第16話「【黄】の許容範囲」
教授の部屋に入ると、都合よく後輩の男子が話していたため、「久々の記念に、一枚撮らせて。」といい、俺と教授と後輩男子の写真をスマホで取った。
そのまま、少し教授と言葉を交わし、再び廊下に出た俺はスマホを取り出した。
今日の黄色の予定である<大学へ顔出し>の証跡を送るかのように、先程の写真を添えて久美子にメッセージを送る。
<懐かしかった。今の学生は大変そうだよ。>
<休みなんだし、ちゃんと息抜きしてね!お疲れ様!>
数秒で返ってくる久美子の言葉をすぐに確認する。
しかし、俺はそれを五分ほど寝かせてから、<ありがと、久美子もゆっくり休んでね!>とだけ返す。
この「手慣れた感」が、自分でも恐ろしいほど自然になっていた。
一仕事終えた俺は再び明日菜のスペースに座ると、俺と明日菜だけになる夕暮れまで、研究の手伝いをした。
既に窓の外はオレンジ色に染まり、PCの冷却ファンの音だけが静かに回っている。
「佐藤さんって、なんか余裕ありますよね。社会人って、みんなそんなにカッコよくなるんですか?」
明日菜の言葉に、俺は少しだけ気分を良くした。
それは、常に脳裏の隅リピートされ続けている真子の動画、そこから発生する何とも言えない虚無感を、目の前の新しい色が変えてくれているのかもしれない。
目の前に居る明日菜は、俺を見て必要として、頼って、尊敬してくれている。
それが妙に心地よかった。
「いや、俺も最初は全然だったよ。」
俺は椅子へ軽く寄りかかりながら答える。
「ただ、学生の頃よりは周りを見てるのかもしれないな。講義や研究だけやってれば良かった頃と違って、仕事って結局、人とのコミュニケーションが基軸だし。」
「へぇ……なんか佐藤さんって、ちゃんと社会人って感じします。」
その『ちゃんとしてる』という言葉に、俺は小さく笑う。
その評価は、多分俺がずっと欲しかったものの様な気がする。
だからこそ、真子みたいに読めない存在に振り回されると、自分の輪郭が崩れる感覚がある。
「でも、明日菜ちゃんも結構変わったよ。」
明日菜は俺を認めて尊敬し、好意を可視化してくれる。
「え?」
「前はもっと子供っぽかった気がする。」
「うわ、それ褒めてます?」
「勿論、褒めてる。」
そう返すと明日菜は少し照れたように笑い、俺はその反応を見て確信を積み重ねる。
「なんか、普通にモテそうだよね。」
俺が何気ない調子で言うと、
「いやいや、無いですって。」
「絶対あるって。」
「ほんと無いですから!」
明日菜は否定しながらも声が少し嬉しそうだったため、その様子を見て、俺はさらに言葉を重ねる。
「俺が在学中は、結構男避けてたでしょ。」
「え?」
「なんとなく。そう思った。」
明日菜は少し困ったように笑って、ゆっくりと口を開いた。
「……佐藤さんの代の研究室メンバーって、変な人多いじゃないですか。」
「あー、まあ分かる。」
「だから普通に話せる人って貴重なんですよ。」
その瞬間、俺の中で、何かが綺麗に噛み合った。
俺は明日菜にとって、頼れる先輩で、安心できる相手で、警戒対象ではない男だというポジションに入れている。
俺は出来るだけ自然な声で返す。
「じゃあ、俺は貴重な普通枠ってこと?」
「……そうかもしれないです。」
小さく笑いながらそう言った明日菜は、ほんの少しだけ頬が赤かった。
その反応を見て、俺の脳内は、明日菜がいけそうだという考えが広がった。
「ありがとう。……じゃ、今日はこの辺にするか。」
俺が立ち上がると、明日菜も慌ててノートPCを閉じた。
帰り際のエレベーター前で、明日菜が俺に向かって深々と頭を下げた。
「今日は本当に助かりました!ありがとうございます!」
「また詰まったら言ってね。力になるから。」
「絶対言います!」
そこで終わるはずだった。
だが、その瞬間また真子の動画が脳裏に浮かぶ。
俺はそのざらつきを打ち消すように、自然な声で言った。
「……ていうかさ……大学の頃から、明日菜ちゃんって普通に可愛いと思ってたんだよね。」
空気が止まり、明日菜の目がわずかに見開かれた。
「え……?」
明日菜は視線も逸らしきれず、ただ固まっている。
その反応を見た瞬間、俺の中で静かに確信が生まれた。
「いや、今さらだけど、ね。」
俺は軽く笑って、明日菜の逃げ道を残す。
これで冗談にも出来るし、本気にも出来る。
そういう曖昧な位置へ着地させながら、相手の反応だけは確保する。
気づけば、そういう調整が呼吸みたいに自然になっていた。
「……ずるいです。」
ぽつりと漏れた明日菜の声は、思っていたよりずっと小さかった。
「そういうの、急に言うの。……ずるいです。」
耳まで赤くしたまま、明日菜は困ったように笑った。
その顔を見た瞬間、『ここで押せば、多分いける。』と俺は理解する。
飲みに誘うか、もう少しだけ2人きりで話すか、やり方はいくらでもある。
真子みたいな読めない例外じゃない。
明日菜は、ちゃんと俺を見て反応を返してくれる。
今日はその入口だけで十分だ。
「ごめんごめん。困らせるつもりじゃなかった。」
「……困っては、ないです。」
その返事に俺は小さく笑うと、エレベーターが到着し、扉が開いた。
「じゃ、またね。」
「……はい。また、是非、お願いします。」
明日菜が少し名残惜しそうに頭を下げたのを見て、俺は背を向けそのまま振り返らなかった。
スマホを開くと、真子から通知が来ていた。
<この間ごめーん!今度泊まりでゲームしよー>
数秒だけ画面を見つめると、俺の胸の奥に残っていたざらつきが、また微かに疼いた。
けれど今日は、不思議とそれに振り回されなかった。
俺は通知を閉じ、そのままカレンダーアプリを開く。
新しく追加された黄色のラベル名を、<大学関係>と入力する。
その瞬間、胸の奥にあった不快感が、少しだけ静かになった気がした。
それが安心なのか、置き換えなのかは、自分でも分からない。
ただ一つ確かなのは、人間関係は感情ではなく、管理可能かどうかが肝要ということだった。




