第5話 勇者の咆哮、独占の誓い
背後の直人さんのオーラがあまりにも怖すぎて振り返れず、ピキーンと固まった私の目の前で、石橋さんが眉間に皺を寄せて更に身体を私に寄せた。
というか、直人さんに身体を寄せたんだろうけど、真ん中に挟まれた私に近づいたのは間違いない。
「おう? 不破、てめえ俺に何か文句あんのかよ。言いたいことがあんなら言えよ、ああ?」
そう言う石橋さんは、酔っている。完全に酔っ払っている。
目が宙を彷徨っているし、顔は見事に真っ赤。
だけど直人さんに威嚇する口調は、凄く強い。
思わずカチンと来た私は、「あのねえ!」って文句を言おうとしたんだけど、それを止める腕。
私は背後から抱きしめられて、引き寄せられた。
あまりのその強さに、座布団からお尻が落っこちて、目線は天井近くに向けられている。
背中に、弾力ある暖かいものが当たる。それが直人さんの胸だと分かるまで、数秒掛かった。その間に、頭上から低く舌打ち交じりの声が降り注いだ。
「まどかに近づくな。何なんだお前は。まどかはお前じゃない。俺と婚約したんだ」
……誰ですか。
この怒りに満ちた言葉を吐く人は、一体誰ですか。
ぽかんと天井を見上げていると、石橋さんの激怒ちっくな声が聞こえてくる。
「んだと!? まどかはなあ、お前みたいなダッセー男に釣り合うような女じゃねえんだよ! バカか、調子に乗ってんじゃねえよ!」
「気の毒にな、結局まどかの表面だけしか見てないんだな、お前は」
更に響く、冷たいきつい声。
ねえ、誰か教えて。私を捕まえているのは誰。
そしてこの声を放つ人物は一体誰。
しん、と静まり返った宴会場。
直人さんの壮行会というこの場所で、最悪なバトルが繰り広げられている。
そして私は、全然頭が回転していない。止めなくちゃいけないのに、あまりに驚きすぎて、身動き一つ出来ずに、みっともなく上半身を直人さんの胸に預けて腰を滑らせ、石橋さんに足を投げ出している格好で硬直していた。
「大体なあ!! 不破、てめえのそのすかした態度が気に入らねえんだよ! 何だよお前、俺のことバカにしてんのか!?」
「すかしてる?」
そう言うや、謎の声は、はっ、と明らかにバカにしたような声を上げた。
「そう思ってるんなら、別にそう思われていても構わない。どうでもいい。俺はお前の考えや感情なんて、眼中にないね」
「はあ!?」
「デカい口叩く前に、男なら結果を残せ。それからものを言え。みっともないぞ、負け犬の遠吠えは」
ひっ、ひぃ…………!!!
きっと、多分。見なくても分かる。
石橋さんは、顔を更に真っ赤にして、言葉も出ずに怒りに打ち震えているだろう。
そして、冷徹な声を放つ人物は…………。
人間って、怖いもの見たさってある。絶対そういう感情ってあると思う。
この時の私は、まさにそれ。
しーんと静まり返り、石橋さんの無駄に荒い鼻息だけが鳴り響く中、私は恐る恐る顔を上に上げた。
そこに、眼光鋭く正面を見据えた、私の愛おしい、だけど初めて見る表情を浮かべた直人さんがいた。
冷ややかで、限りなく表情を消し去ったその直人さんが、私が間抜けな姿のままで顔を上に上げて、彼を見上げていることに気付き。
ふと、こちらに目を落とした。
ぴきーんと固まった私は、直人さんの眼差しが徐々に柔らかくなっていくのを感じ。
そして彼が一瞬だけ私に微笑んだのを見て。
どうしようもなく、私はこの人に愛されているのを知った。
私から目を離した直人さんは、再び眼差しを正面に向ける。石橋さんに、目を向けている。
そして刺したとどめは。
「まどかは、絶対誰にも渡さない」
決して、大きな声じゃなかった。
激しい口調でもなかった。
だけど、私の心臓はもうどうなるのか分からないくらい、激しく鳴り続ける。
バックンバックン鳴って、口から飛び出て身体に収まるのを繰り返しているんじゃないかと思うくらい。
一瞬後、きゃああ、という女子社員の悲鳴と男子社員の興奮したようなどよめきの中。
直人さんは、ふっと一瞬笑みを浮かべたかと思うと、がっくりと顔を前に倒した。
ということは、私の目の前に直人さんの顔があるということで。
「うひゃっ!?」
思わず妙な声を放つ私の耳に、冷静極まる女の声がした。
「ふむ、三十五分か。思ったよりも持ったわね」
……はい?
何、それ。
「発熱した時の状態って、酔った時の状態と似ているって、どこかで聞いたことがあるのよね」
楽しげな声が響く。
「それって、結構当たってるかも。酔った不破さんって、熱出した時の彼と同じだったわ。確認出来て、満足満足」
はああー!?
私は驚くべき速さで身体を回転させ、直人さんの崩れ落ちそうな身体をキャッチして、彼越しに、グラスを手にしている悪友を見据えた。
「里佳ー!?」
「あら、寝ちゃったの。根性無いわねえ。まあ、そっちのチキンは更に根性無しだけどね。結果を残せと言われて黙りこくるなっつーの。反論しろっつーの。だから男はダメなのよねー」
最後の、ねー、は女子社員たちに向けた言葉。それに激しく同意する彼女たちはもうそれから大盛り上がりで。
正反対に、居並ぶ男性社員は若干俯き加減で、それからずっと大人しくお酒を飲み続けていた。
抱きかかえていた直人さんが、ほんのり赤くした顔で熟睡しているのを見て、テーブルの上を見た。
とっても小さなグラスが、いくつも散乱している。
……テキーラ飲まされたのか…………。
残業続きで疲れ果てた身体に、これは効くだろう。
ゆっくりと直人さんの頭を私の膝に落とすと、里佳が立ち上がって私の耳元で囁いた。
「帰り、大変ねえ。頑張りなさいね」
「里佳、覚えていなさいよ」
私が彼女を睨みあげると、里佳は唇の端を上げる、いつもの皮肉な笑みを浮かべた。
「あら、感謝されても恨まれる覚えは無いわね」
「里佳!?」
「『まどかは絶対誰にも渡さない』。この言葉を出させただけでも、私に感謝しなさいよ」
ひくん、と私の頬が動いた。
だって……だって。
いくら酔っていたからとは言え、嬉しかったのは本当だもの。
直人さんの口から、熱い言葉が吐き出されたのを聞いて、心が躍ったんだもの。
「…………うふ」
「気色悪い」
「うるさい。もう少し浸らせて」
「家に帰ってから、妄想しなさい」
里佳に釘を刺された私はそれでも、直人さんの言葉を脳内で反芻している。
私の膝で熟睡する、彼の顔を撫でながら。
「……ぐふっ」
漏れる笑みは止められない。
だけど右横が、やけにうっとおしい。グズグズと何か呟き、それを男性社員が宥めている。
私は直人さんの頬を撫でながら、そちらに目を向けた。俯いたままの石橋さん。身体、左右に揺れている。今日のこと、寝て起きて覚えているのかしら?
「石橋さん」
声を掛けると、彼はびくりと身体を震わせた。だけど、俯いたままだった。
私は直人さんから手を離さずに、そのまま頬を撫でたまま。
石橋さんの横顔を真っ直ぐに見つめて、
「石橋さんの気持ち、応えてあげられずにごめんね」
「…………」
「私、今まではっきりと断ってきたつもりだったんだけど、中途半端だったのかも。それもごめんね」
「…………」
「私、入社当初から直人さんが好きだったの。直人さんだけが好きだったの」
「…………」
「私ね、入社式で迷子になっちゃったの。ほら、会場突然変わったでしょ? それを教えてくれたのが、直人さんだったの。それから、直人さん一直線なの。私は、直人さんしか見えないの。だから、ごめんね」
私がそう言うなり、石橋さんはテーブルに突然うつ伏せてしまった。そして声を大きく張り上げる。
「とっ、とどめ刺されたー!!」
ええええええ!!
さっきの直人さんのがとどめじゃないの!?
今の私の言葉がとどめなの!!
人目もはばからず、わんわんと泣く石橋さんの周りに、男性社員が集まっていく。
「うん、分かる。失恋は辛いな。お前はちょっとバカな行動ばっかだったけど」
「バカ言うなー!」
「現実を見つめる力がついた。それだけでこの恋は無駄じゃなかった。な?」
「いらね、そんな慰めいらねえ!!」
そのやり取りを耳にして、私はくすりと笑って直人さんの寝顔に顔を寄せた。
「早く、お開きにしてもらって帰ろう?」
小さく囁くと、熟睡している直人さんの頬が緩んだような気がした。
早く、帰ろう。
そして明日の朝まで。許される時間まで、抱き合おう?
あなたのぬくもり、早く欲しい。
照れ屋さんで恥ずかしがり屋さんの彼の、心の奥底にある熱い思い。
それを聞けて嬉しかった。
きっと明日はこのこと覚えていないよね。言わない。他の人にも、言わないようにお願いしておこう。
だけどずっと覚えている。
これから先、もし喧嘩をしちゃったとしても。直人さんに、ムカつくことがあったとしても。
あの一言を思い出せば、きっと全部許してしまうだろうから。
「私も、直人さんを誰にも渡さないわ」
そう囁き、艶やかな黒髪をそっと撫でた。
最愛の人を、手に入れた。
今日が一番、それを実感したような気がした。
明日は絶対泣かないでお見送りしよう。
だって、月に一度の約束。
直人さんは私の元へと『戻って』くるんじゃない。『帰って』くるから。




