第28話「【赤】との邂逅」
メーラーの画面から目を逸らし、俺は椅子の背もたれへ深く体重を預けた。
モニターの白い光が、静かなオフィスをぼんやり照らしている。
昨日の深夜、狩野とホテルへ向かう前、オフィスへ戻って送ったアリバイ工作の社内メール。
その直後に届いていた、真子からのメールをもう一度開く。
<会社戻ってきたよね?久美子と別れて、今度は狩野ちゃん?笑>
俺は席に付きながら自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。
真子はシステム運用部門で、夜間監視の当番があることは以前聞いたことがある。
昨日が、その当番だったということだろうか。
だが、真子のいる監視フロアと、俺たちの執務室は階が違う。
それに端末管理担当でもない以上、俺のPCログイン履歴や社内Wi-Fiの接続情報までは見られないはずだ。
そして、極めつけはこのメールには俺を追及する意思が感じられない。
怒りも、嫉妬もなく、ただただ、真子が見たであろう事実だけが、軽い笑いと一緒に投げ込まれている。
その温度の無さが、逆に気味悪く思えてくる。
まるで監視カメラのログを確認するみたいに、淡々と俺を見ている。
俺はスマホを取り出し、真子とのトーク画面を開いた。
否定や誤魔化し、軽い冗談でもいいから何か送った方がいい気がした。
だが、文字を打とうとするたび、指が止まる。
真子は、何を確認したいかが分からない。
俺を責めたいのか、ただ反応を観察したいだけなのか。
俺には分からないし、分からない相手には恐怖を感じる。
真子とは付き合っている訳でもないうえ、真子自身も久美子の存在を知りながら、俺との関係を続けている。
それなのに、なぜか俺は、真子にだけは『どう見られているか』を異常に気にしてしまっている。
俺の思考がループへ入りかけた瞬間、スマホ上部へ通知が滑り込んできた。
<直樹くん、来週の土曜、映画のチケット取ったよ!次のデートも楽しみだね!>
久美子からの無邪気な文面が、逆に今の俺には眩しすぎる。
俺はスマホを伏せ、深く息を吐いた。
今の俺には、管理すべき全データが正常に稼働しているように見える。
久美子からの信頼も、明日菜からの依存も、狩野との秘密も、全部、管理している通りだ。
なのに、真子だけが、どのカテゴリにも収まらない。
考えられるのは、好意・牽制・脅迫・観察、しかしどれであっても腑に落ちない。
その曖昧さだけが、静かに俺の思考へノイズを混ぜ始めていた。
俺は頭を覚醒させるため、ビル内のコンビニでエナドリでも買おうと席を立つ。
廊下を曲がったところで、向こうから真子が歩いてきた。
「あ、直樹おはよー。」
真子はダイエットドクターペッパーを片手に、眠そうな顔で軽く手を上げる。
「昨日、遅かったんでしょ。お疲れ。」
その言葉だけで、背筋に薄く冷たいものが走った。
真子の表情は、いつも通りだった。
少し気だるげで、眠そうで、何を考えているのか分からない顔。
だが俺の中では、『昨日、遅かったんでしょ』という何気ない一言だけが、異様な重さを持って響いていた。
「……ああ。……ちょっと作業が長引いてさ。」
「そっかー。わざわざ戻らなきゃいけないのも大変だねー。」
真子はそれ以上何も言わず、空手の側の手を振りながら俺の横を通り過ぎていく。
真子に何を見たのか、何を知っているのか聞くために呼び止めたくなる衝動に駆られる。
だが、ここで食い下がる方が不自然と判断し、俺は何事もなかったように歩き出す。
周囲から見れば、ただ同期同士が朝に軽く会話しただけ。
なのに俺の中では、警告音みたいな緊張だけが鳴り続けていた。
---
結局俺は、一日中真子に返信すべきか悩み続け、まともに仕事へ集中できなかった。
設計書を読んでも頭へ入ってこない。
コードレビューの指摘も、内容が薄く滑っていく。
気づけば、何度もメール画面を開いては閉じていた。
そんな俺を見かねたのか、夕方頃、上司が苦笑混じりに声を掛けてくる。
「佐藤、今日ちょっと顔死んでるぞ。体調悪いなら早めに上がれ。」
「……すみません。そうします。」
普段なら多少無理してでも残る俺が、素直に頷いたことに、自分でも少し驚いた。
寄り道もせず帰宅し、玄関へ鞄を置いた瞬間、どっと疲労感が押し寄せる。
ベッドへ倒れ込み、無意識にスマホを開いた。
画面上には、通知がいくつも積み上がっている。
<久美子:直樹くん、今日は早いの?しっかり休んでね!>
<明日菜:研究室のM1の先輩の指摘で悩んでます……聞いてくれません?>
<狩野:今日一日中、ほんと眠かったね笑>
真子とのやり取りは、俺のメッセージに既読が付いているだけ。
その一覧を見て俺は溜息が零れた。
ここから誰に何を返すか。どの温度感で返すか、全部、自分で制御しなくてはいけない。
通知が増えるたび、しっかり管理しなくてはという感覚だけが強くなる。
俺はスマホを伏せて、目を閉じながら、何も考えたくないと思い始めた。
その時、不意にスマホが震え、思わず見るとゲーム機の統合コンパニオンアプリだった。
仕事とも、人間関係とも切り離された通知というだけで、少しだけ呼吸が楽になる気がした。
通知を開くと、そこには勢いのあるメッセージが数件。
<mafuyouuuuu:18時半に中野集合!!ゲーミングスペースでやる同キャラチーム大会出るよ!!!>
<mafuyouuuuu:カオカタ使いの友達が飛んだ!!!>
<mafuyouuuuu:直樹しかいない!!DQだけはマジで嫌だからアケコン持って今すぐ来て!!!>
<mafuyouuuuu:返事は!?>
思わず、小さく笑ってしまった。
真冬とは客として会った後、2~3回通話しながらオンライン対戦をした程度だ。
だからまだまだ心の距離があると思っていたが、そんなのを全部吹き飛ばす勢いのメッセージだ。
俺から見れば、おそらくこのメッセージに裏はない。
真冬とゲームで遊べば、今は考えたくなかったあれこれが一旦忘れられる。
俺は<すぐ行く!>とだけ送信し、スマホをポケットへ押し込み、繋ぎっぱなしのアケコンをバッグに突っ込んだ。
そして、脱兎の如く家を飛び出した。




