第20話「【黄】の経験値」
明日菜と肌を重ね終わった深夜、隣からは静かな寝息が聞こえ始めた。
薄いシーツの隙間から覗く華奢な肩が、呼吸に合わせて小さく上下している。
抱き寄せれば簡単に折れてしまいそうな細い身体に視線を這わせる。
眠っている今なら、どれだけ触れても抵抗されないだろう。
そう考えた瞬間、さっきまで落ち着いていたはずの欲望が、腹の奥でじわりと熱を持った。
俺は無意識に、明日菜の白い首筋へ視線を落とす。
鎖骨付近まで俺が残した赤い痕が点々と続くのが、薄暗い部屋の中でもはっきり分かった。
その痕を見るだけで俺は、明日菜をもう一度欲しくなる。
だが俺は小さく息を吐き、感情ごと押し込め、欲望のまま動くのは違うと思い直す。
明日菜は、真子みたいな刹那型じゃない。
安心感と特別感を積み上げることで、自分から依存してくるタイプだ。
なら今必要なのは、貪ることじゃない。
余裕のある男を演じ続けること。
一晩で壊れるほど雑に扱うより、少し物足りなさを残した方が、次から勝手に追いかけてくるだろう。
俺は明日菜の髪を静かに撫でると、そのまま手を離した。
代わりに、枕元に置いていたスマホへ手を伸ばす。
欲望を管理できるかどうかも、結局は最適化の一部だ。
俺は音を立てずにベッドを抜け出し、暗闇の中でスマホを開くと、未返信の通知が並んでいた。
<久美子:月曜、お弁当作っていくから一緒に食べようね!>
<真子:花金寝れん。いま暇?>
以前なら感じていたはずの焦燥感や罪悪感は、今の俺にはもう無かった。
俺はカレンダーアプリを開き、黄色のラベル名を正式に固定した。
これで、青は安定供給される愛情、赤は高刺激快楽、黄は自己肯定感の増進。
「結局、必要なのは感情じゃない……」
画面の光に俺の顔が照らされる。
その表情は、かつてないほど冷徹に見えた。
「相手ごとの仕様を理解し、適切な入力を与える。それだけで、俺の思い通りに動く。」
女と縁が無かった自分も、久美子で妥協せざるを得なかった自分も、真子という例外に振り回されていた自分も、もういない。
俺は今、恋愛というシステムの管理者側へ回ったのだ。
窓の外では、夜明け前の空が静かに白み始めていた。
そのまま俺は、通知画面を開いたまま眠りへ落ちた。
そして数時間後、薄いカーテン越しに差し込む朝日によって目が覚めた。
隣では、明日菜がシーツに包まり、まだ幸せそうに眠っている。
俺は昨晩の余韻に浸る代わりに、無防備な彼女を観察していた。
華奢な肩、シーツの隙間から投げ出された、白く細い脚。
昨夜、夢中で唇を這わせた鎖骨周りには、まだ薄赤い痕が熱を残したまま浮かんでいる。
それが明日菜の薄い肌の白さを余計に際立たせる。
今すぐ飛び付きたくなる華奢な身体が、昨夜乱れていたことを思い出し、俺の腹の奥がじわりと熱を持った。
それは恋愛感情ではなく、想定通りの結果を得られたことへの満足感と、朝になって回復した情欲だった。
「……おはようございます。」
目を覚ました明日菜は、隣に俺がいることを確認すると、嬉しそうに目を細めた。
「ちょっと待っててくださいね。」
そう言って明日菜はほぼ裸でベッドを抜け出し、薄いカーディガンだけ羽織ってキッチンへ向かう。
カーディガンの隙間から覗いた細く白い太腿に、昨夜の熱がまだ残っている気がした。
数十分後、テーブルには簡単な朝食が並んでいた。
卵焼き、味噌汁、焼き鮭。
終始笑顔の明日菜からは、泊まった男に朝食を作るという状況に浮かれているように見えた。
ちゃんとしている女を自然に演じられるところが、明日菜の強みなのかもしれない。
「……美味しい。」
味噌汁に口を付けたあとに言うと、明日菜がぱっと嬉しそうに顔を上げる。
「ほんとですか!よかった……なんか、口に合わなかったらどうしようって思ってました。」
「ちゃんとだしの香りがして、おいしいよ。」
そのまま俺は卵焼きに箸を伸ばし、ゆっくりと咀嚼する。
「料理、結構するんだ。」
「一人暮らし始めてからですけど……でも、好きな人に作るの、一回やってみたくて。」
そう言って照れ笑いする明日菜を見ながら、俺は昨夜のことを思い返していた。
久美子ほど緊張はしていなかったが、真子ほどの経験値は感じなかった。
だからこそ俺は、明日菜の過去の男が少し気になった。
「……明日菜ちゃんって、元彼いた?」
味噌汁へ口を付けたまま聞くと、向かいに座っていた明日菜の動きが一瞬止まった。
「えっ……あ、はい。」
明日菜は箸を持ったまま、どこか気まずそうに視線を泳がせる。
「大学一年の時に……」
「へえ。」
俺がそれ以上深掘りしなかったからか、明日菜は逆に落ち着かない様子で笑った。
「でも、全然ですよ?上京したてで浮かれてただけですし、すぐ別れちゃったので……」
明日菜の『全然ですよ』という言い方が、妙に生々しかった。
経験があることを隠したいわけじゃないが、多いとは思われたくない。
そういう、真面目な人間特有の防御反応のように思える。
俺は焼き鮭を崩しながら、昨夜の明日菜を思い返す。
久美子ほどの緊張を感じなかったため未経験ではないが、真子ほど慣れてはいなかったので経験豊富でもない。
たぶん、過去に付き合った相手は1人か2人で、かなり受け身だったはずだ。
昨夜のように強く求められるとそれに酔ってしまう。
その危ういくらいの純度が、俺には都合良く感じられた。
「……佐藤さん?」
考え込んでいた俺を不思議そうに見ながら、明日菜が小さく首を傾げる。
「いや、なんか意外だなと思って。」
「えっ、何がですか?」
「もっと恋愛経験少ないタイプかと思ってた。」
その瞬間、明日菜は耳まで赤くして、「も、もう……」と困ったように笑った。
可愛らしい反応自体が、明日菜の性格をそのまま表している気がした。
俺は箸を動かしながら、『久美子より家庭的かもしれないが、久美子の方が重いから持続性はありそうだ。』と、無意識に比較していた。
女を感情ではなく性能で比較する癖が、もう当たり前みたいに俺の頭へ根付き始めていた。
その時の俺は、まだ気付いていなかった。
どれだけ整合性を保っても、人間はシステム通りには動かない。
その当たり前の事実を、この時の俺はまだ理解していなかった。




