出す。
あの感覚を知ってしまったせいで、俺の危機管理は少しずつ鈍り始めていた。




