第31話「【青】の整備」
遠くで聞こえる波の音が、いつものアラームに遮られ、ぼんやりと俺の意識が浮上する。
隣では、紫混じりの派手な髪を乱した真冬が、眠そうに目を細めながらスマホの画面をタップしていた。
「ん……朝?…なおき、起きた?」
真冬が寝返りを打ち、細い腕を俺の首元に伸ばしてくる。
その指先が、鎖骨の少し上の皮膚に触れた瞬間、真冬が小さく吹き出した。
「うわ、ちょっと付いてる。わりと綺麗に残っちゃったねー。」
そう言われて、俺はベッドから抜け出し洗面台の鏡の前に立つ。
横を向きながら確認すると、首筋にうっすらと赤い痕跡が浮かび上がっていた。
普段の俺なら、間違いなくパニックを起こしていただろ。
久美子に見られたらどう言い訳するか、会社で誰かに聞かれたらどう整合性を保つか等、脳内フル回転で考えていただろう。
だが、不思議と焦りはなく、昨日の興奮によりシャットダウンしたような心地いい思考停止が、まだ体の中に残っている。
バレなければいいかという、投げやりで危険な思考が、すんなりと俺の脳内に定着した。
「……絆創膏だと逆に目立つか。」
「あはは、隠す気満々じゃん。コンシーラー貸そうか?」
真冬はベッドに寝転んだまま、けらけらと笑う。
「会社勤めって大変だねー。色々と取り繕わなきゃいけなくて。」
悪意もなく、危機感も皆無な真冬の軽さが、今の俺には救い感じる。
真冬の前では、俺は管理者である必要がない。
ただのエラーを、エラーのまま放置しても許される場所だった。
ホテルを出て、朝の光に晒された瞬間、ポケットの中のスマホが連続して震えた。
その振動によって、俺は一気に現実へ引き戻される。
画面ロックを解除すると、通知の一覧がディスプレイを埋め尽くしていた。
<久美子:直樹くんおはよー!来週の映画、本当に楽しみだね!>
<狩野:インパ日程だけど、平日休み合わせて取る方向でどうかな?その方が空いてるし。>
<明日菜:先輩の指摘、やっぱり納得いかなくて……。助けてください。>
そして、真子の欄だけは、夜中の3時に着たシンプルなメッセージで静止している。
<真子:ひま?>
それが、逆に喉元に刃を突きつけられているようで気味が悪い。
「なおき、お腹空いた。朝らー行こ、朝らー。」
隣を歩く真冬が、俺の袖を引っ張る。
「ああ、いいよ。」
俺は生返事をしながら、歩く歩幅を真冬に合わせ、片手でスマホの通知を処理していく。
久美子には安心感を与える温度のスタンプを返し、狩野には仕事の予定を鑑みた合理的な日程を提案し、明日菜には適度な技術的アドバイスと会えそうな時間を打ち込む。
相手ごとに異なる返信速度、文面のテンション、時間整合性を計算しながら、最適な出力を返していく。
前のような全能感に似た感覚はあったが、その頃に感じていた純粋な快感は、徐々に少なくなっていた。
駅前の朝からやってるラーメン屋に入り、真冬は慣れた手つきで店内右手にある券売機で食券を買った。
俺はそれを見真似て食券を買い席に着くと、真冬はまたスマホを見て笑い出した。
「見て見て、直樹。配信コメント、アーカイブになっても『なおまふ派』とか言ってるやつまだ増えてるよ!」
「だから読むなって」
「えー、面白いじゃん。ほら、この切り抜き動画、もう5万再生いきそうだよ?私たちのGFのラストのやつ!」
真冬が差し出してきた画面には、リセットを掛けて勝った瞬間に俺に飛びついてきた真冬の姿が、鮮明な画質で何度もループ再生されていた。
ネットの海でコンテンツとして注目されるのは、不思議と悪い気がしなかった。
「ねえ、次の大会も出ようよ。今度はもっとちゃんと練習して、また配信台乗りたいなー。」
「また出るのかよ。」
「当然。オフだとタッグ大会は多めだしね!…あ、いっそのこと、ペア固定にしちゃう?その方がお互いの癖も分かって勝てるでしょ。」
真冬はが無邪気に笑いながら言った『ペア固定』という言葉の響きは、一見すると恋人のようだった。
だが、真冬の表情から察するに、ただ純粋に、ゲームの相方として効率がいいから言っているだけだ。
人目に付くリスクは跳ね上がるが、恋愛感情という負債を一切背負わなくていい。
そんな甘い誘惑に、俺の警戒システムは正常に作動しなかった。
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その日の夜、俺の部屋には久美子が来ていた。
テーブルの上には、途中で買ってきたコンビニのスイーツと、久美子が作ってきた小さなタッパーが並んでいる。
「最近ちゃんと野菜食べてないでしょ?」
「……まあ、食堂とか外食多いね。」
「やっぱり。」と、久美子は少し得意げに笑いながら、キッチンへ向かう。
その後ろ姿を見ながら、俺はソファへ深く身体を沈めた。
「冷蔵庫に減塩のめんつゆと、健康にいいドレッシング入れておくから、1人の時も野菜パックとか買ってかけて食べてね。」
そう言う久美子が前より、少し痩せたのは俺でも分かる。
頬周りも少しすっきりして、髪型やメイクも以前より洗練されている。
俺が無意識に細身の女へ視線を向けていることを、久美子なりに感じ取って変わろうとしているのだろうか。
健気で真っ当でちゃんとした恋人、だからこそ、重い。
昨夜、真冬と朝まで騒いでいた時みたいな、頭が空になるほど熱中する感覚はどこにも無かった。
「直樹くん?」
気づけば、久美子が不思議そうに俺を見ていた。
「なんか今日、ぼーっとしてる?」
「ちょっと寝不足。」
「まだ忙しい?」
「まあ、それなりにかな。」
これは業務的にも私的にも嘘ではない。
実際、仕事はブラック部署で厳しく、プライベートは常に誰かの通知を処理し続けているせいで、脳は休まっていなかった。
久美子は俺の隣へ座ると小さく身体を寄せ、そのまま自然に肩へ頭を預けてきた。
「ねえ。」
「ん?」
「最近の直樹くん、なんか少し変わった気がするな。」
一瞬だけ、疑念を抱かれたと恐れ心臓が跳ねた。
しかし、久美子の声に疑いの色は無かった。
「前より、ちょっと柔らかい。」
「……柔らかい?」
「うん。なんか最近、仕事モードのまま喋ってる感じが減ったなーって。」
思考停止する時間が増えた影響だろうか、以前みたいに、常時自分のテンション管理をしている感覚が薄れているのは確かだった。
「疲れて、力抜けてるだけだよ。」
「ふふ、それならいいけど。」
久美子の柔らかい髪が首筋へ触れそうになり、俺は無意識に真冬のコンシーラーで隠した場所を意識していた。
久美子は何も気付かないまま、自然に唇を重ねてくる。
俺も出来るだけ彼氏らしく見えるよう、久美子の背中を優しく撫でた。
久美子は少し嬉しそうに目を細め、そのまま俺の胸へ身体を預けてくる。
「……今日の直樹くん、なんか甘い。」
「そうか?」
「うん。ちょっと珍しい。……あと、嬉しい。」
その瞬間、テーブルに置いたスマホが、無音で短く震えた。
俺は反射的に視線を向ける。
「……久美子、先シャワー浴びてくれば?」
「え、直樹くんは?」
「俺ちょっとだけ仕事の通知返す。」
「そっか。更改と新規を並行でやってる部署だもんね。……じゃあ先入ってくるね。」
久美子は疑う様子もなく立ち上がり、着替えを持って洗面所へ向かった。
浴室のドアが閉まる音を確認してから、俺はスマホを手に取る。
通知が来ていたのあは、同期男だけのLINEグループだった。
数時間前のログで俺の指が凍り付く。
同期の男が、1つの昨日の大会の切り抜き動画を張っていた。
<これ、佐藤にめちゃくちゃ似てね?w>
<あー、直樹の方の佐藤?ちょっと分かるわw>
<髪型と猫背感それっぽいな>
<隣の女、彼女?>
<いや古見さんじゃなくね?>
<てかむしろ真逆のタイプじゃね? 佐藤って清楚系のぽちゃ好きでしょ>
<でもこの派手髪の女めっちゃ可愛くない?普通に抱きたいんだけど>
<顔ぼやけてるけど、細くてスタイル良さそうではあるw>
<これ抱き着いてるし、普通にヤッてる距離w>
<ってか、佐藤って古見さんと付き合ってんの?>
実写部分は配信画面の端へ小さく抜かれているだけで、画質も荒いから顔までは判別できない。
まだ誰も確信していない。
ただ、佐藤っぽい格ゲーマーという曖昧な印象だけが、同期ネットワークの中へ静かに保存され始めている。
俺は画面を閉じながら無意識に首元へ触れると、昼に隠したはずの場所が、まだ微かに熱を持っていた。
その熱を隠すよう首に手を当てた時、浴室のドアが開く音がした。
久美子は少しだけ火照った頬のまま、タオルで髪を拭きながら部屋へ戻ってくる。
「お待たせー。」
「ん。」
俺はスマホを伏せ、ソファから立ち上がった。
久美子はそのまま自然に俺の胸へ身体を預けてくる。
風呂上がりの柔らかい匂いと体温を受け止めながら、俺は静かに久美子の髪へ触れた。
「……直樹くん。」
「ん?」
「今日、本当にいつもより優しいね。」
少し照れたように笑う久美子を見て、俺は曖昧に笑い返す。
本来なら、この安心した表情を見るだけで満たされるべきなのかもしれない。
だが今の俺は、どちらかと言えば、久美子の不安値が下がっていることに安堵していた。
俺はそのまま久美子の腰を抱き寄せ、ゆっくりベッドへ倒れ込む。
久美子は小さく笑いながら、抵抗もなく俺の首へ腕を回した。
「……今日は、ちゃんと私を見てくれてる気がする。」
その言葉に、一瞬だけ動きが止まりそうになる。
だが俺は、その違和感ごと押し流すように、久美子へ深く口付けた。
薄暗い部屋の中、エアコンの音だけが静かに響く。
久美子は嬉しそうに何度も俺の名前を呼び、その度に、俺は恋人として正しい反応を返し続けた。
それは愛情というより、崩れかけた均衡を維持するための、静かなメンテナンス作業に近かった。




