第5話 アフロディーテの逆襲
じっちゃん先生が、気を利かせてくれたのか、たまたまどこかに用事があったのか。
医務室で、私と直人さんは二人きりになった。
嬉しい。めちゃくちゃ嬉しいのに、気まずい。
私の鼻に突っ込まれたティッシュが、何とも忌々しい。
恥ずかしいので、背中を向けていたんだけど、時折私の背中に視線を感じる。そして、何かを話しかけようとする気配もあるけど、結局直人さんから声が掛かることがなかった。
そりゃそうよね。再会して、いきなり鼻血噴出なんて……余りにも驚く出迎えをされたら、何て声を掛けていいか分からないわよね。
ていうか、引いた? もしかして、引いた?
こんな女と、一生やっていけないなんて思われていたら、どうしよう……。
悶々といけない妄想をしてしまっている私は、きっと蒼白になっているだろう。
どうしよう。どうすれば、直人さんの心をもう一度掴むことが出来るんだろう。
心臓がバクバクして、血の気が引いて。
今までになく、心配で一杯になった私におずおずと声が掛かった。
「あの……まどかちゃん」
「ひゃ、ひゃい!」
「血、そろそろ止まったかな……」
あ、血ね、うんうん、血ね。
私は慌てて、鼻からティッシュを引っこ抜き、もう一度鼻をかんでみたら。
もう、血は出ていなかった。
「止まったみたい……」
「本当、良かった。大丈夫、クラクラしない?」
直人さんはほっとしたようにそう言ってくれるけど、振り返れない。余りにも、恥ずかしくて。
手にした血染めティッシュをゴミ箱へ捨てながらも、私はその場で俯いたままだった。だって、どんな顔をすればいいのか分からない。
しばらくそうしていたら、ふいに背後の気配が動き出した。
で、出て行っちゃうのかしら。無言でいたのは失敗だった!? 何とか適当に声を掛けておいた方がよかったのかしら。
だけど、どうすればいいか分からない私の前に、ふわりといい香りが漂った。
驚いて顔を上げると、椅子に座った私の目の前に、直人さんが跪き、私を覗き込んでいるのが見えた。
ボンッ、と顔を赤くしてしまった私の頬に手を伸ばし、直人さんは穏やかな笑みを浮かべている。
「まどかちゃん……久し振りだね」
「う、うん……」
「大丈夫、変わりはない?」
「う、うん……」
同じ返事しか繰り返せない私に、直人さんは笑みを浮かべて両手を差し出した。そして私は、彼の胸にぎゅっと包まれた。
久し振りの感触。一ヶ月ぶりのぬくもり。
おずおずと、直人さんの背中に手を回すと、小さな溜息が聞こえてきた。
「ずっと、こうしたかった」
「……私も……」
「やっぱり、メールや電話だけじゃ足りない。まどかちゃんが、俺の傍にいてくれないと、すごく寂しい」
胸が張り裂けそうになるほど、辛そうな声だった。
私は、会社の人たちや美咲ちゃんに大分癒して貰えてた。
だけど、直人さんはたった一人で……ああ、開発チームの人たちもいるけれど。でも、異国の地で、一人で頑張ってるんだ。
その直人さんが、誰よりも私を望んでくれている。
それが嬉しくて、だけど言葉にならなくて。
抱きしめる力を込めようとしたら、僅かに身体を離された。
あ、と思った瞬間。直人さんの顔が急接近して、私の唇が塞がれた。
唇の感触を確かめるように、啄ばんでいたそのキスは、すぐに深くなり。私の咥内を蹂躙する、直人さんの熱い舌。
それだけでクラクラしてきちゃうのに、直人さんは手で私の後頭部を押さえつけ、更に深く求めてくる。
息が荒くなり、もう限界ってところまで追い詰められ、やっと直人さんは私を離して、額と額をくっつけた。
「……一か月分、こっちにいる間に満たしてもいい?」
今までの一か月分? これからの一か月分?
どっちか分からないけど、聞くほど私も野暮じゃない。それに、私もたくさん欲しい。
小さく頷くと、直人さんは嬉しそうに微笑んで、身体を起こして私の手を取った。そして私を立ち上がらせ、手を握ったまま私を見下ろした。
「向こうにいる間、ずっと考えてた」
「何を?」
首をかしげた私に、直人さんは少し照れたように頬を染め、だけど柔らかい笑みを浮かべたまま、
「俺、まどかちゃんを幸せにする自信が100%持てなかった。だから、出張から帰ってきてから、結婚してもらおうと思ってた」
そうね、そう言ってた。
この大きなプロジェクトを成し遂げたら、きっと自分に自信がつくと思うから。だから、それから結婚して欲しいって。
私がうんうんって頷くと、直人さんは私から片手を離し、そして私の髪から頬をゆっくりと撫でた。
その目の色合いは、きっと誰にも見せないもの。私だけにくれるもの。
それが分かるから、ドキドキがマックスになっていく。
「でもね、違ったんだ。自信がある、無いなんて関係ない。俺にはもう、まどかちゃんが必要で、まどかちゃんがいない生活はあり得ない。離れている間、まどかちゃんのことが心配で堪らないし、俺自身も寂しくて仕方が無かった」
「直人さん……」
「自分勝手だけど。すごく我侭だけど。でも、俺の願いを聞いてくれる?」
「願い……?」
「うん。本当は、すぐにでも籍を入れたい。だけど、まどかちゃんの花嫁姿をちゃんと見たい。だから、来月帰ってきた時に、結婚しよう」
けっ……結婚!?
何たるスピード展開!!
直人さん、どうしたの!? どうしちゃったの!? 一体何がどうして、……ええええ!?
想像だにしていなかったその言葉に、私はどんな顔をしていたんだろう。
バカみたいに、ぽかーんと口を開けていたに違いない。
そんな私をくすくすと笑って見ている直人さんは、もう一度私をぎゅっと抱きしめて、軽く私を揺らした。
「こっちにいる間に、色々式場回ってみよう。パンフレットとか取り寄せて。ある程度形を決めたら、申し訳ないけどまどかちゃんに任せてもいい?」
「え、あ、え?」
「俺も出来る限り、一緒に選んでいくから。ネットから、ちゃんと式場の細かいところまで見れると思うんだ。メールとか電話で、話を煮詰めていくことも出来ると思うから」
「あ、そ、そうなの?」
「一人で全部決めさせることなんて、しないから。だから、来月でいいかな?」
そう言われて、断ることなんて出来るわけないじゃない。
それにね、すごくすごく嬉しい。それだけ、直人さんが私を深く求めてくれているってことだもの。
婚約じゃ、足りない。早く籍を入れたい。
そう思ってくれただけで、充分嬉しい。
私は直人さんにぎゅっとしがみ付き、赤くなった頬を緩めて何度も頷いた。
アメリカで、何があったんだろう。直人さん、すごく変わった。
きっと生き生きと仕事をしているんだろうな。英語になると、人が変わったように楽しそうになる直人さんのことだから。
そんな中で、考えてくれた私とのこと。
とても、幸せに思った。
夕飯の買い物を一緒にする約束をして、私は意気揚々と総務へ戻っていった。すると、真菜が意地悪い眼差しでこちらを見る。
「欲求不満女が戻ってきた。少しは不破さんに癒してもらったの?」
ふん、欲求不満で悪かったわね。でも怒らないわ。私は今、幸せ絶好調だから。
そして、ふと思いついた。
そうだそうだ、来月何日から直人さんはこっちに戻ってくるんだっけ。
直人さんのスケジュールを確認して、カレンダーに目を向けた私は、思わずにんまりと笑みを浮かべてしまった。
「ぐふっ」
「なっ、何よ、気持ち悪いわね」
「真菜、ちょっと来て」
真菜の手を引き、尾崎係長の下へと言った私。笑みが全く止められない。
「あら、山岸さん、嬉しそうね。不破さんともう会えたの?」
「ええ、つい先ほど。係長、それから真菜。私、来月結婚することになりました」
「まあ、そうなの。それはおめでとう。来年の予定が早まったのね」
尾崎係長も嬉しそうに笑う。真菜は別段驚きもしないで、ふーんと言っているけど。そんな顔をしているのも今のうちだけよ。
私はにんまりと笑い、手にしていた据え置き用のカレンダーをめくって指差した。
「この辺りで不破さんが帰国するので、式を挙げようと思います。それから、一週間のお休みを頂きます」
「はあ!? な、何で一週間!?」
真菜が想像通り、盛大な声を上げて目を見開く。
私はにんまり笑顔を絶やさずに、更にぐふぐふ声を漏らして言った。
「だって社員が結婚したら、一週間の休暇をもらえるでしょ。当然の権利でしょ。そう社則にあるでしょ」
そう高らかに言うと、尾崎係長は苦笑を浮かべ、真菜はキィーッ! と悔しそうに地団駄を踏んだ。
「一週間!? 一週間ですって!? その間の仕事どうすんのよぉー!」
「頑張ってね、という訳で、よろしくお願いします」
私は手をひらひらと振って、今からその休暇に向けて仕事のペースを上げるべく準備を始める気合を入れていた。
真菜にはああ言ったけど、出来るだけ仕事を遣り残さないようにしなくちゃ。
そして休暇は、直人さんがアメリカに戻るのに合わせて、私も一緒に着いて行っちゃおう。勝手にサクサク決めちゃったけど、直人さん喜んでくれるかな?
直人さんも、ちょっとは休み、取れるかな?
少しでも、一緒にいたいから。
夜、この報告をするのが、とっても楽しみになった。




