第15話「【黄】の変化」
翌週の土曜の朝、大学へ向かう電車の中。
俺は先週スクショした真子のストーリーを、儀式のようにまた開いていた。
再生ボタンは押さず、静止画だけを見る。
動画を流せば、下卑た男たちの笑い声や、潮風の音が俺の気持ちをかき乱してくるからだ。
画面の中の真子は、知らない男のジャージを肩にかけ、朝焼けの中で笑っている。
胸の奥を走る嫌なざらつきは、嫉妬ではないと何度も俺は自身に言い聞かせた。
これは単なる情報不足による不快感だと。
真子は行動が読めず、予定も守らず、反応が一定ではない。
管理不能な人間である。
それであるなら、別の安定したルートを確保すればいいだけの話だ。
俺はその画面を閉じて、明日菜とのメッセージ履歴を開く。
返信速度、文章量、絵文字の頻度等、遡れば、そこには明らかな好意の伸びが観測できた。
<ありがとうございます!>
<助かりました!>
<また見てもらえませんか?>
真子のように、予告なく接続が切れることは無い。
そう確信した瞬間、自分にとっての不快を理解しそうになって、慌てて思考を抑えた。
気づくと、俺の足は自動的に、数か月前まで通っていた母校の校門をくぐっていた。
研究棟特有の何とも言えない匂いが懐かしく感じる。
前は教えを乞いながら研究に明け暮れる日常だった場所が、今では俺が優位に立てる場所として心地よかった。
「佐藤さん!」
研究室のドアを開けると、明日菜がノートPCを抱えたまま小走りで近づいてきた。
「わ、本当に来てくれたんですね。お休み中なのにすみません……」
久々に会った明日菜は、俺の卒業後に髪型を変えたらしい。
以前はもっと長かった記憶があるが、今は栗色のマッシュ。
丸眼鏡の奥で、少し垂れ気味の目が柔らかく笑っている。
細い肩、薄い胸、余計な肉のない身体のラインといった華奢な体格は、真子に少し似ていた。
ただ、いつもだぼついた俺の服を着ている真子とは違い、明日菜は深めのVネックのノースリーブを着ている。
細い首から鎖骨のラインがそのまま見えていて、俺の視線が釘付けになる。
研究室の白い照明の下だと、その骨の陰影だけでかなり煽情的だった。
しかも明日菜自身は、多分それを意識していない様子と言うところが、さらに情欲を掻き立てた。
「土日は仕事無いから大丈夫だよ!行き詰まってるって言ってたし、ついでに教授にも挨拶しておきたかったしね。」
俺が明るく返すと、明日菜は困ったように笑う。
「いやもう、マジで詰まってます……」
そう言った明日菜の鎖骨の下で、小さくネックレスが揺れた。
俺は凝視せず、視線を逸らすふりをしながら、無意識に思う。
真子とはタイプの違うスレンダーだが、容姿は好みで、俺の胸の中にあった真子による欠落が、埋まっていくのを感じた。
さらに、頼られ、必要とされているこの承認という報酬は、真子との関係では決して得られない。
社会人としての余裕を纏った俺に対し、明日菜の視線には隠しきれない尊敬の色が混ざっている。
「じゃあちょっと見てみようか。」
「あ、じゃあ、私のスペースこっちです。」
明日菜に案内され、研究室の奥へ進む。
この研究室は、学生ごとに背の高いセパレータで区切られていて、立っても中が見えない構造になっている。
明日菜のスペースは、その一番端で、角に追いやられるような位置にあり、周囲から半分隔離されている。
もはや、ほとんど個室みたいなスペースだった。
「狭くてすみません……」
中へ入った瞬間、明日菜が思わず苦笑する。
「大丈夫、気にしてないよ。それに、集中して研究できるいいスペースだね。」
そのスペースは一畳も無く、椅子を並べると肩が触れそうな距離になる。
俺が椅子に座ると、すぐ隣の椅子へ明日菜も腰を下ろした。
その瞬間、在学中には感じなかったふわりと甘い香水の匂いが、俺の鼻腔をくすぐった。
シャンプーとは違い、少し大人っぽい香りに感じる。
あまりに距離が近すぎて、俺が呼吸するたびにそれが混ざる。
「えっと、この辺が上手くいかなくて……」
明日菜が画面へ身体を寄せると、栗色のマッシュの隙間から、細いうなじが見えた。
白いそのうなじを視線でなぞると、そのまま鎖骨に引き付けられる。
ノースリーブから伸びる肩の骨の出っ張りは驚くほど細く、腕も余計な肉がほとんど付いていない。
抱きしめたら簡単に折れてしまいそうなくらいの華奢さだった。
横から見ると、胸の薄い膨らみがわずかに分かる。
真子と同じように細い体型なのに、服装のせいか印象はかなり違う。
明日菜の深めのVネックが、視線の逃げ場を無くしてくる。
しかも隣でこちらを向いた拍子に、胸元の奥で光沢のある緑の下着と、その奥の蕾がちらりと覗いた。
ほんの一瞬だが、緑色と桜色のコントラストだけが妙に鮮明に焼き付く。
明日菜自身は気づいておらず、普通に画面を見ながら、「ここ、何でエラー出てるんですかね……」なんて首を傾げている。
その無防備さが余計に危ういうえ、煽情的だった。
俺は視線を画面へ戻しながら、内心で呼吸を整える。
真子のストーリーを見た後だったせいか、胸の奥で燻っていたざらつきが、別の熱へ変わっていくのが分かった。
「んー、これロジックが意図とズレてるかも。」
出来るだけ平静な声で言う。
けれど肩越しに伝わる体温の近さに、意識はずっと引っ張られたままだった。
「この処理、切り出した方がいいかな。可読性が悪いし、デバッグする時の確認が効率的になる。」
「え、そうなんですか……?」
明日菜が画面に体を近づけた拍子に、肩が軽く触れる。
しかし明日菜は身体を引かず、俺の方に笑顔を向けた。
「……近いですね。」
そうやって冗談っぽく笑った姿を見て、俺は脳内で『拒絶も警戒心も無し。物理的接触への許容範囲は大きい』と分類していた。
俺は画面に近づく振りをして、さらに距離を縮め、明日菜の肩に俺の顎が触れないギリギリのところで止まった。
ふわりと届くシャンプーの匂いが、清潔感と純真さを感じさせ、真子とは正反対の雰囲気を醸し出す。
「明日菜ちゃんって、前と雰囲気少し変わったね。」
「え?」
「いや、なんかちょっと危なっかしいなって。」
そう言うと、明日菜は少し首を傾げた後、自分の胸元へ視線を落とした。
「あっ……」
小さく声を漏らし、慌てて身体を起こした明日菜の耳が、みるみるうちに赤くなる。
けれど狭いスペースのせいで、大きく距離を取ることは出来ない。
むしろ動いた拍子に、さらに肩が触れた。
「す、すみません……!」
「謝らなくて大丈夫だよ。」
明日菜の反応を見て、頭の中で静かに確信が積み上がっていく。
拒絶が弱く、押せば行けるだろうと。
真子は刺激的な体験をくれ、久美子は安定して愛情をくれ、そして明日菜は徐々に俺の近さを承認している。
そんな風に彼女たちを整理している時点で、自分の人間性が損なわれている自覚はある。
だが、その自覚すらも最適化という言葉で塗りつぶした。
「一旦、休憩にしようか。俺も教授に挨拶してくるからさ!」
そう言って俺は席を立ち、そのまま廊下へ出た。




