第2話 主任の名刺と、香りのエール
穏やかな日々が、過ぎていく。
あの手紙の一件は、私と直人さんの絆を更に深めてくれたような気がしていた。
もう私は迷わない。不安もない。
離れていても、私はちゃんと直人さんを愛し続けていけるし、直人さんも私だけを見てくれることを確信しているから。
どんなに私たちの間に距離が出来ても、心はいつも寄り添っていける。そう、信じていける。
会社でいつものように仕事をしていた。キーボードを打ちながら、時折左手に目を落とした。
そこに輝く、小さなダイヤの指輪。
ふと手を止めて、その指輪に右手でそっと触れた。
直人さんが、傍にいてくれるようで、とても嬉しい。可愛い婚約指輪、貰えてよかったな。
思わず頬が緩んでしまうと、「山岸さん」と横から声が掛けられた。
顔を上げると、そこに大分以前よりも落ち着いたメイクになった、元マーケティング担当の一人、島村さんが手に白い箱を持って立っていた。
「忙しいところ、すんません。山岸さん宛ての荷物が届いてるんすけど」
「あ、ごめんね、ありがとう」
私はそうにこりと笑みを浮かべて、その箱を受け取った。
「何かしら? ……ああ、名刺だ」
尾崎係長が、昇進したときに発注した名刺。ついでに私の分も作ってくれたのだった。
それが完成して、届けられたらしい。
島村さんが興味津々で覗き込む中、私はその箱を開けて中身を取り出した。
小さな長方形の少し厚い紙。
そこに会社名と会社のシンボルマーク。私の名前の前に、小さく「主任」という肩書きが書いてあった。
「すげえっすね。山岸さん、本当に主任なんだ……すげえ」
私の名刺を見つめ、『すげえ』を連発する島村さんを見上げ、私はくすりと笑った。
「島村さん、最近凄く頑張ってるのね。真菜……ええと、横峰さんがとてもあなた達を褒めていたわ。これからも彼女を助けてあげてね」
「えー、横峰さんが!? マジですか! うちら、年中怒られてんのに!!」
本気で驚いた顔をしている島村さんに、私は笑いが止められなかった。
くすくす笑いながら、何度も頷く。
「本当よ。彼女は、仕事が本当に出来ない人には、怒らないわ。あなたたちを、ちゃんと認めているわよ」
真菜も、里佳も。
自分の仕事に誇りとやりがいを抱いて頑張っている。
困っちゃうくらい、気が強い二人だけど。でも、前向きで真っ直ぐな二人を私は大好きだし、二人に恥じないように私も頑張っていきたい。
私は心の中でそう呟いて、ふいに島村さんの顔を失礼ながら眺めてしまった。
「……なんすか?」
困ったような表情を浮かべた彼女に、私は慌てて手を振った。
「あ、ごめんね。島村さん、最近随分と綺麗になったなあと思って」
「マジッすか!! いやー、メイクの仕方、山岸さんに教わった通りにはちょっと難しいんすけど、自分なりに勉強している最中なんすよ」
「そうなの?」
私が少しでも役に立っているのなら、嬉しいけど。でもぴんと来た私は、目を細めて彼女に含み笑いを向けた。
「それだけじゃないでしょ。……あなた、恋してるわね?」
私の意地悪な問いかけに、島村さんは急に顔を真っ赤にして、瞬きを繰り返し。
口を何度かパクパクさせたけど、諦めたように苦笑を浮かべた。
「やっぱ山岸さんには敵わないっすね。実は、男が出来たんす」
「そうなの! それはおめでとう!」
「いやー、……男の好みに合わせるのって、今まで嫌だったんすけど。でも、今回はちょっとばかり、本気になっちゃって」
照れる島村さんを、私は何だか幸せな気分で見上げていた。
そうね、自分を男性で変えるなんて、したくない女性は多いと思う。
だけど、好きな人の好みの女の子になっていきたいという思いが、私にはよく分かる。
だって、私もそうだから。
直人さんが好きだから、彼の好みの女の子になれるように、努力していきたい。
彼は決して自分の好みのタイプを口にはしないけど、でも、少しでも可愛いな、綺麗だなって思ってもらいたい。
自己満足でしかないかもしれないけど、そういう努力って、決して無駄じゃないと思う。
そしてそれが出来る『今』が、とても幸せだと思う。
夜になり、二人でお夕飯を食べた後、テレビを見ながらまったりと過ごした。
こういう時間、大好き。
ソファに並んで座り、そっと手を伸ばすと絡めてくれる指先。
私も直人さんも、目線はテレビに向けたまま。だけどちゃんと、私たちは繋がっている。
ずっとずっと、私は一人じゃない。
私の傍には、いつでもどこでも、直人さんがいる。
「あ、そうだ」
ふいに思い出した私は、片手で鞄を引き寄せた。そして「ごめんね」と言いながら手を離して、買ったばかりのカードケースを取り出した。
中から、一枚の名刺を取り出し、直人さんに差し出した。
「今日、出来上がって来たの。見て?」
首を傾げた直人さんがそれを受け取り、目を落とすと。彼は嬉しそうに微笑んだ。
「まどかちゃんの、名刺だ」
「そうなの。何だか恥ずかしいけど、でもちょっと嬉しい」
私が照れたように笑うと、直人さんの大きな手がぽんぽんと私の髪を撫でた。そして、
「これ、貰ってもいい?」
「え、私の名刺?」
「うん。欲しいな。ダメ?」
ダメなんてことはないけど。
でもますます照れてしまった私を置いて、直人さんは突然立ち上がり、名刺を手にしたまま洗面所に行ったかと思ったら、にこにこと笑顔を浮かべて戻ってきた。
私の隣にまた腰掛けた彼を、私は不思議な気持ちで見上げていたら、直人さんは笑みを深めて名刺を鼻先に当てた。
そしてそれを、私に差し出す。
何だろう? 意味が分からないまま、それを受け取り、直人さんのしていたように、名刺を鼻先に当てると、嗅ぎなれた香りがそこから漂ってくる。
「……私の、香水?」
その正体を言うと、直人さんは大きく頷いて私から名刺を受け取り、嬉しそうに自分の財布にそれを入れた。
名刺入れじゃなくて、お財布に。
それを鞄に仕舞い、直人さんは手を伸ばして私の肩を引き寄せた。
「まどかちゃんが、いつでも俺のすぐ傍で、応援してくれているって思える」
「直人さん……」
「財布を取り出すたびに、きっと幸せな気分になって、一人でニヤけちゃうかもしれないな」
そう悪戯っぽく笑った直人さんに、ぎゅっとしがみ付いた。
いつでも繋がっていたい。傍にいたい。
そう思っているのが私だけじゃないと、再確認出来た。とても、嬉しい。
私の肩を抱き寄せた手のぬくもりは、離れることがない。優しく何度か私の腕を撫で、その手が私の髪、首筋、頬、それから耳たぶに触れて。
ドキドキしている私のもう一方の耳に、熱い吐息が掛かり、私はドキドキが更に膨れ上がった。
「……まどかちゃん、もう寝ようか」
その言葉の意味を知り、私は真っ赤になりながら、小さく頷いた。
他の誰のためでもない。ただ、あなたのために。
私は昨日よりも、綺麗になれたかしら?
その答えを教えてくれる、熱い囁き。
「可愛い。愛してる、まどか……」
明日も頑張ろう。
今日よりももっと綺麗になれるように。
外見だけじゃなく、中身も。
あなたの傍で、胸を張っていられるように。
直人さんの彼女になれて、本当に幸せ。




