第3話「【青】への言い訳」
研修に向かう電車の中で、俺は自分の中の倫理観を再構築し始めた。
浮気と世間は呼ぶだろうが、その定義は本当に当て嵌まるのだろうか。
恋愛というよりはラフで、同期というには密である。
それに久美子との失敗は、環境要因なのか、それとも俺たちの相性の問題なのか。
真子であっさり成功したのは、俺に欠陥があるわけじゃないことの証明にならないのだろうか。
真子と出来たということは、久美子側に欠陥があるという事なのではないだろうか。
俺は、そういうことにしておきたかった。
これは不誠実ではなく、久美子との関係を分析するために必要な、プロセスの一部だ。
研修室に着くころには、俺の理屈は少なくとも今は破綻してないと思っていた。
「おはよう。」
俺が部屋に入ると、久美子が視界に入った。
狩野里香と話していた久美子は、俺に気づくとすぐさま会話を終わらせた。
久美子は小走りで俺の前に来ると、少し息を弾ませながら顔を覗き込んできた。
「直樹くん、大丈夫?土日、全然連絡来なくて心配したよ……」
「あー、ごめん。飲み過ぎてそのまま寝てて、二日酔いで体調よく無くてさ……」
出来るだけ軽く、事実のように聞こえるテンションで返す。
久美子は一瞬だけ目を伏せ、それからほっとしたように笑った。
「そっか……心配したけど、大事じゃ無くてよかった。体調はもう大丈夫?」
久美子の心配という言葉が、妙に重く残る。
「ごめんごめん。今度からちゃんと連絡するね。」
「うん……でも、無理しなくていいからね?」
無理という言葉に一瞬だけ引っかかるのは、面倒だからか、罪悪感からか。
「…今日、終わったら一緒に帰れる?」
久美子は少しだけ遠慮がちに、だが確かめるように言った。
逃げ道を塞ぐ聞き方に、心の中でため息が出た。
「……ああ、いいよ。今日は特に予定もないし。」
口にした瞬間、スケジュールが頭の中で再計算される。
「ほんと?よかった……」と、久美子は嬉しそうに笑った。
その表情を見て、俺の胸の奥にわずかな違和感が生まれる。
嬉しそうであればあるほど、負債が増える気がする。
「じゃあ、帰りにどっか寄る?この前の続き、ちゃんと……その……」
言葉を濁しながらも、久美子は俺の顔から視線を逸らす。
あの夜のやり直しを指しているのは明らかだった。
「……まあ、その辺は帰りながら決めよう。」
俺が曖昧に濁すと、久美子は「うん。」と、それ以上踏み込まず、小さく頷いた。
その距離感が、逆にこちらの自由度を奪っていることに、久美子は気づいているのだろうか。
ふと、視界の端に気配を感じる。
斜め後ろの少し離れた席で、同期と会話している真子がこちらを一瞬だけ見ていた。
だが、目が合う直前に、何事もなかったかのように視線を外し、再び同期と笑いながらスマホを見せ合っている。
観察しているのか、ただ視界に入っただけなのか判別がつかない。
少なくとも、俺と久美子を気にしている様子は一切ない。
俺がその温度差に引っかかった瞬間、同期の声が割り込んだ。
「朝からいちゃいちゃ話してー、今夜のデートの約束か?」
「まぁ、そんなとこ。じゃあ、また後で。」
「うん。直樹くん。……あとでね。」
久美子はそう言って、自分の席へ戻っていった。
残ったのは、ほんの少しだけ息苦しい空気と、説明のつかない微細な違和感だった。
研修が始まると、必然的に真子との会話が増える。
真子はあの日のことなどなかったかのように振る舞った。
「あ、佐藤くん。ここ、前に教えてくれたやつでいけるよね?」
いたずらっぽく笑う真子の言葉が、秘密を共有しているスリルとともに、胸に響く。
真子は俺に何も求めず、ただ今の瞬間の楽しさだけを共有する。
責任が発生しない関係の、なんと合理的なことか。
俺は楽に満たされるその海に、今夜も溺れたくて仕方なかった。
そして、出来れば今日の研修は終わって欲しくないとすら、思ってしまっていた。
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駅から家に着くまでのファミレスで久美子と食事をして、なんて事はない会話をしながら部屋についた。
俺の部屋に入ると、久美子は少し緊張した様子で鞄を置いた。
お互いに入浴を済ませ、俺が淹れた紅茶を飲み始めた時だった。
「今日ね、ちょっと調べてきたんだ。」
「調べた?」
「その……リラックスできる方法とか。あと、痛くならないようにするコツとか……」
久美子がそう言ってスマホのメモを開きながら、ぎこちなく笑う。
俺が真子と過ごしている間、真面目に努力をしていた事実が摘示され、少しだけ居心地が悪くなる。
「……そっか。無理しなくていいからね。今日は、ゆっくりでいいから。」
俺が適当に返事をすると、久美子が恐る恐る距離を詰めてくる。
その慎重さが、逆に俺の意識を削いでいく。
そのまま久美子が差し出した唇に、俺はそっと唇をつける。
腫れ物を触る様に久美子の服を脱がそうとすると、久美子は「電気…消して欲しいな……」と顔を赤くしながら言った。
真子ならそんな事は言わないのに、と心の中で思い、俺は電気を消して再び久美子に向き直った。
結果は、同じだった。
またも途中で止まり、気まずい沈黙が落ちる。
「……ごめんね。」
先に口を開いたのは、久美子だった。
「やっぱり、まだ痛くて……でも、直樹くんのこと、ちゃんと応えたいって思ってて……」
久美子が必死に言葉を選んでいるのが分かるが、その一つ一つが、俺の温度をさらに下げていく。
真子だったら今頃終えて、ゲームで遊び始めてるころだろうか。
「……いや、頑張ろうとしないで。リラックスリラックス、無理は良くないよ。」
俺はそれだけ言って、天井を見た。
改善しようとしているのは分かるが、結果に繋がらないのは意味がないし、時間の無駄だ。
その一言で、俺の中では評価が終わっていた。
「本当は…痛いだけじゃなくて……」
隣で、小さく鼻をすする音がした気がする。
気のせいだと結論付けた俺は、この晩、久美子にそれ以上の言葉はかけなかった。




