第27話「【赤】と社内メール」
朝のアラーム音で目を覚ますと、スマホの画面は既に7時を回っていた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、ぼんやりした意識をゆっくり浮上させていく。
ふと、浴室の方からドライヤーの音が聞こえた。
しばらくぼーっとしていると、やがて音が止み、カチリとドアが開く。
「あ、起きた?」
髪をバレッタできっちりまとめ直した狩野が、洗面台で軽く整えたのだろう薄化粧の顔を覗かせる。
昨夜とは違い、会社モードへ戻りかけた姿で、妙な色気がある。
上半身は肌着姿だったため、肩から鎖骨へ落ちる華奢なラインに目を奪われると、昨夜触れた骨格の感触が指先に蘇る。
そのうえで、狩野の骨はやはり綺麗だな、と思った。
好きという感情とは少し違うが、自分の感性に完璧に合致したものを、ようやく手に入れた時みたいな、静かな満足感に近かった。
「……なに。」
視線に気づいた狩野が、少し照れたように笑う。
「いや。里香って、本当にスタイル良いなって。」
「もう、また朝からそれ?ってか名前呼び?」
狩野は呆れたように言いながら、ベッド脇へ腰掛け、畳んだ俺のシャツを差し出してくる。
その仕草もどこか生活感があって、昨夜より距離が近く感じた。
「ねえ、昨日のこと……会社では内緒ね。先輩とかに知られたら、絶対めんどくさいし。名前呼びしてもいいけど、オフィスでは苗字で呼んで。」
「分かった、了解。じゃあ基本苗字で呼ぶ。」
俺はシャツを受け取りながら軽く笑う。
「それに、昨日の事は別に言いふらすような話でもないだろ。」
「……うん。」
狩野は少し安心したように肩の力を抜いた。
「でも、ちょっと楽しかった。佐藤、思ったより優しかったし。」
その言葉を聞きながら、俺は頭の中で静かに【緑】の色を整理する。
「俺も楽しかったよ。今度は例のテーマパーク一緒に行きたいくらいだ。」
「興味出てきたってホントだったの?」
狩野が少し驚いたように目を丸くする。
「まぁ、狩野めちゃくちゃ語ってたし。」
「……それは蒸し返さないで……恥ずかしいから。」
そう言いながらも、狩野は少し嬉しそうに笑う。
昨夜よりも空気が柔らかく、恋人未満の曖昧な距離感だが、その不安定さがむしろ心地良かった。
支度を終え、俺たちはホテルを出て、オフィスに向かって歩き始めた。
1.5kmくらいの道のりを歩くが、話ながらで全く距離は気にならなかった。
「じゃ、オフィス近くで別れる?」
会話の途中で、狩野は少し名残惜しそうに言った。
「いや、別れない方が自然だろ。同期で同じ部署配属なのに、手前で別れるところを見られる方が、変に思われるよ。」
俺がそう言うと、狩野は少しだけ目を瞬かせたあと、「……たしかに。」と小さく笑った。
平日の人波へ紛れ込むほど、昨夜だけが現実から切り離された秘密みたいに感じられた。
コンビニ前で缶コーヒーを飲むサラリーマン、改札へ急ぐ学生、眠そうにスマホを眺める会社員。
その平日の流れに紛れ込んだ瞬間、昨夜の出来事だけが、現実から少し浮いた秘密みたいに感じられた。
「眠くない?」
「ちょっと眠い。」
狩野が瞼を軽くこすり、欠伸を噛み殺しながら笑う。
「佐藤は普通に元気そう。」
「慣れてるから。」
「なにに?」
「徹夜に。」
「あー……ゲーマーって感じ。」
そんな他愛ないやり取りを続けながら会社へ向かう途中、駅前のベーカリーから漂ってきた甘い匂いに、狩野が足を止めた。
「……あ、クロワッサン、おいしそう。」
「買いに寄るか?」
「え、いいの?」
「朝飯まだだろ。」
狩野は少し迷ったあと、「じゃあ入ろっか。」と言いながら、店へ入っていく。
狩野の選んだクロワッサンとブラックコーヒーを、俺は自分のとまとめて払った。
「こういうの、さらっと払うのずるいよね。」
「別に数百円だし。」
「そういうとこ、何か普通にモテそう。」
「狩野に言われてもな。」
「なにそれ。」
焼きたてのパンが入った紙袋を抱えながら、狩野が少しだけ頬を膨らませる。
昨夜ホテルで見せた顔とも、会社で見せる顔とも違う。
同期の女友達みたいな自然な距離感が、昨夜の記憶をさらに生々しくした。
再び歩き始めると、歩幅の拍子に肩が軽く触れるたび、昨夜の熱が微かに蘇る。
肩越しに見える、バレッタでまとめられたうなじや、シャツ越しでも分かる華奢な肩のラインを見ながら、昨晩に指でなぞった肩甲骨の感触まで、不意に思い出してしまう。
「……なに?」
視線に気づいた狩野が、小声で聞いてくる。
「別に。」
「嘘。絶対なんか思ってたでしょ。」
「まぁ、少し。昨日の夜の狩野を思い出してた。」
そう返すと、狩野は耳をほんの少し赤くしながら困ったように笑い、視線を逸らした。
会社の近くまで来た時に、狩野がスマホを見ながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば今日、朝会あるんだった。」
「あー……最悪。」
「絶対眠くなる。」
「狩野、寝そう。」
「佐藤もでしょ。」
そんな軽口を交わしていると、右前方に小柄な女性が信号を待っているのが見えた。
「あれ、2人とも一緒?」
面倒見がいいと噂の、8年目の先輩社員だった。
狩野がたまにセクハラまがいの目に合いそうな時、さりげなく間に入って助けてくれたと聞いた。
「あ、おはようございます。」
「おはようございます。」
俺たちが並んで挨拶すると、彼女は一瞬だけ俺たちの顔を見比べ、どこか微笑ましそうに笑った。
「なんか同期同士で仲良いね。」
「え、そうですか?」
狩野が少しだけ動揺した声を出す。
「うん。佐藤君の前だと、狩野ちゃんは配属直後より空気柔らかくなった気がする。」
そう言われ、狩野がちらりと俺を見る。
その視線には、ほんの少しだけ昨夜を共有した者同士の秘密が滲んでいた。
だが須藤さんは当然、そんなことには気づかない。
少なくとも、この場で俺たちは自然な同期として認識されている。
「若手同士、支え合うの大事だからねー。仲良くするに限るよー。」
そう言って笑いながら先に会社へ向かっていく彼女の背中を見送りながら、俺は静かに息を吐いた。
「……あ、そうだ。」
同じように見送っていた狩野が、小さくこちらを見る。
「昨日のこと、ほんと変に気使わなくていいからね。」
「気使ってるように見える?」
「ちょっとだけ。」
そう言って笑う狩野の表情は、昨夜よりずっと自然だった。
少し照れたように返事をする狩野を見ながら、俺は静かに安心していた。
オフィスは、今日もいつも通り動いていた。
出社して自席へ鞄を置くと、すぐに久美子からLINEが届く。
<直樹くん、昨日ほんとにお疲れ様!社内メールあんな時間に来ててびっくりしたよ!ちゃんと休めた?今週どこかで美味しいもの食べ行こ!>
相変わらず、疑うという発想そのものが存在しない。
背後では、背中合わせの席に座る狩野が、一瞬だけこちらを見る。
目が合った瞬間、すぐに逸らされた視線。
だが、その短い動きには、昨夜を共有した者だけが持つ微かな熱が残っていた。
さらにスマホには、大学の後輩である明日菜から、研究室の愚痴混じりのメッセージが何件か届いている。
全部、綺麗に回っていた。
誰も疑わない、誰も壊さない、色分けされた関係は互いに干渉せず、綺麗に並列稼働している。
少なくとも、俺の中では完璧だった。
俺は静かな満足感を覚えながら、PCを立ち上げ、社内ネットワークへログインする。
そこでふと、金曜の深夜に無視した社内メール通知を思い出した。
メーラーを開くと、送信済みフォルダには、久美子へ送ったアリバイ工作のメール。
<まだ仕事終わらない。今日たぶん徹夜。>
そのすぐ上、受信フォルダに8件の未読メールが残っている。
ほぼ業務の送信者欄の中で、1つだけ業務上の繋がりが薄いメールがあった。
<送信者:小松真子>
<件名:業務連絡>
システム運用部門の真子とは、業務上直接的にやり取りすることは無い。
そのため、この件名は直感で嫌な予感がした。
ダブルクリックして本文を開くと、挨拶も何もなく、1行だけのメールが表示された。
<会社戻ってきたよね?久美子と別れて、今度は狩野ちゃん?笑>




