第2話「【赤】とコンビニ」
翌朝カーテンの隙間から、容赦ない春の陽光が差し込む。
俺の隣では、慎ましい胸も隠さず、真子が大きなあくびをして、スマホの画面をぼんやり眺めていた。
「おはよー……。直樹、お腹空いた。コンビニでも行かん?」
あっけらかんと全裸でそう言う真子に、俺は欲情しながらも、少し救われた。
シーツの乱れも、昨夜の熱量も、彼女にとってはただの出来事に過ぎないらしい。
もしこれが久美子だったらと、俺の脳内で顔が浮かぶ。
『昨日はあんなに頑張ってくれたのに、ごめんね』と泣くか、あるいは『私たち、もう運命だね』と重たい愛を誓っていただろう。
「……おう。適当に何か買いに行くか。」
責任がなく、期待もなく、そこにあるのは、ただ快感が成功したという結果だけだ。
真子の裸を見て朝から元気になっている俺の中心を少し気恥ずかしか思いながら、俺は身体を起こした。
「あ、シャワってない。2人で浴びた方が早いかー。直樹いこ。」
「えっ、あー、行く行く。さっさと浴びよっか。」
真子のスレンダーで白い背中を見ながら、俺は人生で初めて女性とシャワーを浴びた。
---
真子が簡単に化粧をしている間、スマホを開くと、通知欄が久美子からの長文で埋まっていた。
昨日の夜、俺が真子の身体を貪っていた間、久美子は懸命に『僕たちの失敗』を分析し、励まそうとしていた。
<直樹くん、返信ないけど本当に大丈夫?潰れちゃってる?次は私がもっとリラックスできるように準備しておくから。大好きだよ>
一文字ずつが、鉛のような重さで胃に沈む。
悪いことをしたという自覚はある。
だが、それ以上にこの期待に応えるのは、今の俺にはコストが高すぎるという計算が働いてしまう。
久美子の愛では俺の欲望は満たせず、その愛は返済の目処が立たない負債だ。
「おっけー、準備できたー。」
真子の声が聞こえ、俺はそこで思考を切った。
近くのコンビニまで歩きながら、俺は何とも言えない優越感に溢れていた。
隣には、俺の服を着た自分好みの真子が居て、時折けらけらと笑っている。
すれ違う通行人には、間違い無くカップルに見えているだろう。
つい数時間前まで裸で絡み合っていた事実が何度も頭をよぎり、まるで全てが思い通りになったかの様な全能感を覚えた。
コンビニに着いた途端、真子はいきなり走り出し、笑顔でホットスナックを指さした。
「ねー、こういうの食べたくならん?」
肌の白さと身体の華奢さから、実年齢より幼く見える真子。
昨晩の淫靡な姿とはかけ離れた、少女の様な行動のギャップに、俺は心を奪われた。
「分かる。昼前だし欲しくなるよなー。」
俺が適当に返すと真子は、スイーツコーナーで手に取ったプリンを掲げる。
「これ、めっちゃうまいやーつ!買お買お!」
「分かる。糖分欲しくなるよな。」
「でしょー。あとドクペ!眠いし!」
他愛もない会話の中では、昨日のことを特別視する様子は一切ない。
恋人でもなく、ただ昨日一緒にゲームをしていた時の延長のような距離感。
この距離感がすごく楽だ。
久美子といるときに感じていた、『相手を尊重する』だとか『気持ちに何かを返さなければいけない』という圧力が、ここには存在しない。
レジで会計を済ませ、ビニール袋を片手にぶら下げて部屋へ戻る。
真子が「ゴチでーす!」と言いながら、ドクターペッパーを音を立てて開けた。
嬉しそうに喉を鳴らす真子を見た瞬間、左のポケットのスマホが震えた気がした。
誰にも見られていないはずなのに、なぜか少しだけ周囲を確認してしまう自分に気づく。
だが、その違和感もすぐに消えた。
---
部屋に戻ると、真子は靴を脱ぐなりそのままベッドに倒れ込んだ。
「やっぱ家が一番だー!」
「さっき出たばっかだし、俺の家だろ。」
俺は軽く笑いながら、袋をテーブルに置く。
コーヒーを一口飲むと、視界の端に無防備に横たわる真子の細くて白い脚が見える。
視線が自然とそこに引き寄せられ、真子には大きすぎるハーフパンツの隙間から、昨日と同じ色の下着が覗く。
「……なにー?」
「……いや、別に。」
真子と目が合い数秒の沈黙の後、どちらからともなく距離が縮まる。
理由も必要もなく、たださっき昨日と同じ様に、俺の欲望が満たされた結果だけが生まれた。
---
昼過ぎになり、真子は気だるそうに伸びをして、スマホを確認する。
「じゃ、そろそろ帰るわ。またゲームしよーね。」
「おう。」
それだけ返事をして玄関へと送っていく。
「別に、勝手に出てくから送らんでも。」
「あ、いや……」
関係の定義も無いのに、名残惜しさを感じたとは言い難い。
「……鍵閉めるだけ。」
「なるほど!」
納得した顔になった真子は、素足のままパンプスを履いた。
真子がドアに手をかけた瞬間、俺の方を振り返った。
「そいや、久美子と付き合ってんの?」
ドアノブに手をかけたまま、真子は何でもないことのように言った。
一瞬、俺の思考が止まり、心臓がわずかに強く脈打つ。
真子はあの飲み会には来ていなかったはずだが、研修中の雑談や、誰かの一言で繋がった可能性はある。
ここで否定すると整合性が崩れる。
嘘はつくごとに、後で辻褄を合わせるコストが跳ね上がる。
それに、もう、隠したところで意味がない。
「……ああ、まあな。最近付き合い始めた。」
「ふーん。私と全然タイプ違くない?」
俺の短い肯定に、真子は特に驚いた様子もなく、ドアの外に視線を向けた。
その反応の薄さに、逆に肩透かしを食らう。
「別にいいけど…、めんどいことになんの、だるいじゃん。」
軽い口調だが、言葉の意味ははっきりしている。
「……だから、言わないよね?」
同意の強制というより、『当然だよね?』という意味だと伝わってくる。
「……ああ。」
「だよねー。」
真子は満足したように笑って、ドアを開けた。
「じゃ、またー。ゲーム誘ってよ。」
「おう。」
軽く手を振って、真子はそのまま廊下に出ていく。
パタン、とドアが閉まる音の後、静寂が部屋を包んだ。
共犯という言葉が一瞬頭をよぎる。
だがすぐに、思考は別の方向に切り替わる。
真子から漏れるリスクは低く、情報は十分管理可能だ。
ポケットからスマホを取り出し、久美子とのトーク画面を開く。
<連絡遅くてごめんね。飲んで寝ちゃって二日酔いだー。でも大丈夫だよー!>
俺が送信すると、すぐ久美子から返信が届く。
<よかった…!心配したよ。体調大丈夫?無理しないでね。>
画面を見た瞬間、ほんの一瞬だけ、自分の表情が歪むのが分かる。
悪いことをしたというその認識はある。
しかし、それ以上に『面倒』という気持ちに支配されていた。
返さなければいけない感情。
応えなければいけない期待。
それらが一気に押し寄せてくる感覚に、わずかに顔をしかめる。
さっきまでの、あの軽さ。
何も背負わなくていい関係。
それと比べた瞬間、どちらが楽かは明白だった。
小さく息を吐き、そして表情を整える。
スマホの画面を指でなぞりながら、俺は次に送るべき言葉を考え始めた。
ふと真子のことが頭をよぎる。
もし今、真子が別の男の部屋で同じように笑い、同じように、軽く身体を重ねていたら。
「……いや、別にいいだろ。」
関係は同期、拘束する権利もないのが、この関係のメリットのはずだ。
それなのに、胸の奥に小さな棘のような違和感が残る。
俺は気づかないふりをして、それを無視した。
結局、付き合い始めて最初の土日、俺は久美子とは会わなかった。




