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恋するアフロディーテ  作者: 沙莉
恋と好きの意味

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第2話 秘密のメモと第五会議室

手にした郵便物をそのままに、私はしばし硬直してしまった。いつも、朝の挨拶を最後にするのは直人さん。


彼から返事を貰うことは滅多になかったけど、少し顔を赤らめて、軽く頭を下げる姿を見れば、私の仕事やる気モードが全開になる。だから、最後に挨拶したかった。


だけど今は……ずるい私。イライラしている石橋さんよりも先に、直人さんの机の端っこに、いくつかの封筒をそっと置いた。


「おはようございます、不破さん」


名前で呼ばないほうがいいよね、会社では。そう思って挨拶すると、相変わらずパソコンから目を離さずに、直人さんはぴくりとキーボードを叩く手を止め、そして、そしてね。


「おはようございます、山岸さん……」


奇跡が起きた!!


直人さんが、パソコンに目を向けたままだけど。消え入りそうな、小さな声だったけど。


挨拶をしてくれた!


私はもう、土曜日の二人の時間がめくるめく走馬灯のように思い返され、鼻息が荒くなりそうなのを止めるので必死だった。


嬉しくて、頬が緩みそうになるけど、その瞬間に石橋さんから殺気あるオーラを感じて、思わず浮かんだ微笑みが硬直してしまった。


でも、けど。


後姿しか見えないけど、髪から僅かに覗く耳が、ほんのりと赤くなっている。


直人さん、勇気を出して挨拶してくれたのね。うん、私も、勇気出てきた。私たち、別に悪いことしているわけじゃない。石橋さんにビクビクする必要なんてない。堂々としていればいいんだ。


私は、こんな照れ屋な直人さんが好き。直人さんも、私のことを好きだって言ってくれた。これだけで、充分じゃないの。


石橋さんは、ことあるごとに私にアプローチしてくれたけど、私は一度でもそれに応えたことはないし、むしろちゃんと拒否してきた。彼に気のある素振りをしたことなんてないんだから、私は私のままでいればいい。


そしてそこで、石橋さんがどう出るか分からないけど。もし、万が一。直人さんに何かしたら、絶対許さないんだから。


恋する女は、無敵なんだから!


決意を新たにした私は、軽く深呼吸をして、立ち上げてもいないパソコンのディスプレイを不気味にじっと見つめている石橋さんに、そっと郵便物を差し出した。


「おはようございます、石橋さん」


「…………よう、そこの色男。今日も相変わらずブスッとしてやがんなあ。全く毎朝毎朝、気分を最悪にさせてくれて、本当に感謝するぜ」


低い声で、石橋さんが呟き、私から受け取った郵便物をデスクに投げつけるかのように置いた。


そして立ち上がり、片手をバンッ! と直人さんの身体とキーボードの間に叩きつける。


「おい、お前さ、すんげえ勘違いしてねえ? まどかが本当にお前に惚れてるとか、痛い思い込みしてんじゃねえの?」


「ちょ、ちょっと石橋さん!?」


何を突然言い出すの! 私は慌てて二人の間に割り込もうとしたけど、石橋さんは私を一切見ることなく、更に身体を傾けて直人さんに顔を近づけた。


「不破、てめえ見てるとマジで腹立つんだよ。何? 一匹狼気取ってんの? 俺、仕事出来ますから、あんた達に付き合ってなんかいられませんってか? ふざけんなよ、このやろう!」


石橋さんは、今まで溜めていた鬱憤を晴らすかのように、無言でいる直人さんを侮辱し続ける。


鬱憤? そんなの、有り得ない。だって今まで、言いたい放題直人さんに攻撃してたじゃない。


それを直人さんは、いちいち反論なんてせず、いわゆるスルーでかわしてきた。


石橋さんにしたら、それがまた腹が立つ原因の一つになっているのかもしれない。相手にされていない、というのに薄々気付いてきたのかも。


それでも、一番腹立っているのは、言われ続けてきた直人さんのはずなのに。


ムカムカムカ。凄く腹が立つ。信じられない、許せない!


「ちょっと、石橋さん!? なんなのよ、朝から。そもそも……」


私が我慢出来ずに無理矢理二人の間に身体を割り込ませて、そう強く声を上げたら。


「山岸さん」


背後から、声がした。


え?


振り返ると、直人さんがディスプレイから目線を外して、ああ、嘘でしょ。


まっすぐに瓶底眼鏡越しに、私を見上げていた。


こんな状況だというのに、私はどこまでお気楽に出来ているんだろう。頬が紅潮していくのが分かった。


「は……はい…………」


かろうじて返事をすると、直人さんはメモパッドにさらさらと何かを書いて私に手渡しながら言った。


「今日午後一で打ち合わせがあるんだけど、コーヒーを五人分、用意してもらえますか」


直人さんは、入社当初から私に何かお願い事があるとき、必ず敬語で言ってくれる。気にしなくていいのに、これが私の仕事なんだから。でも、私をただの雑用と見ている訳じゃないようで、とても嬉しかった。


「はい、分かりました」


「不破、てめえのそういうシレッとした態度が気にくわねえんだよ! 何だよ、何事もなかったかのように! すげえムカつくヤツだな、マジで!!」


石橋さんが再び憤慨してきたので、私はキッと彼を睨みつけた。


「何よ! 仕事の件なんだから……」


「山岸さん、それから」


私が言いかけるのを、またも止める直人さんの声。


「室長が、さっきから、山岸さんを探してたみたいだった」


「え、本当?」


「ああ、早く行った方がいい」


「ありがとう…………」


何だろう、急用かな。石橋さんは勢いを殺がれたようで、大きく舌打ちをして、振り返り自分の椅子を豪快に蹴り飛ばして居室を出て行ってしまった。


しん、と静まり返っていた居室が、彼がいなくなったことで静かにざわめきだす。きっと、私たちのことを噂話しているんだ。


ああ……どうしてこんなことに。


私は小さく吐息を漏らして、ふと直人さんから預かったメモに目を落とした。


『メール 見て』


それだけが、書いてある。


私は弾かれたように、パソコンを立ち上げた。うう、セキュリティーシステムが組み込まれているから、立ち上がるのが遅い!


こうしているのももったいないから、パソコンを立ち上げるまでの間に室長室に行ってきた。用事は、大したことのない内容だった。


再び自分のデスクに戻り、メールを見てみると、数多くの未開封メールの中で、ああ、あった、最新のものが、直人さんからだった!


初めて。直人さんから、個人的にメールをくれるなんて。震える指先で、メールを開封すると…………。



『山岸様


五分後に、第五会議室へ来てください


不破』



第五会議室? ここは、小さな会議室で、WEB会議とかでしか使わないような場所。


首を傾げて振り返ると、もう直人さんの姿がない。嘘、早っ!!


私も慌てて会議室へ向かい、扉をノックして中に入る。


「失礼します」


そっと中を伺うと、窓際に外を眺めていた後姿が。細身で、だけどちょこっとダボダボのスーツを着ている直人さんが待っていてくれた。


ドキドキドキドキ…………緊張してくる。


「あ、あの……」


小さく声を掛けると、直人さんが振り返り、はにかんだように微笑んだ。


「ごめんな、こんな呼び出し方して。でも、二人で話しているところを石橋が見たら、またキレちゃうかなと思って」


「ううん……いいの、大丈夫。あの、何か話があるの?」


そう言いながら、少し不安になってきた。


石橋さんが、直人さんにあんな言い方をしたの、半分は私のせい。私が、石橋さんの誘いを蹴り飛ばして直人さんを選んだ……選んだという言い方は良くないか。


私が、直人さんを、好きだから。


だから、もう俺に話しかけないでくれ、なんて言われたらどうしよう!


一人落ち込んでいきそうになる私に、直人さんは口元に淡い笑みを浮かべたまま近づいた。


ああ、その微笑、危険なのよ。気付いているのかしら。落ち込んだ私の気持ちが、急浮上してしまうのに。


本当に、好きで好きで堪らない。


改めて、そう思ってしまうのよ。


「まどかちゃん、俺、石橋に何を言われても大丈夫だから」


「……え?」


思いもしない言葉が投げかけられた。


私はびっくりして、硬直してしまった。


「今までもずっとこんなんだったし、もう今更何を言われても堪えないよ。ただ、あいつの攻撃がきみに向かうのが怖い。だから、なるべく石橋を刺激しないようにして」


私の目の前に立った直人さんの微笑が、少し困ったような、悲しげなものに変わっていく。


どうして……だって今、私、嬉しいのに。


さっき、私が石橋さんに反論しようとしたのを遮ったのは、そのためだったのね。


私を想ってくれての行動に、私、今、とっても感激してしまっている。


それに、会社の中で、『まどかちゃん』て。まるで夢をみているみたい。


「ごめんな、俺がもっと強く石橋に言えればいいんだけど。今のままだったら、きっとあいつの牙は俺にだけ向けられているから。しばらくは、このまま様子をみたい。どうすればいいか、考えるから。それまで……情けなくてごめんな…………」


そう目線を落とす直人さんに、私は耐え切れずに抱きついてしまった。


直人さん、私にとって一番いい方法を考えてくれているのね。それが、凄く嬉しいの。


「直人さん、情けなくなんてないわ。ありがとう、私…………!」


それ以上言葉にならなくて、直人さんの胸に顔を押し付けてしまっていると、ぎゅっと私の背中が抱き寄せられた。


「まどかちゃん、……ええと、その……」


言いよどんでいる直人さんを見上げようとしたら、頭もギュギュッと押さえつけられてしまい、動けない。


耳に当たる心臓の鼓動が、とっても早い。


何を言おうとしているの……?


直人さんは、私を強く抱き締めたまま、小さな、それは蚊の鳴くような声で囁いた。


「愛してる……」


胸が、一挙に苦しくなった。


キュンとなるってこういうことを言うのね。


まさか直人さんから、こんな言葉を貰えるなんて。


私は何だか涙が浮かびそうなのを、必死で堪えて何度も何度も頷いた。


「私も……私も!」


大変なことが、これからたくさんあるかもしれない。


だけど、直人さんの腕の中という最高の場所を確保し続けるためには、どんな努力も惜しまないわ。絶対この場所、手離さない。


だって生まれて初めて。こんなに居心地のいい空間。


直人さんは私のこと、心配して言ってくれるけど。でも、いつかはちゃんと石橋さんと話しなくちゃいけないと思ってる。


ちゃんとまともな話し合いになるといいんだけどな……。


そして更に、直人さんへの攻撃の手を緩めてくれるようになるといいんだけど……。


幸せな空間の中で、私は複雑な思いに満たされていった。

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