第1話 寂しさは、二人で半分こ
次の朝、直人さんは気の毒なほど具合が悪そうだった。
昨夜、酔いつぶれてしまった彼をパジャマに着替えさせるのを断念したので、直人さんは少し皺になってしまったスーツのまま起き上がり、真っ青な顔で口に手を当ててトイレに駆け込んだ。
ひとしきり便器と仲良くなった直人さんは、私が差し出した水で口をゆすぎ、ソファに死んだようにしばらく転がっていた。
こんな直人さんを見るの、初めて。
うー、としばらく唸っていたと思ったら、また突然トイレに駆け込んで。
そんなことを何度か繰り返している彼に、私は心配でたまらなくなり、恐る恐る声を掛けた。
「あの、大丈夫? そんな状態で、飛行機に乗れるの?」
「……多分。機内で、寝てる。……胃薬って、あったっけ」
「あっ、うん。確かここに……直人さん、シャワー浴びてきたら? 少しはさっぱりするかも」
胃薬を探しながら提案をすると、直人さんは力なく立ち上がり、「そうする」と小さく呟いて浴室に向かっていった。
可哀想な直人さん。これも全て里佳のせいだ。今日はしっかりと里佳に文句を言わなくちゃ私の気がすまないわ。
……勝てる気がしないけど。返り討ちにあいそうだけど。
探し出した胃薬を、コップに満たした水と一緒にテーブルに置いていると、スウェットの上下を着た直人さんが、髪をタオルで拭きながら出てきた。
「どう? 少しは気分良くなった?」
「うん、心配掛けてごめんな」
直人さんは、多少赤みが帯びてきた顔に苦笑を浮かべてソファに腰掛けた。さっきまで、紙のような真っ白い顔だったもの。どうなることかと思った。
直人さんが胃薬を飲むのを見守っていると、彼はふと私を見て、首を傾げた。
「そういえば……まどかちゃんが二日酔いになった姿って、見たことが無い」
突然そんなことを言い出した直人さんに、私も指先を顎に当てて首を傾げる。
そうね、そう言えば。すぐに酔っ払っちゃう私だけど、二日酔いって経験ない。
気持ち悪いとか、頭が痛いとか。
そんなことを良く聞くけど、私自身はそんなことになったことがない。
「うん、無いわ。二日酔いになったこと、無い」
そう言うと、直人さんは僅かに目を見開き、含んだような笑みを浮かべた。
「そうなんだ。強いんだね」
「強い? 私?」
「うん。きっと強いんだ。そっか、じゃあ、まどかちゃんと、お酒で勝負をするのはやめておこう」
直人さんはくすくす笑いながら立ち上がり、着替え始めた。
出る準備、始めるんだ。
それを見て、私は何だか気分が急下降していくのを感じた。
あと少しで、直人さんがいなくなってしまうこの部屋。
来月には戻ってくるけど、でも一ヶ月は直人さんがいなくなってしまう。
笑って見送ろうと心に決めていたのに。
直人さんの支度する、一挙一動を見守りながら、私は今にも泣き出しそうなのを必死で堪えていた。
行かないで。
その言葉を飲み込みながら、段々ぼやけていく視界に、直人さんを収め続けた。
ネクタイを締める手。鏡に向けた眼差し。無駄なく忙しそうに動き回る足。
その全てを、一つでも見落とさないよう、ただ無言で直人さんを見つめ続けた。
そんな私を訝しげに思っただろう直人さんは、時折私に振り返りながら、にこりと微笑んで。それでも私に声を掛けることなく、ただ慌しく身支度をしていた。
今日は朝御飯は食べないと前から言っていた。早い時間だから、空港で食事をするつもりなのかも。
だから、直人さんは準備が整うと、ソファにもう腰掛けることなく、そのまま大きなスーツケースを手にした。
それを見た瞬間、バクン、バクンと心臓が凄いスピードで鳴り始める。
私の中の『行かないで』という、決して口にしてはいけない言葉が、もう喉まで出掛かっている。
だめ。絶対言ってはいけない。
ちゃんと見送るんだ。笑顔で見送るの。
ずっと心に決めていたじゃないの。覚悟出来ていたんでしょ?
私は手のひらをぎゅっと握り締めて、立ち上がった。
玄関で靴を履いた直人さんが、振り返って私を待っている。
『行ってらっしゃい』って、私が笑顔で見送るのを待っている。
だから、私は頑張って、いつものように笑顔を……笑顔を…………
「ふぅぇ…………」
溢れ出した涙が、止まらない。私は両手で顔を押さえ、そのまま堪えきれない嗚咽を出してしまった。
「ふっ……うっ…………」
だめ。泣いちゃだめ。
まどかの根性なし。直人さんを信じて待つって決めたくせに。
だけど、心の奥底にある、『寂しい』気持ちが、どうしても消え去ってくれていなかった。好きだから。とてつもなく、直人さんのことが大好きだから。
だからやっぱり離れてしまう時間が、とても寂しい。
「やだ…………」
「まどか…………」
ふわりと私を包むぬくもり。耳元で囁いた直人さんは、ぎゅっと私を強く抱きしめた。
スーツが濡れちゃうのが分かっていても、私はその胸に顔を押し付けてしまった。
そして、思わず漏れてしまった言葉。
「いっ、行かないで、行っちゃやだ。ふぇっ、私を、私を一人にしちゃやだ…………っ!」
ああ、言ってしまった。
口にしてはいけないと分かっているのに。
言ってから激しい後悔の念が、私を襲うけど。でも、どうしても我慢が出来なかった。
直人さんは、何度も小さく頷いて、私に巻いた腕に更に強く力を込めた。
息苦しいほど私を抱きしめ、直人さんは搾り出すような声で囁いた。
「俺も。俺も行きたくない。まどかと一緒にいたい。離れたくない」
その言葉で、私ははっとした。
そうか…………そうね。
寂しいのは、私だけじゃない。離れたくない思いは、一緒。
直人さんも、私と同じ思いを抱いてくれている。
この瞬間、どうしてだろう。
私は直人さんと、初めて一つになれたような気がした。
そう思ったら、段々気持ちが落ち着いてきて。
私はそっと、直人さんの胸に手を当てた。僅かに緩ませてくれた腕から身体を少しだけ離し、直人さんを見上げると、彼は今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。
私のために、こんな思いをしてくれているのね。
それがとても嬉しくて、私は直人さんの頬に手を伸ばした。
「待ってるわ。次に会ったとき、前よりも綺麗になったって思ってもらえるように、頑張りながら待ってる」
「まどか……」
「だから直人さんも、頑張ってね。次に会ったとき、前よりも素敵になったって惚れ直しちゃうように」
確実に、そうなるだろう。分かってる。
だけど私がくすりと笑って悪戯っぽくそう言うと、直人さんは頬に当てた私の手をぎゅっと掴んで、その手の甲に唇を押し付けた。まるで、彼の感情を堪えているようなその行為を、私はただ黙って見つめた。
やがて私の手から唇を離すと、直人さんは表情を柔らかいものに変え、私の後頭部に手を当てた。そして段々近づいてくる、私の愛おしい大好きな人の顔。
「行ってくるね」
直人さんは、短くそう間近で囁くと、私の唇をそっと塞いだ。
柔らかく啄ばむようなキスを繰りかえし、惜しむように私から唇を離すと、「引き出し、三番目」と暗号のようなことを呟いた。
「え?」
と問い直しても、直人さんはにこりと笑うばかりで教えてくれない。
「それじゃ、行ってくる。向こうに着いたらメールする。電話できる時間になったら、電話するから」
「うん。待ってるね。行ってらっしゃい。気をつけてね!」
最後は、ちゃんと笑顔で。
明るい日差しの中、直人さんは何度も振り返りながら私に手を振り、大きなスーツケースを引き摺って、空港へと向かっていった。
直人さんが見えなくなるまで、外でお見送りをした私は、随分と気持ちが暖かくなっていた。
本当にもう、何の不安も心配も無い。
直人さんのことだから、今回のプロジェクトも大成功で帰ってくるだろう。そうなるように、私が出来ること。
一ヶ月に一度の帰宅を、居心地いいものに出来るよう、今から早速プラン考えよう。
何となくウキウキしながら部屋に戻り、ふとさっきの直人さんの言葉を思い出した。
引き出し、三番目?
何だろうと思いながら、テレビ台の横にある四段の引き出しの、三段目を引くと。
そこにあったのは、白い何の柄もない封筒。
差出人も宛名も無いその封筒を手にしたら、何だかずっしりと重たい。いったい便箋何枚分? というような厚さ。
だけどそれが何なのか、私にはすぐに分かった。
分かってから、凄く嬉しくて。私はその封筒をぎゅっと胸に抱きしめた。
前の彼女に書いた手紙よりも、長い手紙。
直人さんの優しさが、何よりも一番嬉しかった。




