第11話「【青】への相槌」
新しく買ったソファベッドは、以前のシングルベッドよりひと回り大きく、六畳の部屋を少しだけ狭くしていた。
壁際には、つい先日届いたばかりの大型モニターを設置した。
深夜の俺の部屋で、真子がドクペを片手にコントローラーを握っている。
「うわ、これ無理。人をダメにするソファすぎるー!」
だらしなく背もたれへ沈み込みながら、真子が笑う。
画面の中では、パズルゲームの連鎖ボイスがテンポよく響いていた。
「遅くなりがちだからな。終電逃しても腰痛くならないようにしといた。」
「え、なにそれ。私向けなん?」
「どうだろ。普通に便利だったから買ったってだけ。」
そう答えながら、俺はコンビニ袋から追加の酒を取り出す。
真子はすでにスカートを脱ぎ、勝手にタンスから出した俺のハーフパンツ姿に着替え、ソファの上で胡坐をかいていた。
テーブルには食べかけのポテトチップス、床にはゲーム機のケースと充電ケーブル。
終電を気にせず飲食し、いろんなゲームをして、そのまま眠くなったら寝る。
真子は、そういう空気を好む。
だから俺は、この部屋を少しずつ調整して、真子がなんとなく来る理由を、増やした。
恋人になりたいわけでも、縛りたいわけでもない。
ただ、他の誰かの部屋より、ここに来る方が楽だと思わせればいい。
それだけで、真子は自然と戻ってくる。
少なくとも、俺はそう考えていた。
実際、仕事でも似たようなことはよくある。
人は、使いづらいシステムから離れる。
逆に、多少問題があっても、便利で快適なら使い続ける。
だから必要なのは、感情論じゃない。
レスポンス速度や、手間の少なさ、選択コスト、それらは人間関係では居心地の良さと表現する。
上司や先輩からは、優先順位の付け方が上手いと何度か言われた。
複数タスクの並行処理も得意な方だと思う。
衝突しないよう予定を組み、矛盾が出ないようログを整理する。
必要なのは、感情じゃなく管理精度だった。
「直樹ー、ぼっとしてないで対戦するよー!」
真子がその美しく細い足をパタパタと振りながら、画面を見つめたまま俺に声をかけた。
「おう、じゃあやるか。」
考えていたことは一旦頭の片隅に追いやり、おれは真子の隣に座った。
真子はソファの上で膝を抱え、ゆるいTシャツの裾を気にも留めず画面に集中していた。
他人の部屋に来ているという遠慮が、こいつにはほとんどない。
その姿を見て、俺は今日も寝るのが遅くなりそうだと思った。
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いつもの昼休みの食堂で、久美子は今日も笑顔で蕎麦をすすっている。
「最近、ちょっと早く起きて1駅分歩くようにしてるんだ。あと、このリップ変えてみたんだけど……どうかな?」
昼休みの食堂で、久美子が少し照れたように笑う。
言われれば、前より輪郭がほんの少しだけ細くなっていた。
髪も、以前より丁寧に整えている気がする。
「いいと思うよ。なんか、前よりシュッとした気がするし。」
そう返すと、久美子は目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
久美子が努力していることは分かる。
分かるからこそ、その期待に応え続けなければいけない感じが、少しだけ重かった。
「ほんと?最近ちょっと頑張ってるんだ。」
その笑顔を見ながら、俺は頭の片隅で別のことを考えていた。
久美子のメッセージ返信頻度は安定しているし、共有カレンダーの入力精度も高く、急な予定変更はほぼ無い。
関係維持コストは、むしろ以前より下がっている。
久美子は楽しそうに次の話題を続けていた。
部署の話、最近ハマっている動画配信者の話、来月公開される映画の話。
興味の惹かれない話をされても、俺は適当に相槌を返す。
けれど、笑っている久美子の表情の奥に、うまく言葉になっていない違和感みたいなものが薄く残っていることに、気づかないわけじゃなかった。
ただ、それに触れる必要性を感じなかっただけだ。
その時、テーブルの端に置いていたスマホが震えた。
表示された名前を見て、俺は一瞬だけ思考を切り替える。
<那須明日菜>
大学の研究室の後輩で、俺と同じ研究を引き継いだ女子だった。
『研究のデータ整理で詰まってて……お忙しいところ、もし出来たら、少しアドバイス頂けませんか?』
やけに丁寧な文面で、俺にかなり気を遣っている感じがする。
俺は蕎麦をすすりながら、そのメッセージを眺めた。
明日菜のようなタイプに、頼られるのは悪くない。
それに大学時代に距離が縮まったらいいなと、少しだけ、いやかなり思っていた後輩だ。
しかも、向こうからの依頼で、俺が教えて感謝されるだけという、気分が良くなることしかない。
<久しぶり、元気?どの辺で詰まってるの?>
そう返信を打ちながら、俺は隣で楽しそうに話している久美子へ視線を戻した。
久美子は、俺がスマホを触っている間も、来月公開される映画の話を続けていて、終始楽しそうにしていた。
「ねえ、この前の一緒に見た映画の続編らしいんだけど、予告見た?」
「あー、見た見た。」
適当に合わせると、久美子は嬉しそうに笑う。
その表情を見ながら、俺は明日菜のメッセージを頭の中で整理していた。
直接見なければいけない課題なのか、返信速度はどのくらいなのか、休日の空き時間は使えるか。
つまり、どのタイミングなら、自然に会う流れへ持っていけるかということを。
そんなことを考えている間にも、久美子は楽しそうに話し続けている。
俺は相槌を返しながら、ふと、自分でも不思議に思った。
昔なら、目の前の相手だけを見ていたはずなのに、今は、会話をしながらでも、別の予定を組める。
複数の情報を並列で処理できることを、少しだけ心地よいと感じ始めていた。
その時、久美子の声が低めのトーンに変わった。
「……直樹?」
「ん?」
「なんか今日、ちょっと上の空じゃない?」
思いもよらない指摘に、一瞬だけ思考が止まった俺は、すぐに笑って誤魔化した。
「いや、午後の作業ちょっと面倒そうだなって考えてただけ。」
「そっか。」
久美子は納得したように笑い、また蕎麦をすすり始める。
「あ、そういえば、うちの部署ようやく今日歓迎会だって言われてた。今カレンダー入れるね。」
俺がスマホを開くと、久美子が「あー、やっぱり開かれるんだ」と笑った。
「忙しい部署だから、流れてたもんね。」
「でかめの案件がそろそろ結了で、その打ち上げ兼ねてって形みたい。」
共有カレンダーへ予定を入力しながら答える。
<18:00~20:30 部署歓迎会【橙】>
そう打ち込んだ直後、ふと、同じ部署に配属された同期の顔が頭をよぎった。
その名前は狩野里香。
配属後も、業務中に何度か話す機会はあった。
5歳以上年上に見えるような落ち着いた雰囲気で、質問の仕方が妙に丁寧だ。
しかし、会話のたびに少し緊張しているような空気がある。
真面目というより、空気に逆らうのが苦手なタイプに思える。
清楚な雰囲気でかつ細身であり、ああいうのは、飲み会だと面倒な先輩に捕まりやすい。
「狩野ちゃんも来るんでしょ?」
俺が考えていることが分かったのか、不意に久美子がそう言った。
「同じ部署なんだし。」
「あー、多分。」
「いいなー。狩野ちゃんと部署交換したい。」
久美子は頬づえを付きながら、冗談っぽく笑う。
俺はそれに笑顔を作りながら、頭の中で予定表を思い描く。
歓迎会は一次会で終わるだろうか、その後に明日菜への返信タイミングでも良いか。
複数の予定が、頭の中で自然に並列処理されていく。
「ふふ、また話聞かせてね。」
そう言って笑う久美子へ、俺も同じように笑い返す。
その直後、通知欄に残った<那須明日菜>の名前が、もう一度だけ視界へ入った。




