第18話「【黄】とカフェ」
金曜の夜、明日菜から誘いの当日に俺は、明日菜の最寄駅近くにある落ち着いた夜カフェへ向かっていた。
待ち合わせは21時だが、俺は20時過ぎの時点でメッセージを送った。
<今仕事終わった!急げば20:15くらいには着けそう。>
俺は本当はそこまで急いでいない。
ただ、忙しい中でも会うために時間を作ったという演出を入れたかった。
明日菜とのメッセージとのやり取りで、『自分のためにしてくれた!』という文脈に弱いだろうと判断しての事だ。
案の定、すぐに返信が返ってくる。
<えっ、そんな急がなくて大丈夫ですよ!?お仕事お疲れ様です!!>
明日菜の文章の端々から、こちらを気遣う色と、会えることへの浮ついた感情が滲んでいた。
俺は電車に揺られながら、その反応を冷静に観察する。
真子の時みたいに、欲望と流れだけで転がる関係じゃないとも決意する。
明日菜は、安心を積み上げれば、その分だけ自分から近づいてくるタイプだ。
会話を重ね、頼られ、少し特別扱いを混ぜて距離を詰め、反応をきちんと確認し、また少し優しくする。
その繰り返しで、依存の温度をゆっくり上げていくだけだ。
店に着くと、明日菜は既に入口近くで待っていた。
俺に気づいた瞬間、ぱっと表情が明るくなる。
「お疲れ様です!ほんとに仕事帰りだったんですね……スーツ似合ってます。」
「ありがとう。まあ、ちょっとバタバタしてた。」
俺が軽く笑うと、明日菜はどこか申し訳なさそうに肩をすくめた。
「なんか、すみません。忙しいのに誘っちゃって。」
「いや、明日菜ちゃんと話すの普通に楽しいし。」
その一言だけで、明日菜の頬が少し赤くなる。
こういう反応を返してくれるなら、扱いやすいなと俺は思った。
L字席についてしばらくすると、明日菜は研究室の時よりずっと柔らかく笑うようになっていた。
酒も少し入っているせいか、視線もよく合う。
「佐藤さんと話してると、なんか……安心します。……社会人の先輩っていうより、1人の男性として。」
その言葉と一緒に向けられた明日菜の上目遣いには、もう警戒心はほとんど残っていなかった。
俺はそれを、信頼ではなく進捗として受け取っていた。
店内には、深夜帯に合わせた静かなジャズが流れ、照明は暗く、周囲の客もそれぞれの会話に沈んでいる。
明日菜はグラスを両手で包み込み、少し熱っぽい視線をこちらへ向けていた。
「……なんか、不思議です。」
「何が?」
「大学の時って、社会人ってもっと遠い存在だと思ってました。仕事の話とか、ちゃんとしてて、大人で……でも佐藤さんって、ちゃんと大人なのに、話しやすくて。」
明日菜の酔いで緩んだ声の無防備さが、妙に心地良かった。
俺はテーブルの上で、そっと明日菜の指先に触れる。
明日菜の肩がびくりと揺れるが、逃げる様子がない。
指も、手首も、骨格そのものが細かった。
久美子みたいな丸みじゃなく、手を触れただけで分かる華奢な身体。
それを感じただけで、俺の奥の方が熱を持つ。
「……緊張してる?」
俺が小さく笑うと、明日菜は困ったように視線を逸らした。
「そりゃ、しますよ……」
「なんで?」
「……だって、好きな人の前ですし。」
その瞬間、胸の奥で何かがぞくりと震えた。
俺の言葉と反応の積み重ねで、ここまで辿り着かせた感覚、それは攻略の手応え以外の何物でもない。
俺はL字席を少しだけ詰めると、明日菜の身体がわずかに強張る。
明日菜と視線が絡むと、その唇が小さく震えていることに気付いた。
俺は店員がレジ対応で近くにいないことを見計らって、明日菜の顎に指を添えた。
「……明日菜ちゃん。」
名前を呼ぶと、彼女は抵抗する代わりに、目を閉じた。
そのまま唇を重ねる。
柔らかい感触が触れた瞬間、明日菜の肩が跳ねる。
短く離すと、彼女は息を詰まらせたまま俺を見上げていた。
「……さ、佐藤さん……」と、蕩けたような声が、明日菜の口から漏れた。
「すごく慣れてません?」
「そんなことないよ。全然経験ないし…」
「本当ですか?……小さい頃からモテてたんじゃないですか?」
「小学校から高校までずっと片思いして振られたり、大学でも彼女は出来なかったし……、それにほら……」
俺はそう言って明日菜の手を取り、俺の心臓の位置にゆっくり当てる。
「俺もめっちゃドキドキしてるよ。」
「うー……佐藤さん……」
俺は顔を赤らめ涙を浮かべる明日菜の反応に、強い昂揚を覚える。
真子に翻弄され、与えられる側だった感覚とは違う。
今は、自分の言葉と触れ方で、相手の体温も呼吸も変えられている。
もう一度、今度は少し長く口づける。
口づけながら細い肩を引き寄せると、明日菜の身体は驚くほど軽かった。
指先に伝わる骨の細さが、久美子とはまるで違う。
薄いブラウス越しでも分かる華奢な体温に、俺の奥底に沈んでいた欲望がゆっくりと熱を持ち始める。
逃げるどころか、明日菜は力が抜けたみたいに俺へ身体を預けてきた。
唇が離れるたび、浅く息を乱しながら、熱に浮かされた目でこちらを見上げてくる。
その反応が、たまらなく心地よかった。
「……佐藤さん……」
明日菜が俺の名前を呼ぶ声は、さっきまでより明らかに甘く掠れていた。
俺はそのまま、細い腰を引き寄せるようにして、もう一度深く口づけた。
唇を離したあとも、明日菜はぼんやりした顔で俺を見ていた。
「……やばいです、私。」
熱に浮かされたみたいに笑う明日菜の顔を見ながら、俺は確信を得た。
そのままもう一度口づけながら、俺は腕を少し上げ、腕時計へ視線を落とした。
時計は23時40分を少し過ぎたところで、俺の路線の終電はもう間に合わない。
唇を離すと、明日菜は熱っぽく潤んだ目で俺を見上げていた。
細い肩を抱き寄せたまま、俺は小さく息を吐く。
「……時間、やばいな。」
「え?」と目を見開いた明日菜もスマホを開き、時刻を確認する。
小さく「あ……」という声が明日菜から漏れるが、本気で困っている雰囲気ではない。
俺はそんな明日菜を見ながら、水の入ったグラスをゆっくり傾け、彼女が思うだろう『余裕のある社会人』の姿を見せる。
「……佐藤さん、終電。」
「まあ、急げばギリギリ間に合うかもだけど。」
そう言いながら、俺は席を立つ気配を見せなかった。
それに呼応するかのように、明日菜もまた、「帰りましょう。」という言葉を口にしない。
静かなジャズだけが、俺たちの間を埋めていた。




